ブランデー・ヘッドエック
頭痛とは悩ましい病気なのだ。
もし誰かが身体を悪くして頭痛を起こしたのなら、その病気を治すと良い。頭痛もとれるし、その他の身体の不具合も一緒にとれる。
けれど頭痛というのは、それ自体が単体で病気と成った時には非常に悩ましい、難儀な病となる。
偏頭痛の原因というのは、現代の医学では完全には判断することができない。人によっては色々な前兆があり、例えばそれは視界が歪むとか、音や光に敏感になるとか、肩がやけにこるとか、あくびが出るとか、とにかくこのバリエーションは様々だ。
しかし、考えてみて欲しい。別に頭痛じゃなくても肩はこることがある。面接で緊張したりとか、ずっとパソコンをやっているとか、ずっと本を読むとかすればそれを簡単に起こすことが出来る。
あくびだって同じだ。
他人の話をずっと、ずっと長く聞いていればそれは嫌でも喉奥から飛び出てくる。これに抗うというのは自然の摂理に抗うのと同じようなものだ。私は学生だった時、このあくびが幾度となく出るので、抑えつけるのも馬鹿馬鹿しくなり、なるがままにしていたのだが、時の教師がそれを「弛んでいる」とか「寝不足だ」と考え、私を叱りつけてきたことがある。
しかし私はそれに反論を返すことは出来なかった。その、度々口から湧き出てくるあくびが果たして頭痛の前兆のものなのか、それとも教師の話があまりにも退屈で出てきたあくびなのかが自分では判断できなかったからだ。私は
「あなたの普段する話が今朝見たテレビ朝日のニュース特集にそっくりなんです」
とか
「全て頭痛のせいです」
と口に出すこともできずに、ただそのお叱りを有難く頂戴し続けたのである。
* * *
仕方がないので私は頭痛外来に通い、そこで薬を処方してもらっているのだが、これらもあくまで対症療法でしかないし、医学的に根拠のある治療も出来るわけではないので、漢方薬が処方されたりもする。これがまた心底苦いので、私は子供の頃以来に薬が嫌いになってしまいそうだった。
そしてまた、この時に処方される薬というのが難儀なもので、頓服薬であるため十錠までしか処方してもらえないのだ。
私の頭痛というのは、その痛みの大小を問わなければ日常の3分の2ぐらいがそれと共に存在していて、日数で言えば一ヶ月のうち二〇日は頭痛に悩まされている計算になる。
しかし、頭痛外来に通う頻度は一ヶ月に一回であるため、この頓服薬は三日に一度しか使えない計算になる。
言うなればこれは私のエリクサーなのだ。
使おう、使おう、今こそ使う場面だ。そう考えてはいても、その希少性故に使用を躊躇してしまう。そして症状が悪化するのだ。
そしてこの薬はエリクサーと同じく、使ったところで手遅れになる場合も多々ある。この按配というのが実に難しく、それを間違えれば私はその日一日を無駄にし、場合によっては救急車のお世話になったりする。(ひどい頭痛はクモ膜下出血の初期症状と区別がつかないのである)
* * *
このひどい頭痛は家の中だけでなく、外に居ても起こることがある。何か特殊な仕事をしていたり、或いは引きこもり続けてるでもない限り、人は何らかの理由で外に出る。いくら出不精で面倒臭がりな私であっても、外にでなければいけないことのほうが多い。
ある時私は、外で歩いている時に、このひどい頭痛と遭遇した。
外を歩いていると、右肩からこめかみを通り抜け、瞼から頭頂部を通って耳の斜め上辺りで頭痛がランデブーする。顎の下のラインからこめかみにかけて血液の循環する感覚が起こり、右側の強大な頭痛が左へと伝わり出し、やがてそれは徒党を組んで私の頭全体を苛むようになる。
私は財布の中にしまってある薬を取り出した。それを取り出し、口の中に唾を溜めて、薬を放って飲み込む。このやり方も、頭痛の薬を持ち歩くようになってから身につけた。本当は水を買った方がいいのだけれども。
* * *
さて、恐らく私の身体に起きた前兆というのは多分、右肩のこりではないかと思われるのだが、勿論これも区別がつけられなかった。そもそも私は慢性肩こり症なのである。先程言った種々様々な前兆であるが、私の場合、頭痛の最中に起こることもある。
現に今、私の視界は歪み始めている。右上の辺りに何か重力の歪んだ後のような、灰色のブラックホールのようなものが見え始め、片側の視力が落ちて、音と光から鋭さを感じるようになる。一歩歩くごとに私の脳髄に痛みが染み渡り、血管が毒々と脈打つのが分かる。
これは駄目なパターンだ、と私は思った。もはや薬が何だと言うのであろうか、こうなればもう手の施しようがない。なまじ生命に関わる事象というわけでもないというその事実が心底憎たらしい。これで何か障害が起こるようなら私は躊躇なく救急車に運ばれて入院してやると言うのに、偏頭痛というのは無闇矢鱈に人を痛みつけるだけ痛みつけては通り過ぎていくのみなのだ。ふらついて誰かにぶつかってしまうとことだ、そもそもこの場から家に帰るだけの体力があるとも思えなかった。
私はタクシーを拾って家に戻ろうと思い、道路に近寄る。滲む視界が回送と空車とを見分けのつかない何かしらの表示であるかのように映し、またふらつきと痛みによって私の判断力も徐々に失われ始める。左手でサムズアップすれば誰かが乗せていってくれるのではないかというような妄想さえし始める。
視界は悪化する、大排気量のバイクのエンジン音が耳に刺さってそれが脳に伝わり痛みを起こす。光が痛みを齎すので私は片目を閉じる。状況は悪くなっていく。
それでも私は、個人タクシーによる無視を乗り越えてようやくタクシーに乗り付ける。
近くで申し訳ないんですが、そう一言添えて行き先を告げる。タクシーは走り出す。
タクシーの座席で私は脱力する。あらゆる音と光が不愉快だ、ただ家に近付いているという事実だけが私を癒やしてくれる。
目を開けば痛みと共に歪んだ世界が広がる。世界の要素全てが私に痛みを齎す。
そこは人を狂気へと導く世界だ、ただただ痛い。頭にすっぽりと収まるようなヘルメット型の剣山をつけられたかのようだ。かのイエス・キリストの頭へ添えつけられた茨の冠とはこれのことではないかと思う。
やがて家に辿り着き、私は部屋のカーテン全てを閉じて布団に入り眠りにつく。そうすれば八割方頭痛は収まる。運が悪かったら収まらない。
* * *
今度は運良く、頭痛も収まり、何とか一日を無駄にする程度の損害で済んだ。
視界は戻り、音と光は私を傷付けなくなった。
ふと私は考えた。
人は目で見たものをそのまま情報としているのではない、というのは有名な話だ。実際は目に入ったものを脳が処理することで初めて我々はそれを情報として受け取ることが出来るのだ。それは聴覚も同じである。
この頭痛とは、脳内の情報処理のバグなのではないだろうか。
本来、この世界に存在するありとあらゆるものは我々生き物を害するために存在していて、けれど普段は脳がそれらをシャットアウトすることで痛みとならぬようになっている。
けれど、何らかの拍子でその箍が外れて、世界は本来の、滲んだ狂気の姿を表すのではないだろうか。
そう考えた場合、どちらが正しい世界なのであろうか。もしかしたら、普段の世界は何らかの、ブランデーのようなもので浸された、甘い世界なのかもしれない。そしてそれは、頭痛によって元の姿を取り戻すのだ。
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