青春浪費
1
電車が警笛を鳴らし終着駅へと辿り着く。
このままこの電車は回送になり、また明日の仕事に備えるために休まされるのだろうか。それともまた行き先を変え、真夜中まで仕事をさせられるのだろうか。
「もっとも、それが分かるほど私って電車に詳しくないんだけれど……」
ちょっと前に、鉄道マニアを自称していた同級生なら分かるのかなと思いはしても、恐らく聞くことは出来ないだろう。もはや私もクラスのみんなも、受験のために青春を浪費している。息も白くなる冷たい駅のホームで私はそんなことを考えていた。
しかし、幸いにも我が家の両親はそこまで大学に対してこだわりがあるわけではない。寧ろ私に対し、度々こう語ってくるのだ。
「無理して大学に行く必要はないわ。家計が苦しいわけじゃないけど、高卒で就職したっていいのよ?」
母さんの母、私から見ればお婆さんにあたる人はとても厳しい人で、有名大学への受験を強要されたそうだ。結局、母さんは折角努力して入学した有名大学を中退し、親から反発するように一人暮らしを始めた。その時のバイト先に出会ったのが、今の父さんだったらしい。
父さんはその頃の話をこう振り返る。
「若くて可愛い子がバイト先に居たもんだから話しかけたくなったんだよ。いざ付き合ってみれば気は強いし、しかも年上で本当に驚いたね。若くないじゃないかって」
その日、父さんに対する母さんの態度が若干冷たかったのは気のせいではないと思う。
私は到着した電車に乗り、何となくシートの端っこに座る。足元から暖かな空気が淡くゆらぎ、その優しい温度に眠気を誘われる。電車内は閑散としていて、座っている人もまばらだ。何でか知らないけれど人気のある端っこに座れたのも、それが理由だ。
何故人気があるのかと疑問に思ってはいるけれど、確かに私もシートの端っこが好きだった。私にとっての理由は簡単で、人には寄りかかりたくないけれど、手すりなら気楽に寄りかかれるから。そのように私は普段通りにその鉄の棒に寄りかかり、窓に映る景色を見た。景色は夜の闇そのまま。たまに見えるビルや幹線道路を横切る時だけばっと明るくなる。
その明かりを見て、前に視聴した覚えがあるテレビ番組を思い出した。その番組いわく、宇宙から撮った航空写真で見ると、日本列島はとても明るく、アフリカは真っ暗なのだ。それを見た人は口々に、日本の人は贅沢だ、なんて言っていたのが印象に残っている。
でも、私はそうじゃないと思う。
私みたいに大したところへ行こうと思ってない人でも、やっぱりそれなりに勉強しなきゃいけない。もしかしたら、私の頭が悪いから人一倍勉強が必要になってるのかもしれないけれど……それでもやっぱり、有名な大学やもうちょっと上の大学に行く人達は私なんかよりよっぽど多く勉強していると思う。みんなでそんなふうに勉強して大学に入って、大学の中でもやっぱり勉強。大学のお勉強の次は、社会の勉強。沢山の人の中から、自分を選んでもらわなきゃいけない。そのためにまた勉強をする。就職が出来たら、今度は会社の勉強。気に入らない上司のおじさんに頭を下げ、召使みたくお茶を出して、それでお金を貰う。そういう人生を歩むのが普通なんだろうけど、それが贅沢なのかな。私からしてみれば、自分たちの食べ物だけを作るかして、あとはぼおっとしていたい。でも、その望みは今の状態では叶えられるものじゃない。小さな子供の夢のような無茶な夢でもない。ただゆったりと暮らしたい。そんなささやかな望みも叶えられない世の中で、いわゆる普通の人生を歩んでいく事、それが贅沢なの?。それこそ、さっき車窓から見たビルの、電気がついていた階の人達みたく残業なんかしちゃったらきっとお金を使う時間なんてない。生きるための働くのか、仕事のために生きているのか、分かんなくなっちゃいそう。
でも、それが普通。普通なんだ。
だから私には今勉強が必要だし、そうしている。きっと、みんなだってそうなんじゃないかな。
2
その日、普段勉強に邁進するクラスメイトたちが、何故かそわそわしているような気がした。高校の中だけかなと思っていたが、受験勉強のためにある予備校の中ですら、その雰囲気があった。何でだろう、今日は特別な日なのかな。予備校での授業を終え外に出ると、淡く雪が降っていた。私がそれに気付いて立ち止まると、横を通り過ぎた二人組の女子からこんな言葉が聞こえてくる。
「わあ、今日はホワイトクリスマスだね」
私はすぐさま折りたたみ式の携帯電話を開き、日にちを確認する。十二月二四日。
そうだ。今日はクリスマスイブなんだ。
今日一日のクラス、予備校の中でのあの雰囲気はそれが原因だったみたい。それに気付いた私は少し悔しくなり、歯噛みした。何よそれ、私だけまるで受験の亡者みたいじゃない。
同級生だって、私達受験生やってますなんて素振りをしておいて、なんでクリスマスになってそわそわするのかな。私の予想がもしあっているのなら、みんな青春の浪費なんかしていない。
みんな、青春を謳歌してるじゃない。
私が同級生の全員に勝手に感じていた、受験という不幸の共有。それが容易に、ものの見事に崩れ去ってしまった。私は衝動的に母さんに電話をする。母さんはツーコールで電話に出た。
「なあに。どうしたの?」
母さんは、いつも通りの調子で言う。
「今夜、帰り遅くなるかも」
小声で言った私に、何を思ったのか母さんの声に感情が篭り始めた。
「あらあら、こんな日に帰りが遅くなるなんてお母さん嬉しいわ」
その返しに、私は苦々しい思いをした。
「ねえ……少しは心配とかしてくれてもいいんじゃない?」
あははと軽い笑いが電話越しに聞こえた後に、母さんは言う。
「高校最後の学年にもなって心配なんてしないわ。寧ろ、本当に嬉しいのよ? 受験ばっかりで気張ったって、合格以外にいいことなんて何も起こらないんだから」
母さんの気持ちも分かるには分かるけど、あんまりな物言いに多少いらつきを覚えた。
「じゃ、とにかく遅れるから。いい?」
「何よ、不機嫌になっちゃって。いいわよ。足滑らせたりしないようにね」
「分かってる!」
そう言って、私は電話を切った。でも実際のところ私は、連絡を終えてから半分後悔していた。
「行きたい場所……別にないのよね」
白い雪を降らす真っ暗な空は、私の独り言に何一つ言葉を返してくれない。結局、私はクリスマスの雰囲気を味わいたいというそれだけの理由で、定期券の範囲内のターミナル駅で途中下車した。
高校に入ったばかりの頃は友達と駅の繁華街でよく遊んでいた。しかし、受験勉強を始めたのを境に友人たちとは疎遠になり、遊びどころか話すこともなくなってしまった。別に悲しいわけじゃない。小学校の時の友人も、中学の友人も、学校が変わると疎遠になってしまった。卒業したあともまた遊ぼうね、なんて言っても結局疎遠になってしまった。そうなった時に私は一度目に友達を薄情だと思い、二度目は私自身が薄情なんだと思った。そうして高校に入った時はもう、多分今度も疎遠になるだろうなと考えていた。そんな私の予想が、思っていたよりも早く現実になった。それだけ。一期一会という言葉があるけれど、私にとって友人はまさしく一期一会になってしまっている。同級生に聞いてみると、みんなそれぞれ一人か二人付き合いの長い友人が居たのもあって、自分が薄情なんだと確信した。きっと、別れていったみんなもそれぞれ行った先で友達が出来て、楽しい青春を送っている。昔友達だった私が今更絡んだって迷惑なだけ。そう思うことで、私自身のことから目をそらしている。
駅前は、いつか来た時よりもずっと多くの人が居た。それはもう、歩くだけでも若干辛いぐらいで、私は耐えられず地下へ入った。
実はこの地下モールがちょっとした抜け道になっていて、もっとも人の多い場所を避けられる。そうやって人ごみを避けたはいいけれど、出た先も多少ましなだけで、やっぱり人は多かった。沢山のキャッチセールスやティッシュ配りを無視し私はただ街の喧騒を見つめながら歩き続けた。街はカップルが沢山居て、中には制服のまま来ている人も居た。カップルじゃなくても、同性の友人同士で談笑しながら歩いている人たちも居る。
疎外感を覚えた私は大きなゲームセンターに入った。そこにあったのは一時期よく遊んでいたUFOキャッチャー。可愛い景品を見かけるたびにお金を入れたけれど、毎回千円ぐらい使ってしまう。自分が散財していることに気づいた私は、それ以来UFOキャッチャーで遊ぶのをやめた。しかし今私の目の前には、色々な景品が入ったいっぱいのUFOキャッチャーがある。沢山あるUFOキャッチャーの中には私の好みの景品もあったけれど、結局取れないと考え、諦める。
「……やめよ」
一瞬、一回だけやろうかと考えてしまう。
ここに居るのは危険だ。名残惜しさに欲しい景品をちらと一瞥してから、私はゲームセンターの地下階に足を運ぶ。地下階には格闘ゲームやアクション、シューティングゲームがみな似たような白い機械に収まっている。
私はこの白い機械を他の場所であまり見かけないので、珍しいなと思った。他のところでは機械が同じなんてことはなく、大小の差はあれ、皆違う機械にゲームが収まっていた。
白いのは新しいゲームの規格なのかな。私はゲームにあまり興味がないから、そんなのは全然知らないのだけれど。格闘ゲームの並ぶ場所で、一人の男性が機械についているレバーをがちゃがちゃと操作している。そうしているうちに座っていた男性は軽い舌打ちの後、その場を去った。どうやら男性は勝負に負けたらしい。何となく、勝利した方のプレイヤーがどんななのかを知りたくて、私は機械の反対側を見に行った。
「あ……」
プレイヤーの服装を見て、私はぎょっとする。私の通っている学校の制服だ。ここで同じ学校の人間に会うのはまずい。
何故なら、私の通う高校では暗黙のルールとしてゲームセンターで遊ぶのが禁止されている。校則でもなんでもないので、実際の拘束力は一切ない。だけれど、夏・冬・春の休みに入る時、教師たちは毎年のようにゲームセンターでの遊戯を控えるようにと話す。確かに、あの高校でゲームセンターに入り浸るようなのは大概不良。それが理由で私は高校付近のゲームセンターには近寄らなかった。でもまさか、こんな場所で同じ学校の生徒に出会ってしまうとは。そんな時、頭の中で一つ閃いた。
いや……私は悪くない。
思いついたのはまるっきりの詭弁で思わず苦笑してしまう。けれど一応理屈は通る。屁理屈だけれど。それを思いついた私は安心しきり、男子生徒のプレイをじっと見つめていた。やがてプレイが終わったのか彼はその場で立ち上がり私の方を向き、目と目が合った。男子生徒は目を丸くし、呆けた顔で私を見る。
私は彼に、いたずらっぽく言葉をかけた。
「いーけないんだ」
驚きと苦笑を混ぜこぜにしたような顔で、男子生徒は言う。
「お、お前も同じだろ?」
「いいえ。だって私は『遊んでない』もの」
あくまで、禁止されているのは遊ぶことであって私のようにゲームセンターに入り中を見るぶんにはいい。……詭弁だけれど。
「ひっでぇ、それ詭弁だぜ?」
「分かってるわ。でも、あなたは遊んでた。そうでしょ?」
苦虫を噛み潰したような顔で、男子生徒は返答した。
「いやまあ、そうなるけれどさあ」
「なら、お互い秘密にしておくのが最善じゃない?」
男子生徒をいじめるのに満足した私は、そんな提案をする。
「まあ、それがお互いにとって良いことではあるな」
「でしょう?」
「……でも、これって口封じって言うんじゃ」
「物騒な言い方しないでよっ!」
「ああ、うん」
「……」
二人の間に、沈黙が訪れた。会話はなくても、そこらじゅうからゲームの音がやかましく鳴っている。
「取り敢えず、出る?」
「そうしよっか……」
3
「君、何年?」
表の喧騒から少しだけ離れた裏通り。表通りの無茶苦茶な明るさと違い、裏通りはあまり電光看板も置かれておらず、街灯だけが頼りげなくぼんやりと光っていた。私たちはその裏通りにあったベンチで座り、互いを横目に見ながら話をしていた。
「三年、だな」
「えぇ、それじゃ受験じゃない! 遊んでていいわけ?」
嫌味のつもりで私は言った。今になって考えてみれば、彼一人に対して私はクラス全員分の嫌味をぶつけてしまったのではないか。そう考えると、少し酷だったのではないかと思う。
「だってさ、専門学校だから。AO受験で夏休み明けには決まっちゃったんだ」
別に、こう話している彼の表情が得意げだったわけではない。けれど、私にはその口調がなんだか偉そうに聞こえてしまい私は面白くない気分になる。
「あっそう」
「なんだよ、その言い方。俺が悪いわけじゃないだろ」
「だってそんなの、受験勉強真っ最中の私からすれば嫌味みたいなものだもん」
すると今度は私の方を見て、本当に得意げな顔で返答をしてきた。
「で、その受験生様が今クリスマスイブの夜中になんでゲーセンなんかに居たわけ?」
痛いところを突かれ、思わず私は彼から目を逸らした。
「……まあいいけれど。黙ってればいいんでしょ? 黙れば」
「そうよ。その通り」
「でさ、その……」
「なあに?」
彼が何か聞きたそうにしているので、逆に私のほうから質問してみる。そうすると一つ、彼から質問が返ってきた。
「君の名前は?」
彼に教えていいものかと逡巡しはしたものの、わりかしすぐに私は自分の名前を彼に伝えた。彼も同様に名前を教えてくれた。
その後、彼と他愛のない身の回りの話をした。彼はパソコン方面の専門学校に行ってシステムエンジニアを目指すそうだ。そのための受験も夏に終え、今では学校帰りの暇潰しにゲームセンターへ寄るのが日課なのだそうだ。
「つっても、ゲームセンターは結構前から通ってるんだけどな」
「なにそれ、まるで不良みたいじゃない」
言うと、彼は小さく笑った。
「はは、最近じゃ不良どころか人が少なくてヒーコラ言ってるのがほぼ殆どさ。それこそ、不良が居る場所なんて噂がたてば客が一気に減るだろうね」
「でも、学校近くの薄汚いゲームセンターはまだあるわよ。それはどうなの?」
うちの高校内でゲームセンターのイメージが悪いのは、間違いなく今言った店が原因だろう。そのゲームセンターは商店街の裏通りにある小汚い雑居ビルに入っている。店の前を通った時に聞こえる奇声や怒声に加えて、入っていくのはうちの高校に居るのも含めた見た目で分かる不良ばかり。高校内でゲームセンター通いがそれ即ち不良と繋がってしまう理由がそれなのだ。
「だから俺はこっちのゲームセンターに行くのさ。あそこに比べればこっちのはいくらかクリーンに見えないか?」
「まあ、あっちに比べればね」
そう言いながら、私は自分の質問を上手くはぐらかされたことに気付いた。
「じゃ、俺はそろそろ帰るよ」
言って、彼は立ち上がった。
「え、あ、そう?」
「ああ、そうする」
「…………」
なんとなく、私は彼の顔を見つめていた。
すると彼は目をそらし、一言。
「じゃあな」
と言い、その場を去った。その後ろ姿を見送った後、私も帰路についた。
4
そうして私の青春と呼べない高校生活最後のクリスマスはあっさりと終わりを告げた。
流石に予備校も大晦日と元旦から数日は休みになっている。そこで父は父方の田舎への帰省を母と私に提案した。母は父方の祖父の顔を思い浮かべたのか柔和な笑みを浮かべ、父の提案に同意する。私は私で、不躾ながらお年玉目当てにそれを承諾。田舎へ帰省することが決定した。出発は元旦の日の朝で、午前中はずっと車の中に居たような気がした。我が家の父親は休日しか運転しない典型的なサンデードライバーなので、そのスピードも非常に遅かった。何せ、隣県にある父方の実家についた頃には、もう既に午後になってしまっていたのだ。父方の実家は既に何人かの親戚が集まっているようで、賑やかな雰囲気が外にまで伝わってくる。父は、まるで場末の居酒屋のような暖簾のある玄関を開き、自らの名前を告げる。すると、父親の兄弟の何人かが現れて、私達に新年の挨拶をした。それに対して父も母も頭を下げ、私もそれに倣ってお辞儀し、新年の挨拶をする。
「あらあら、礼儀正しい子ねえ」
私は親二人の真似をしただけなのに、親戚のおばさんはそう言い、目を細めた。
「まったく、世話がかからなくって親の甲斐がないくらいですよ」
父は軽く笑い、母もまたしとやかに笑う。
……二人共、普段はこんなに上品じゃない。
勿論、そんなことは絶対に口にしないけれど。
「さあさあ、そんなところで話したって寒いでしょうから。もうみんな来てますよ」
親戚のおばさんにそう言われて、父は少し顔を赤くした。きっと、自分達が遅れてきたことを恥じているのだろう。普段から車の運転をしていればこうはならないのに。まあ、今言っても仕方がないんだけど。
親戚の人に誘われるがままに、私達は大きめの部屋に案内される。何度か増改築したらしい父の実家は、外から見ると不自然な形に見えるが、中に居るぶんには変な感じはしない。部屋には既に七人ほど親戚の人達が集まっていて、背丈の低いテーブルの真ん中にはスーパーで買ってきたらしい刺身やオードブルがあった。私達はかろうじて空いていたテーブルの端の辺りに座り込む。それから、父さんと母さんは親戚の人達とお酒を片手に話し込んだ。話の内容が分からない私は、はしたなく見えない程度に食べ物をつまんでいる。
そうしてやがて、親戚と父母の話題は私と他の親戚の子供たちに向かった。
「そういえば、兄貴のとこの娘は今年受験なんじゃないか?」
父に対して問う親戚の人は、恐らく父の弟なのだろう。父の実家は兄弟がとても多くて私なんて何人兄弟がいるのか把握出来ない。
「ん、ああ。そうだな。でも一生懸命勉強してるし、そんなに心配はしていないんだ」
「でも、私としてはもうちょっと遊んだりしてもいいと思うのよね」
母さんは、相変わらずそんなことを言う。私が頑張って勉強しているのをよく思ってないわけじゃないんだと思う。ただ、母さんの中には未だに受験を強要されたのが納得いってなくて、私にはそうなって欲しくないと思ってる。それくらい、少し考えを回せば分かる。分かるんだけど……。
結局すぐに話す内容は移り変わり、その時に感じた不快感を解消する機会もなかった。
食事を終え、その後も親戚一同で雑談を続け、私は黙ってじっと座り、その日は終わった。
あとは帰り道、無茶苦茶な渋滞に巻き込まれて不快に思ったことぐらいしか覚えていない。
5
「っていうことがあったんだけど、どう思う?」
「あー聞こえない。ゲーセンじゃ何言ったって聞こえねえよ!」
そう言った彼の声はよく聞こえたが彼に私の言葉は聞こえなかったようだ。そしてどうやら彼は勝負で負けたらしく、席を立つ。彼は何とかして私に相手が如何に強かったかを説明しようとしてくれたけれど、私には全然理解出来なかった。
「いやそうだな。興味ねーよな普通。ごめんごめん」
やがて彼は諦めたのか、この言葉を最後に説明をやめた。
「まあ、私はゲームやんないしね」
小学生の頃に少しやっていたぐらいで、中学生になった辺りからゲームをやらなくなった……そう考えると私は中学、高校と趣味と呼べるものがないような気がしてきた。
「ああ、そうだ。ゲーセンで何か言ってたけど、全然聞き取れなかったんだよ。あの時何の話をしてたんだ?」
そう聞かれて、私は正月にあった出来事を簡単に話した。話しても仕方ないし、誰かに聞いてもらいたかっただけで返答は期待していなかったが彼はすぐに答えをくれる。
「そりゃあ。親の心子知らずの逆で、親だって子供の心を知り尽くしてるわけじゃないってことじゃないか?」
「確かにそうだけど。でもやっぱりなんかイラっとくるのよね。私が頑張ってるのにそれをなんか馬鹿にしてるみたいで」
「うーん、そうだな。君が頑張ってるのを母さんに褒められたいのか?」
「え?」
そんなの、考えたこともなかった。
「……うーん、そう……かも」
言いづらくする私を見て、彼は笑い出す。
「ははは、私を褒めろーなんて言えたもんじゃないから恥ずかしいよなそれは。分かる分かる」
「もう! 馬鹿にして!」
「馬鹿にしてるわけじゃないって!」
「本当? 気遣って言ってるんじゃなくて?」
「……まあ、それなりに気は遣ってる」
「ほらー!」
言って私は、彼を横目に睨む。その後の彼との会話は今までのに比べれば他愛のないもので、その日も彼が先に帰る流れになった。
6
それからまた予備校が始まり、去年と変わらない勉強まみれの日々が訪れた。予備校にはクリスマスの日のような浮かれた雰囲気は勿論なく、寧ろ修羅場と言った方がいいくらいに張り詰めた空気が流れている。しかしそれも授業が終わるとまた変わり、一部は予備校で出来た友人と一緒に寄り道するような人も居る。帰る支度をしながらそんな人達を見た私はふと思う。
「なんで私は、あいつに話にいったんだろ」
答えはすぐに出た。というより、分かりきっていたことだった。受験勉強で高校の友人と疎遠になり、話す相手が居ないのが原因だ。何のことはない、ただの消去法に過ぎない。
予備校近くの駅まで行くと、何人かと一緒に歩いていたような予備校生徒は駅前のカラオケや商店街のほうへ行く。私は特に寄る場所もなく、普段通り電車に乗った。流石に一年ちょっと通うと、列車が来る時刻も何となく分かるようになる。この時間に来る列車は人も少なく快適だ。一度予備校の自習室で勉強して帰る時間が遅くなった時は、たくさんの人の中に身を押し込むはめになった。それから私は自習室を使わず、授業以外は自宅で勉強することに決めたのだ。今日もまたシートの端の方に座り、返ってきた模試の結果を見る。
「はぁ……」
思わず、ため息が出た。前回よりも点数が下がっている。私の母親は別に模試の点数なんて気にしないし、怒られることはない。寧ろ母の場合、気にしなさすぎるのが問題ですらある。別に誰かに叱られるわけじゃない。それでもやはり気落ちしてしまう。すると、外の景色を見る気にもなれず、模試の点数のほうに目が行く。そうしてまた気分が沈む。デフレってこういうのを言うのかな、と社会の範囲にあった単語を思い出す。今度は社会の点数を見る。するとこれも下がっていた。嫌な気分になる。そんな嫌な気持ちを抱えたまま、私は帰宅する。家には母が居て、コーヒーを片手にテレビを見ていた。
「ただいまー」
「あら、おかえりなさい」
言って母は私に目を向け、微笑んだ。
「ねえ、母さん」
「なあに?」
「模試の点数、下がってた。ショック」
独り言のような調子でそう言うと母は少し考えたような素振りを見せ、こう言った。
「んー、じゃあいっそ就職しちゃう?」
返ってきた言葉は、予想外なものだった。
「え……?」
「大学なんていったっていいことないんだし、あなたなら社会に出たって上手くやれると思うわよ」
その言葉に、私は怒りを覚えた。
「何よ。私だって受験のために頑張ってるのにそれを無駄って!」
私は怒りに任せ、言葉をぶつける。
「え、いや。別に無駄って言ったわけじゃないのよ」
「言ってるじゃない! 母さんが受験で嫌な思いしたからって、酷いと思わないの?」
私は制服のポケットに財布が入っているのを確認すると、駆け出すように家を出た。出て行く時、母が私に声をかけたような気がした。けれど、私は家を出た。
行き先なんて、なかった。
頭にきて家を出て、寒い一月の夜の町を歩いたら頭も冷えた気がした。それでも今は、家に戻りたくなかった。母さんはずっといい母さんであったくれたし、父さんだってそう。中学の時は親が嫌だと言う友人の中で私だけが反抗期みたいなものがないまま中学校を卒業した。一回ぐらい、怒ってもいい。そんな風に私は考えていた。別に今まで喧嘩してないのが免罪符になるわけでもないのに。ただ、ここから離れたい。そう思って行った先は、あのゲームセンターだった。
彼はその時ゲームをせず、他の人のプレイを後ろで腕を組みながら観戦していた。私は近付かずに遠目に彼を見る。すると彼は私に気付き、こちらの方に来た。
「どうした。もう受験勉強再開してるんじゃないのか?」
「うん、今日も予備校が終わってきたの」
私が言うと、彼は釈然としないといった様子で、訝しげに私の顔を覗いた。
「……何か顔色悪いなあ」
「ええ、まあ……そんなに楽しい気分じゃないわね」
すると彼は腕を組み、何か考え込むような表情になる。しかしそれも数瞬で解かれ、次に彼はこう言った。
「外、行くか? 何だったら喫茶店にでも行ったっていいよ」
その言葉に私は首を横にふる。
「いつものベンチでいい」
「いやいや、今日は前来た日よりも寒いぜ?精神だけならともかく、体調崩しちゃ受験生には洒落にならないだろ」
真面目な顔で私の心配をする彼がなんとなくおかしくて、私は笑ってしまった。
「なんだよ。心配したらおかしいのかよ」
「いやね。そんな人を心配するようなんじゃないと思ってたんだ。ごめんね」
「いいよもう。外行くぞ?」
「うん」
彼との会話で何となく、さっきまで感じていた怒りと悲しさが薄まり、幾分か気分が落ち着いたような気がした。私達はゲームセンターから出て、そうしてまたいつものベンチに二人で座り込んだ。
「で、何があったんだ」
彼に聞かれ、私は母と喧嘩をして、そのまま家から飛び出してきたと説明する。
「ああ、とうとうそうなっちゃったかあ」
「なにそれ。予想してたって言うの?」
「いや、前からそれっぽい発言はあったじゃないか。別に前触れがなかったわけじゃないだろう?」
今日の彼は前と違い、いつになく真面目な口調で私に話した。
「まあ前から母さんが私の受験を良く思ってないのは知ってたけれど……」
「何言ってんだ。そんなわけないだろ?」
「ええ、なんで?」
私からすれば、母は私の受験に対して良く思ってないとしか考えられない。
「そうじゃなくって、本当に心配してるんだと思う。冷静に考えてみなよ。受験に反対だったらきっと君の母さんは嘘でも家計が苦しいから就職して欲しいとか、そういうことを言うと思わないかい?」
言われたことに何にもなしで納得したくなくて、私はその理屈への反論を唱えようと思った。けれど有効な反論は何一つとして思い浮かばなかった。
「……うん、確かに」
私の返答が遅れたにも関わらず、彼は子供を諭す親のような笑みを浮かべる。
「だろう。だからきっと、受験だけに打ち込んでそれ以外に何にもなくなっちゃうような気がしたんじゃないかな」
「何にもなくなるって、何が?」
「君自身が、だよ。学校に入ってそのまま無気力になっちゃう人が居るって、たまに聞かないかな。そういうのみたいになって欲しくないんじゃない」
もはや反論を出そうという気すら失せ、私は彼の意見にただただ同意していた。私は趣味と呼べる趣味もなく、ここ最近は勉強ばかりで友人と遊んでもいない。そんな様子を見れば心配されるに決まってる。
「そっか……じゃあ私、酷いこと言っちゃったかもしれない……」
「言ったことはとにかく、母さんも多分反省してると思う。早く戻ってあげた方がいい」
「そうね……」
言った後、寒さのせいか小さくくしゃみをした。
「うーん、寒い」
私がそう漏らすと、彼は呆れ顔で。
「だから言ったじゃないか。今日は寒いんだぞって」
「そうだけど……」
来たばかりの時は精神的にそれどころじゃなかったし。
「……しゃあないな」
彼がそう口に出すと、着ていた茶色のジャンパーを脱ぎ、何も言わず私に着せ。
「身体に気をつけろよ!」
そう言って一人、走り出して行った。
7
あの後私は家に帰り、頭を下げて母に謝罪した。母は怒りもせずに、寧ろ母からも謝罪の言葉を口にした。それからは何の問題もなく、大学受験の日が訪れた。結果は……合格。
受験に関して難関大学合格を目指していた母からの話しか聞いてこなかったため、過度に受験対策していたのか想像よりもずっと試験の内容は簡単なもののように感じ取れた。或いは、精神的に何の憂いもなく勉強に励めたのが理由かもしれない。 合格した次の日、私はあの日渡されたジャンパーを紙袋に入れ、あるクラスの教室に出向いた。
「どうも」
私が彼に言うと、彼は驚くような様子も見せずに言った。
「学校じゃ、はじめまして……だな」
「うん、そうね……あと、これ」
私は入れた紙袋ごと、あの日渡されたジャンパーを彼に渡した。
「別に返さなくても良かったんだけどな」
「あのね。女の子の部屋にぽつんと一つ、革ジャンなんてかけておいたら、色々と疑われちゃうの」
多少、冗談めかして言うと彼は、笑った。
「はは、そうだな。厄介払い、承りました」
「じゃあ早速だけど私、帰るよ」
言って、私は帰路につこうと思った。しかし私は、彼に呼び止められる。
「……ちょっと待ってくれ」
「なあに?」
私が振り返って彼の顔を見ると丁度目線が合い、彼は目をそらした。
「あのさ」
言ってから、彼は少し言い淀む。それを見ながら、私は何も言わずに立ち尽くす。
「好きだ……って、もし言われたら、君はどう返す?」
「……冗談?」
「いや、うん。そう、冗談だ。返してくれてありがとうな」
一体彼は、どういう意味でそう言ったんだろう。
「おーい、なんでこんなところ居るの?」
不意に、後ろから声をかけられた。振り返るとそこには受験勉強を始めてから疎遠になってしまっていた友人が居た。
「ごめん。行ってくる」
言うと、彼はこう返す。
「戻らなくて大丈夫だよ。行ってこい」
「ごめんね。ありがとう。じゃあまた!」
そうして私は、彼の居る教室を出た。
「久しぶり。ちょっとご無沙汰だったね」
「受験で忙しかったからね。ところであの……一緒に帰らない?」
「いいよ」
返答をすると、彼女はとても喜んだ。その帰り道。私は彼女とここ最近何があったかについて話していた。やはりというか、受験に関する話がほぼ殆どだった。彼女も何とか大学に受かったみたいで、勉強していた時の苦労話で盛り上がる。
「そうだ。どこの大学に受かったの?」
「えっと、隣町にある文系の大学だよ」
隣町と言うと……もしかして。
「もしかしてそれ、私と同じ?」
そう質問すると、彼女は首を縦に振る。
「意外だなあ。どこか違うところを受けたのかなって思ってた」
何気なく私が言うと、彼女の声色がどこか暗くなった。
「ねえ……私ね」
「うん、どうしたの?」
「あなたと同じ学校に……行きたかったの」
あなた、という他人行儀な言い方に、何となく私は違和感を覚えた。
「あのね。あたしね。このまま卒業して会わなくなっちゃったら、どうしようって思ってたの。そんなの嫌だって。でも私はそんなに頭が良くないから、頑張って勉強して同じ大学に行けば、また仲良くなれるかなって思ったんだ」
「そんな……」
そんな事しなくっても、私は友達のままで居るよ。でも私はそう言えなかった。彼女の考えていた通り、私もまた高校の時の友達とは疎遠になると思っていた。ただ彼女と私で違うのは……彼女はそれに抗ったということだ。
「だから。また同じ学校だから……また友達になって、くれますか?」
「勿論。言われなくたってそうするよ」
「そう。良かった。良かったぁ……」
そこまで言って、彼女は立ち止まる。
彼女の瞳には、涙が浮かんでいた。私の中には罪悪感が芽生えたけれど、それよりも、私のことを友人としてそこまで大切に思ってくれている人が居たという事実が嬉しく罪悪感は即座に薄まってしまった。
「私は、悪い奴だな……」
誰にも聞こえないように、そんなことを独りごちて、私は彼女とまた友達になった。そこから私は受験という不幸から逃れ、適度に遊びながら、残り少ない高校生活を精一杯満喫した。受験直前まで私を色んな意味で私を心配した母も今では何も心配していなかったし、それが嫌だとも思わなかった。やがてすぐに卒業式の日が訪れて、彼女はまたそこでも泣いた。私は涙一つ流さなかったけれど、彼女以外にも泣いてる人はたくさん居た。彼らにとって高校生活がそれだけ楽しく、思い出深いものだったんだなと思う。
そんな卒業式の日から、三ヶ月経った。初めの頃は戸惑ってばかりだった大学にも何となく慣れ、私と彼女は友人を作り、講義が終わればいつもどこかに遊びに行っていた。
そんな日々を過ごしている時。
「ねえ」
母は何となしに、私に声をかけた。
「どうしたの? 母さん」
大学に入りたての頃、私が上手く大学生活を送れているか心配していた母も、今では何も気に病む様子がない。受験の時に散々心配をかけたのだから、大学に入ってからは心配されないような生活をしようと決めていて、そして実際、母を安心させられたことを内心少しだけ誇りに思っていた。
「あのね。あなたの卒業した高校の同期の子が交通事故で亡くなったそうよ」
「え、そうなんだ……」
一体、誰なんだろう。
「ほら、見てみなさい。学校から来たの。そのお手紙」
私は、その手紙の内容を読み、絶句した。
交通事故に遭ったのは、彼だった。
8
葬儀は、静寂の中で執り行われた。
高校からは私以外に誰も来ておらず、そこには彼の母とお坊さん、葬儀屋の人以外には誰も居なかった。葬儀の場は、重々しい空気に包まれていて、自分が吸い込んだ空気が肺の中で重石になるような、そんな気がした。その中で私は、彼の言った言葉の意味を考えている。
好きだと言ったら、どう返すか。
私はあの時、異性としての好きだと考えたけれど、すぐにそれを自分の思い上がりだと考えた。まだそんな友人としての付き合いも長くなかったし、それどころか友人だったかですら定かではない。それなのに、異性として好きだと言われたと考えるのは、自分を高く評価しすぎなんじゃないかと、そう思っていた。
けれど、その短い間に、私は彼に助けてもらった。愚痴を言いに行ったり、それこそ彼が居なければ、私は母と仲違いしたままだったかもしれない。
私は、彼に何をしてあげられたんだろう。きっと、何も出来ていない。私は、そうとしか考えられなかった。やがて葬儀が終わると、私は彼とその母が住んでいた家へ来るように誘われた。この日、私は一つも予定がなかったのもあって、彼の家にお邪魔することにした。
「それにしても、あの子に女の子の友達が居たなんて……」
葬儀場から彼の住んでいた家に歩いている最中に、彼の母はそう言った。
「……私も、なんて言うか……友達、とは言えなかったかもしれませんけれど」
何も出来なかったという罪悪感と、まだ面識を持ってからそんなに時間が経っていなかったという事実の半々の気持ちで、私はそんな風に返した。
「……あの子。ちょっと最近まで随分とうきうきというか、何となく嬉しそうだったの」
「え?」
彼の母の言葉を、私は意外に思った。私と話している時、彼はそんな素振りを見せていなかった。
「私は、随分前に夫と死別して以来あの子を一人で育ててきたけど、母である私なんかよりよっぽどしっかりした子で、けれど周りに友達が全然居なかった。何より、いつも少し暗かったの。でもね、最近……特に卒業式のちょっと前辺りから、何かが吹っ切れたみたいに明るくなって……」
卒業式の少し前ってもしかしてジャンパーを返したあの日……から?。
「けれど、こんな唐突に死んじゃって、私は親らしいことも出来なかったんじゃないかって。そう思うと、悲しくって……」
そう言って、彼の母はぎゅっと手を握る。爪が手のひらに刺さり、血が滲んでいた。
「そんな……彼は、そんな風に思っていませんよ。きっと」
何も出来なかったという言葉を自分自身に重ねて、私は、私自身をずるいと思った。彼の住んでいた家は、築何十年か分からないぐらいに古臭いもので、今にも崩れるんじゃないかと言う印象を私に植えつけた。
「あの子の部屋は一番奥ですから、そこで待ってて下さい。お茶をお出ししますので」
「ええ、そんな……お構いなく」
「いいんです。そうしないと、死んだあの子に怒られちゃうわ」
悲しげに言う彼の母に、私は何も言葉を返すことが出来なかった。
私は彼の部屋に行き、その中で何も置いていない場所にぺたんと座ると、目の前にあの日借りた革製の茶色いジャンパーがそこにはあった。彼が交通事故で、死んでしまった。その事実を噛み締めるように認知した後にそれを見て、私は何故か愛おしさを感じた。
「……私、もしかして……」
彼の事が、好きだった……?
私は立ち上がり、そのジャンパーを手にとって、抱き締めた。
もはや、永遠に表に出すこともないその感情を、その一枚のジャンパーに染み込ませるように、押し付けるように。
了
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