キティー・ブロウ(一)

「止まれ、動くんじゃねえ!」

 すぐ後ろで響く、野卑な大声。ぬっと真横から突き出された左腕。大男は叫びながら、大口径の拳銃をさらに前方へと向けていた。キティー・ブロウ刑事は思わず、お前が止まれと言いたくなった。

 銃を向けられたほうの男は、すっかり竦んでいる。口論になった相手を街中で殴りつけ、こわくなって逃げ出したケチな傷害犯。延々と走りつづけて、息も絶え絶え。顔色は赤黒く、ひどい有様だった。

 本来であれば、自分たちのような殺人課の刑事が出向く相手ではない。聞きこみをしている最中、たまたま制服警官が追走しているのに出くわして加勢したのだ。三ブロックも走り回らされ、ようやく袋小路に追い詰めかけたところだった。

 軽く息を切らしたブロウは黒いショートヘアを揺らして振り返り、切れ長の瞳を暴走する相棒へと向けた。

「バーク、待て」

「止めるなブロウ。俺がホルスターから銃を抜いたら、それは脅しじゃねえ。最後通告なんだってことを野郎に教えてやる」

 若き相棒――なにかを勘違いした空回り熱血刑事、バーク・ウォッチが応える。

 彼のほうは、びっしり汗をかいてはいるものの、息は整っていた。さらには溌剌とした表情を浮かべている。

「やめろと言っている。私の耳元で、このまま四十五口径もの弾丸をブッ放すつもりか? 鼓膜が破れたらどうしてくれる」

「ウ、む……」

 伸びた腕が、わずかに弛緩した。ブロウと傷害犯が揃って安堵する。しかし躊躇いは数秒だった。

「正義のため、後の凶悪犯罪への抑止力となるためならば、致し方ない」

 この場で誰より凶悪な男が、意を決したように引き金を引く。ブロウは寸前で横っ跳びになり、自身への二次的被害だけは防いだ。

 立てつづけに二発、目の前で爆発でも起きたかのような轟音が響動どよめいた。立ち竦んでいた男の真横と足下。ひび割れた壁と、色褪せたアスファルトが大きく抉れる。男はいまにも泣き出しそうな顔で、へなへなとくずおれた。

「なんだよ。俺……そこまでのことしてないだろ」

 心の中では大いに賛同しながら、ブロウは立ち上がり、手錠を手に歩み寄った。

「話は署で聞く。立て」

 手錠をかけて引きずるようにしながら、後につづく制服警官と合流しようとする。と、いやに大人しい相棒が気になった。見ればバークは膝をつき、背中をまるめて固まっていた。そして、妙に難しそうな表情を浮かべている。

「おい、なにしてる銃撃犯。さっさと立て」

 ブロウの怒りのこもった皮肉にも反応せず、バークはぷるぷる震えていた。

 やがて、ぽつりと一言、

「肩が痛い」

 ああっ、もう。

 大口径の銃をろくすっぽ構えもせず、片腕で連続して発砲。負傷するのは当然の帰結と言えた。



 哀れな傷害犯を制服警官に引き渡し、バークを病院へ。その後、署に戻ると、ふたりは即座に呼び出しを受けた。

「バークは二週間の謹慎。ふたりともに三ヶ月の減給。それと始末書。この件は以上だ。嫌ならバッジと銃を置いていけ」

 署長から直々に下された処分は痛烈だった。身の潔白と不可抗力とを主張するブロウだったが、慈悲は得られず。連帯責任、監督不行き届きという枷はあまりに大きく、そして重かった。

 無人だった喫煙室に入るなり、片腕を三角巾で吊った相棒に向かって、ぶうぶうと文句を垂れる。

「まったく、散々だ。何十分も走らされるわ、馬鹿な相棒は言うことを聞かないわ、おまけに減給だわ。冗談じゃないぞ」

 つま先で相手の脛を二、三度蹴るが、堪えた様子はなかった。

「せめて車で追っかけてりゃあ、こんなに疲れなくてよかったのにな」

 のん気にガハハと笑いながら煙草に火を点けるバークに、純然たる殺意が湧く。

「お前が車のキーを持って疾走していなければ、迷わずそうしていた」

 しかも制服警官たちは早々にあきらめを見せ、バークも途中から失速したので、男を最後まで全力で追いかけていたのはブロウひとりだった。後から路地をショートカットしてきたバークだけは追いついたが、そうされないほうが百倍マシだった。

 挙句に減給。真面目ゆえの貧乏くじ。底抜けに痛いペナルティ。目をつけていた新作のバッグが遠のいていく。

「いや、悪かったとは思ってるよ。でも俺だって、一応考えてんだぜ? 人通りのある場所じゃあ銃を抜かなかったろ?」

「そもそも、銃など必要ない相手と状況だっただろうが! お前が繰り返す自己陶酔のカッコつけのために、私がどれだけ苦労してると思ってるんだ」

「あ、カッコよかった?」

「そんなわけあるか! お前さえいなければ、あと数分で穏便に確保していた被疑者だぞ。まったく余計なことを」

 ぶちぶちと文句を浴びせつづける。一方、バークは紫煙をくゆらせ、どこか遠くを見ていた。

「俺の憧れた男なら、もっと過激にかましてたんだろうなあ」

 また始まった。

 バークは噂で聞いただけの、とある伝説の刑事に憧れている。このマルドゥックシティのダークタウンに蔓延る闇を払うため、命を投げ出して最後まで勇敢に戦った市警の英雄。

 彼の再来と呼ばれることをバークはめざしているそうだが、傍から見れば、馬鹿が暴走しているだけだった。それなのに、まるで「俺のもまだまだだなあ」とでも言いたげなのが、なんとも憎らしい。

 怒りをぶちまけながら、お説教をまくしたてる。なにしろバークがこのまま更生しなければ、いずれは教育係の自分の首が危うい。半ば無意味と悟りつつも、あきらめることはできなかった。

「たしかに刑事なら、もっと過激に。でも、もっと賢く、やるでしょうね」

 ぎゃーぎゃー騒いでいるふたりのそばに、いつのまにか女性が立っていた。後ろにもうひとり、バークに見劣りしない大柄な男が控えている。

「クレア刑事」

 パッと顔を輝かせたブロウが、パイプ椅子から飛び上がる。バークも押し黙り、ぴんと背筋を伸ばした。どちらも吸いかけだった煙草の火を揉み消す。彼女が喫煙を好まないことを知っているのだ。

「あら、別にいいのに。ここは喫煙室でしょう」

「いえっ、気になさらないでください。我々が勝手にやっていることですので」

 クレア・エンブリー。凛とした美しい女刑事。三年近く前、バークの憧れであるフライト・マクダネルと協力し、都市の闇を殲滅する一助となった女性だ。フライト刑事はその際に殉職してしまったが、彼女は生き残った。闇を垣間見ながら生存したクレアは、多くの同性警官から羨望のまなざしを向けられている。

 ブロウも、知りうる限り最高にタフな女性として。そしてバークは、英雄と組んだ優秀な刑事として、彼女を尊敬していた。

 ブロウとクレアは、年齢自体はそう離れていない。当時、まだ学生だったバークはともかく、ブロウはすでに刑事として現場へ出ていたのだ。しかし、もし話に聞くおそるべき殺し屋たちを相手にしていたら、一体なにができただろうか。バークはフライトをやたら英雄視するが、ブロウにとっては同性のクレアこそが憧れだった。

 殺し屋たちの話題に触れると、なぜか本人だけは青ざめた顔で激しく謙遜するのだが。

「楽しそうにお話ししてたところに水を差してしまって、ごめんなさいね。つい嫉妬して、声をかけてしまったわ」

「いえ、とんでもない。お恥ずかしいばかりです」

 ブロウは話しかけられたことがただ嬉しかったが、バークと、そしていまだ無言の男は、それぞれの理由から微妙な顔を浮かべていた。

 もしかすると、クレアの性的嗜好にまつわる噂を気にしているのかも知れない。同性愛者。ブロウからすれば望むところなのだが、彼女は同僚に一切そういった面を見せなかった。

「クレア」

 後ろに立っていた男が、せっつくようにして前へ出る。彼女の相棒、ライリー・サンドバード。かしこまっていたバークの表情が曇った。

「ええ、そうね。バークがしばらくお休みすることになったんでしょう? その前に捜査状況の確認をしておきたいのだけど、ふたりともいいかしら」

 口々に答える。

「はい、もちろんです」

「同じく。……よぉ、死にたがりの“戦闘爆撃機ウォーバード”。まだ生きてやがったのか」

 クレアへの慇懃な態度から一変、その相棒に対して、バークが嘲るような口ぶりで声をかけた。

 サンドバード刑事は鼻で笑い、嫌味を倍にして返す。

「幸い、銃の扱いも覚束ない、キャンキャン吠えるだけが取り柄の番犬ウォッチドッグとは、根本から出来がちがうんでな。ところで腕は大丈夫か? さっさと犬小屋ハウスに帰って寝てたほうがいいんじゃないか。飼い主ブロウのためを思うなら」

 一触即発、距離を詰めようとする男たちをお互いの相棒が押しとどめる。

 彼らは顔を突き合わすたびに揉めてばかりだ。強引に犯人検挙を進めるバークと、やや独断専行のきらいがあるサンドバード。似て非なるマッチョタイプだが、成績は圧倒的にサンドバードのほうが上なので、バークからすれば面白くないのだろう。たいてい自分から噛みつきにいく。

 しかもサンドバードは署長の甥でもあった。このふたりの仲の悪さは、ブロウにとって頭痛の種のひとつだ。

「〈黒鉈〉については、いまだ全容は明らかになっていません。パトロール警官の協力を得て、現場付近での聞きこみをつづけています」

 流れを変えるべく、ブロウが強引に話を切り出した。クレアもそれに乗る。

「ん、それが賢明ね。この通り魔、出没する場所も時間もまちまちだから、かなりかかるかもしれないけれど」

 男たちも渋々追従。殺人課のエースたちによる、即席のミーティングが始まった。

 焦点にあるのは、ここ半年ほど市内を騒がせている無差別殺人鬼だ。大ぶりの黒い刃物を用いて犯行に及ぶことから、〈黒鉈〉と呼ばれている。

 目撃者が複数出ているため、当初はスピード解決かと思われたが、いまだに尻尾を掴めずにいた。また、あまりに無軌道な犯行状況から、快楽殺人者らしい傾向や癖もプロファイリングからは読み取れていない。

 市民の平穏を脅かす、都市の新たな闇。ブロウたちだけでなく、多くの刑事たちが躍起になって捜査をつづけていた。

「めぼしい容疑者はまだ絞りきれていないのか? 最初の被害者が出てから、ずいぶん経っているんだろう」

「謹慎中の二週間、なにして過ごせばいいと思う?」

「疑わしい人間は三桁近く残ってる。また、その中に犯人がいるとも限らない」

「目撃証言から、ある程度絞れはするんじゃないか?」

「フライト刑事って、どんな銘柄吸ってたのかな」

「サンドバード、資料に目は通したか? おおよそ二十代から四十代。フードを被った男性か女性。背丈も証言によって異なる。単独、あるいは複数犯。シャーマンでもない限り、現時点ではこれが精一杯だ」

「そうだぞ、ばーか」

「なんだと」

「落ち着きなさい。あとバークはいい加減にしなさい。私も調査書は読んだけど、彼女の言う通りよ。いまは足で情報をかき集めるのがベストだわ」

「痛み止めが切れてきた」

 こうして署内、より抜きの人材――ひとりだけ足手まといはいたけれど――が言葉を交わし合い、ある程度の方針は定められていく。

 話している最中、ブロウはライリー・サンドバードに注目していた。

 けして大きくはないのに、よく通る、響く声。さらに的確な言動。タフで賢い男の風格。殺人課に配属された数年で、めきめきと頭角を現してきた逸材。人殺しを憎み、燃料切れ寸前まで爆弾を落として回る正義の“戦闘爆撃機ウォーバード”。

 もともと素養はあったのだろうが、クレアの現地での実地訓練オン・ザ・ジョブトレーニングの影響は大きいにちがいない。

 一方、自分が鍛えている相手はどうか。

 バーク・ウォッチ。しきりに吠える番犬と揶揄される男。てんで言うことを聞かない。にも関わらず、ブロウは周りから飼い主などと呼ばれており、非常に不本意だった。

 無鉄砲、向こう見ず。勤務態度は感情に大きく左右され、気に入らない相手は、たとえ尊敬する人間が同席していても、おどけて茶化す。いまも、クレアが片眉をつり上げていることに気づいているだろうに、ふざけている。

 脛を踵で思い切り蹴り上げた。ようやく少し大人しくなる。

 嘆息。なにがフライト・マクダネルの再来か。

 ブロウはフライトと面識はない。しかし噂を耳にする限り、よっぽどサンドバードのほうが、かの英雄に似ていると思った。

 ただ暴れるだけの粗暴な子供と、先を見据えた上で無茶をする切れ者のちがい。その差は、それぞれの教官である自分とクレアとの差を物語っていた。

 心の奥に、暗い影が差す。



「相棒の失態を必要以上に嘆くことはない。むしろ私はクレア刑事より、あのような狂犬の手綱を締めつづける君をこそ評価している」

 午後八時過ぎ。ひとりで聞きこみを終え、直帰しようと車に乗り込んだタイミングだった。かかってきた非通知のコール。やや警戒しながら出ると、相手は開口一番そう言った。

「口を聞いて差し上げよう、キティー・ブロウ刑事」

 不遜な物言い。一回りほどは歳の離れていそうな男性の声。当然の疑問を率直に訊ねる。

「あなたは誰だ」

「私かね。そうだな。君にとって、あまり意味のあるものではないが……。我が従者は私のことを“裸の王様キング・オブ・ネイキッド”と呼んでいた」

「大層なあだ名だな」

「ふん。“厚顔無恥フェイスマン”、“猿の女王クイーン・オブ・エイプ”。そして“渦巻きホィール”。私は彼らと肩を並べるのひとりだった者だ。けして大げさだとは思っていない」

 これ以上ないほど誇らしげに男は告げた。しかしブロウからすれば、初めて聞く謎の愛称を次々述べられたにすぎず、さっぱり意味がわからなかった。

「一体、なんの話をしている?」

の話さ」

 悦に入っていた男が、ふっと息をこぼした。見たこともない相手の、醜悪な笑みが浮かぶ。苛立ちが募った。

「見ず知らずの人間の与太話に付き合うほど、私はお人好しではない。話し相手が欲しければ、専門の業者にでも頼むがいい」

 なるべく辛辣に聞こえるように告げ、そのまま通話を切ろうとする。しかし次の言葉を受けて、指が止まった。

「〈黒鉈事件〉の情報提供をしたいと言ってもかね」

「……匿名での捜査協力か。ありがたいことだ」

「協力か。いや、どちらかと言えば脅迫だろうな」

 押し黙る。不吉を予感しながら、男の次の言葉を待った。

「上層部が揉み消した君の過去の失態を、私は知っているということだ」

「……もう一度聞こう。お前は誰だ」

 男は答えない。代わりに、ひとりごとじみた台詞をつぶやく。

「バーク・ウォッチの謹慎は僥倖だった」

 ブロウは指摘も追求もしなかった。この手の相手は、好きなことを勝手にしゃべらせておくのが一番だ。

 このまま可能な限り情報を引き出す。男がなにをどこまで知っていて、自分になにをさせる気なのか。どうしても見極める必要があった。

 静かに息を呑み、そのときを待つ。

 やがて男が本題に触れる。

「かつて“渦巻きホィール”が、信者たちへの教官候補のひとりに挙げていた優秀な刑事である君に、単独でやってもらいたいことがある」

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