三月に降る雪

 静寂の中で、暗幕は切り開かれた。

眠気の残る夜行バスの静寂の中で、運転手のしゃがれた声が車内に鳴り響く。外は全ての生命が死に絶えた後のように白く、俺のよく知るコンクリート色の道路の隅には薄汚れた雪が小さな山になるよう集められていた。俺は、一面の白い雪景色がここまで明るいものだとは知らなかった。つい先程まで安眠のための暗幕が張られていたのもあってか、その白色が目に突き刺さってくるような錯覚を覚えた。

バスは市街地に入り、青森駅の前に至って到着を告げる。バスを降りた俺は寝ぼけ眼を擦りながら、駅の蕎麦屋で適当な品目を選び、それを啜った。その後に、静岡とは明らかに違う断熱用の重々しい扉を備えたトイレの鏡の前で歯を磨き、髭をそった。

函館へ向かう特急列車が来るまでの間、駅のホームにある暖房のついた待合室で今後の予定を確認する。現地の案内人と合流した後に、今後三ヶ月の間住むことになる部屋に入る。それ以降は現地支部の社員から要求される仕事をこなしていくことになる。俺が今勤めている会社は元々函館で設立された船舶に関連する会社で、静岡に支部を持っている。この小さな百人未満の会社に、有名大出身の俺が入社し、同期で一番の業績を上げると、会社の上層部は新人である俺を何とか昇格させようと躍起になり、そこで角が立たぬよう一度転勤させ経験を深めた後に昇格させようと考えたらしく、色々な無理を生みながらも俺を函館へ送り込んだというわけだ。

この無理矢理な転勤で、俺は恋人を静岡に置いてけぼりにするはめになった。大学時代からの恋人で、結婚を約束している彼女は、氷を溶かす太陽のような満面の笑みが魅力的で、どちらかと言えば陰気な部類になる俺の方が惚れ込んで、付き合うようになった。今回の転勤も、彼女は全く曇る様子のない表情で許諾してくれた。どちらかと言えば、平気でないのは俺の方で、心の太陽である彼女から離されて生活する三ヶ月のうちに、その冷たい寂しさの中で俺は氷漬けになって、凍え死んでしまうような気がしていた。


 ■ □ ■


函館へ転勤してから一ヶ月が経過した。

職場の人々も俺が栄転のために転勤させられているのを知っているようで

「これから、頑張ってくれよ」

 と、温かい言葉をもらうようなこともあったが、そんな言葉も俺の心の太陽が側に居ない今では、冷え切った手をお湯に晒した時のような、鈍い温かみのようにしか感じ取れなかった。

一ヶ月も居れば、職場の人から行きつけの居酒屋を教わるようなこともあったが、寧ろ退勤後は仕事と関わりたくないと思っていた俺は、最寄りの路面電車駅近くの小さな居酒屋に足繁あししげく通っていた。俺はそこのカウンター席に座り、一杯目はビールを。二杯目以降は常温の日本酒を少しずつ飲むのが決まりだった。

この日も俺はいつもの居酒屋で、いつものように日本酒を飲んでいた。ただし、普段と違うのは、隣に居る客が美しい女性だったことだ。白磁のような肌と綺麗な黒髪の先に少しだけカールがかかっている、どこか冷たさを感じさせる美人だった。

女性は、その白い肌を赤く染め、ジョッキに残ったハイサワーを見つめながら、うっすらとその瞳に涙をたたえていた。何か引っ掛かるようなものを感じた俺は、その女性に声をかけた。

「なんで、泣くのをこらえているんですか」

 今考えれば、初対面で言うには無礼な言葉だったように思う。けれど女性は嫌がりもせず、ただ滔々とその涙の理由を語り始めた。

「大学生の頃から付き合ってた男がね。私と一緒に函館に住むって言ってたの。でも、彼はずっと。ずっと来ないの。いくら待っても。電話、メールにも反応しない。滑稽よね」

 そう言って、女性は指でもって瞳の涙を拭った。

「どうせ……私なんて、冬に咲く華でしかないのよ」

「どういうことですか?」

「私の名前。冬華とうかっていうの。冬の華って書いて、冬華」

 俺は、その名前の語感と女性の印象が、奇妙なほど一致しているように感じた。

「でも、冬華さんは綺麗ですから」

 俺の、何の慰めにもならない言葉を聞いて、冬華は口の端をすっと上げて、妖艶な笑みを浮かべ、言った。

「なら……冬の華に、恋してみる?」


 ■ □ ■


 その晩、俺は何事もなかったかのようにワンルームの住居へ戻った。だが、その日の夜に、俺は美しい女性とまぐわう夢を見るようになった。それは処理をしても収まらず、尚たちが悪いのは、その女性が果たして婚約者なのか、それとも冬華なのかが分からなかったことだ。

俺は、恋い焦がれるように冬華のことを思った。昼間の陽だまりを見て、婚約者の彼女を思い出し、夜の冷たさからは冬華の存在を見出したのだ。そして、神が偶然振ったサイコロは奇妙な目を出したらしく、俺と冬華はとある日の路面電車の中で再会した。

「……冬華さん、でしたよね」

 私が言うと、冬華は美しげな微笑を浮かべた。

「あの時の方ですよね。すいません。私、酒癖が悪いようで」

「いえ、いいんです……それより、冬華さん。この後はお暇でしょうか」

 大学生時代の俺が聞いたら、腹を抱えて笑ってしまいそうな青年じみた誘いにも、冬華は応えてくれた。

その日から俺と冬華は、週に何度か逢う間柄になった。傷心の冬華との逢瀬のたびに俺は、北の地の寒さの中にある温もりと美しさを知り、その冷たい熱の心地良さを理解しながら、その冷熱を認知するたびに本来の住処に取り残していったままの太陽を求めざるを得なかった。

彼女の指は冷たかった。その冷たさについてある日、喫茶店で冬華に問うと

「私、低体温症なの」

 と答えた後に、冬華は手袋を脱ぎ、その手を俺に差し出した。

「手袋つけても変わらないの。嫌になるわ」

 その手はまるで、氷のように冷たかった。俺は、冷凍室でしか咲くことを許されない氷細工の華を頭に思い浮かべた。

「どうして、手を離すの」

 俺は言った。

「冷たくて、君の手が溶けてしまうかと思って」

 すると冬華は、解いたその手を握り直し、恋人同士のように絡ませ、答えを返した。

「いいのよ。溶けたって」

 握った手をそのままに、俺は冬華の顔を近くで見つめた。冬華は、その切れ長の目を細く閉じる。俺達はこの日、初めてキスをした。


 ■ □ ■


「三月になったら、俺はこの街を出なければならないんだ」

 俺がそう告げた時も、彼女の氷は溶けなかった。寧ろ、しんしんと降り積もる雪のように、可憐に笑った。

「そう。分かっていたわ」

 冬華は、俺の太陽の存在を知っていて尚、俺と共に居ることを選んでくれた。愛してくれていた。俺も愛していた。けれど、美しく冷たいその華が溶けはしなかった。

その日一度だけ、俺と冬華は床を共にし、一夜限りの夢を見た。着痩せするらしい冬華の胸は大きく、ほんの少しだけ垂れていた。すっと締まった胴回りの先には大きめのお尻が見え、恥部の茂みは短く切り揃えられていた。太ももは膝に至るまで緩やかな線を描き、対照的にその脚はしなやかだった。

「綺麗だ」

「そう、なら良かった」

 その夜、冷たかった冬華の身体の奥の熱を感じ取った。部屋の寒さと異なり、俺達は肌と肌をすり合わせ、熱く交わった。

別れの日。俺は昼に出向する津軽海峡フェリーに乗って青森に戻ることにした。凍えてしまうとすら思ったその雪が、今や俺にとっては恋しいものの一つとなっていた。その雪を、最後まで楽しむため、俺は海上を往くフェリーを選んだ。

「さよならね」

 港の前でそう言った冬華に悲壮感はなかった。俺は、後を引かれぬよう早くにフェリーに乗り込んだ。

出発間際。俺はフェリーのデッキに登り、港を望んだ。フェリーが出港の汽笛を鳴らすと、冬華は踵を返して帰ろうとした。俺はその様子を見て船内に戻ろうと三歩ほど歩いて、もう一度港を見た。冬華も、同じように俺を見ていた。

「ありがとう」

 そんな言葉が聞こえてきそうな笑顔で、冬華は手を振って俺を見送ってくれた。その時、俺は初めて、冬華の心を溶かせたような気がした。その後、津軽海峡半ばに差し掛かっても、俺はまだデッキに居た。

俺は服の袖に積もった雪を心の中に積もる白い罪悪感と重ねながら、雪雲に隠れる太陽と、郷里では見ることのない三月に降る雪を、名残惜しく見つめていた。

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