灰色の故郷

 雪が、降っていた。炭の煙と粉に汚された、灰色の雪が空から地へと、降り積もっていた。

作業着を着た父はその中をゆっくりと、雪混じりの泥になった地面をならすように、歩いている。母は白い割烹着を着て、父の背中を見送っている。

そして、その様子を私は、汽車の窓から、じっと見つめていた。


はっとして、目が覚めた。

列車はカタン、カタンと一定のリズムを刻み、車体を揺らしながら、雪の降り積もる線路の上をひた走っていた。

私は、自身の顔を手で触れて、自らが何者であるか考えた。薄くなり始めた頭頂部。目尻にたまった皺。力なく垂れる頬。そして、反対側の窓に映る、呆然とした顔の男性。

そうだった。私だ。中年を迎えた、しがない一人の男だ。長い間、私は電車に乗っていて、窓から伝わる外の寒さと暖かな車内との寒暖差にあてられて、眠りこけていたらしい。

「嫌な、嫌な夢だ」

 言って、私は額に浮かぶ汗をコートの袖で拭き取った。

車内には人っ子一人居ない。ただ私だけが座り、窓の向こうにある雪原を見つめていた。

私は、北海道にある炭鉱村に生まれた。父は私が物心ついた頃からずっと炭鉱夫をしており、母が家をその細腕で守り続けていた。村は閉鎖的で、周りを山と川に囲まれた陸の孤島だった。唯一、物資と僅かな人を運ぶ汽車のみが、外界との繋がりであった。昼の間中ずっと多数の煙突から黒煙があがり、煤を撒き散らすので、冬の地面に降り積もる雪すら薄黒く汚れていた。

この故郷の村が、私は嫌いでならなかった。山の向こうで起きるあらゆる物事が別世界のように感じ取られ、子供の時分には、ただただ閉鎖的で息苦しかった。

私がその灰色の故郷へ里帰りしようという気になったのは、今私を取り巻く環境が、あの頃の村と同じようになったしまったからだ。

長く勤めていた会社が、倒産した。

バブルが弾けて以来、きっともう長くはないと思われた。それでも漠然と、私は会社で働き続けていた。

「我が社には長い伝統と誇りがある」

 それが、社長の口癖だった。しかし残念なことに、伝統と誇りだけでは、金を稼ぐことが出来なかった。

そうして、会社の倒産によって時間が出来た私は、一度里帰りしようと考えた。

電車はやがて目的地の駅に着く。私の故郷へ続く列車は、その駅から出ているのだ。


 私の家では、夕食によく塩焼きの鮭が出た。肉体労働者である父のために、表面に粒が見えるほど塩をつけるのが習わしだった。その時、私と母には一切れの、そして父には二切れの鮭が出た。

その他に出たのは漬物と玄米に、具の少ない味噌汁のみで、育ち盛りの私には到底足りたものではなく、私は父の鮭をねだった。

その時、普段全く怒ることをしなかった母が、思い切り私の頬をぶった。

「そったらはんかくさいこと言うでねえ!」

 母に叱られたという事実にショックを受けた私は、泣いて父を睨んだ。父は黙り込み、味噌汁を啜っていた。

私はその後、母が父に作る弁当の中身を見ようとした。私よりも一切れ多く鮭を食べられる父は、昼もきっと良いものを食べているに違いないと思ったからだ。

しかし、その中身は、私の予想とは大幅に違っていた。

傷で摩耗したアルミ製の弁当箱の中に入っていたのは、付け合せ一つない、玄米ご飯だけだった。


「くそ……馬鹿にしやがって。くそ」

 私は、コンビニで買った安酒を何本も、足元がふらつくほど、したたかに飲んでいた。

 屈辱的だった。

私の故郷は、既になくなっていた。駅員に村の名前を言うと、まるで狂人を見るような目でこちらを見ながら、そんな駅も、そんな村も存在しないと言った。

「おりゃあもう天涯孤独なんだ。帰る場所なんて、ありゃしねえんだ……」

 世界がぐるぐるとまわる。それが酔いによって齎されているものなのか、実際に自身がその場をまわっているのか、判別がつけられない。

そのうちに足がもつれて、私は思い切り尻餅をついた。

「馬鹿野郎。なんだってんだ!」

その私の横をすれ違う誰かが言った。

「うるせえなあ。東京モンが」

 私は叫んだ。

「俺は東京モンじゃねえ。俺にはなあ、俺にはあったんだよ……故郷がよお」

 私は酔っ払ったまま、廃線となった線路に立ち入って、それに沿って歩き出した。みぞれ混じりの雪が、錆びついた線路を濡らしている。

「この向こうで、向こうで俺は生まれたんだよお。俺は、俺は東京モンなんかじゃねえ」

 周りは草木しかない。人の気配すらない。それでも私は、その上を歩いていった。

進むごとに、積もる雪は増えていく。空は曇り、街灯一つ無い線路上は暗く、音もせず、まるで全てが死に絶えてしまったかのようだった。

もはや、酔いは覚めている。それでも私は歩き続けていた。

「故郷は、あるんだ。あるんだよ……」

線路はやがて、トンネルに差し掛かった。


 ある時、父が暮れになっても帰ってこなかった。青ざめた顔で心配する母を横目に、私は呆けた顔で空腹を訴えていた。

その日、炭鉱で小さな事故があった。地下の天井の一部が崩れてしまったのだ。

帰ってきた父は重く、静かに言った。

「四人、生き埋めになって死んだ」

 それを聞いた母ははっと息を飲み、私は身震いを起こすほど恐怖した。

狭く暗い鉱山の中、天井が崩れ、岩が落ち、生き埋めになり、痛みの中で窒息死する様子を私は想像してしまった。

ごめんだと思った。そんな死に方だけはしたくないと思った。その何日か後に私は、汽車の貨物車に忍び込み、村を抜け出した。


 トンネルの中は光一つなく、暗闇で埋め尽くされていた。私はその中で一歩踏み出すごとに石を踏む音が中に響き渡る。私はまるで、トンネルの闇の中を泳いでいるような、そんな感じがした。

「母ちゃん。すまなかった」

 私は言った。そう言って、泣いた。北海道の、針で刺すような鋭い寒さが、容赦なく私を貫いた。それでも、私は泣きながら、トンネルの中を歩き続けた。


私は、身も心もぼろぼろになりながら、長い長いトンネルを抜け出した。

その先では、雪が降っていた。線路の上に降り積もる雪は薄黒く、汚らしい。まるで、私の故郷の雪のようだった。

「嘘だ……嘘だろう」

 私は、自身の目を疑った。その様子は幻想的で、悪夢とも区別のつかぬ夢のようだった。

駅があり、購買がある。かつて私の通った、小さな小さな学校も、霜柱の浮く空き地も、そして、私の生まれ育ったあの家も。

玄関には作業着姿の父と、寄り添うように立つ母の姿。

「親父! 母ちゃん!」

 私は父母の目の前に蹲り、大声で泣いた。確かに故郷はあった。どんなに嫌っていても、私には故郷があったのだ。

母は言った。

「あんた、どこ行ってたっぺや。心配してたんだよ」

「すまん。すまんなあ母ちゃん。俺、この村が嫌いだった。嫌いで嫌いで出ていった。でも、戻ってきた」

 私の言葉に、父が答える。

「故郷っつうのはそういうもんだ。嫌いでしようがなくって、そこから逃げていっても、消えてなくなりはしねえ。故郷は、ずっと故郷だべや。俺も結局ずっと、この村にいたさ」

「すまんな、親父。小さい頃の俺には分かんなかったんだよ。故郷の意味が、その大切さが、その温かみが……」

 母は言った。

「もういいさ。そりゃあもう終わった話だ。だから……さ、お上がり」

 母の、あかぎれだらけのその手が、玄関の戸を開けた。そこには、あの日、あの時とまるで変わらぬ私の生まれ育った家があった。

「お前の生まれた家だ。遠慮はいらねえよ」

 父は言った。私はその言葉に、何度も、何度も頷いた。

私は今確かに、あの灰色の故郷へと戻ってきた。色彩豊かな、あの故郷へと。

湿ったコンクリートをむき出しにした玄関に足を踏み入れ、私はとうとう、こう言った。

「……ただいま」

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