【七月二二日 午後八時十分】

長い長い階段は唐突に終わりを告げた。目の前には石造りの壁が行く手を拒むように佇んでいる。

「・・・何もないじゃない。」

私がそう呟くのを横目に、彼女は壁の一部に手を当てた。

彼女の掌が壁に押し込まれ、壁の一部が音を立てて横にスライドし、中から小さな部屋が現れた。壁と天井には照明が取り付けられ、正面には扉が見える。

私は驚きで呆然としてしまった。古い寂れた工場に、どうしてこんな仕掛けがいくつもあるのだろう。

「ここには色んな部屋があって、少しでも間違えると外に出られなくなってしまうから、ちゃんと付いてきてね。」

彼女はポケットから掌に収まるほどの紙を取り出すと、それを見ながら部屋を開けていく。どうやら地図のようだ。

一体ここは何なのだろう。照明があるということは人がいるのだろうが、こんな所に住む人間がいるのだろうか。人が近寄らないような場所にある廃工場の地下に、他人を寄せ付けないように作られたいくつもの仕掛け。

何かから隠れているかのようだ。

いや、実際隠れているのだろう。一体何から。普段の生活を送る上で、他人との関わりをここまで拒んでしまっては、生活が立ち行かなくなってしまう。

いや、ここの住人は、この世界から隠れたがっているのか。

そうでないと、ここまで徹底して人を拒まないだろう。

何故、美樹はそんな人間が造ったであろうこんな建物を知っているのか。社会を拒絶する人間を知っているのか。

世界を嫌う人間は、同じく世界を嫌う人間しか受け入れないだろう。

美樹は、この世界が嫌いなのか。

――――私たちの世界から、離れたがっているのだろうか。

「ねぇ、霞。貴女は私のことが嫌いなんでしょ?」

部屋中、本が天井高くまで積み上げられた部屋を通りながら、彼女はそう呟く。

彼女の世界。自分よりも劣った人間がいる世界。見下されるべくして見下されている世界。彼女の気持ちは理解できる。

何故なら彼女の世界は私の世界だから。私と彼女の世界はとても似ているから

美樹は、私になのか彼女自身になのか、語りかけながらも次々と部屋を開けていく。

「殺したいって、思ったことはなかったの?」

呟いた言葉は小さく、彼女自身に語りかける独り言のようだった。

彼女が自分の世界を嫌うのだとしたら、それはきっと、私の世界を嫌うということなのだ。

私たちは同じものを見て、同じことを聞いて、同じ思いを感じてきたのだから。

「・・・また、何かの悪戯?貴女、ずっと私のことを虚仮にして楽しんでいるのでしょう?」

言葉では強がるが、体が震えている。

「・・・ふふ、そうかもね。これは神様の悪戯。私たちへの、ちょっとした意地悪。・・・ねぇ、答えてよ。殺したいって、思わなかったの?」

震えている身体を悟られないように、私は努めて冗談めかすように答える。

「・・・えぇ、何度も思ったわ。こんなに嫌な奴、すぐにでも殺してやりたいって。」

本当はそんなこと、思ったことなんてなかった。

彼女にも分かっているようで、当然のように彼女はそれを否定した。

「それは嘘よ。私、貴女が死ぬほど嫌いだわ。とても嫌いで、居なくなってほしいって思っていたけど、殺したいと思ったことはなかったわ。」

彼女は次の扉を開けた。その部屋では、よく分からない様々な色の液体が所々で沸騰していた。

「〝あの時まで〟は、ね。」

液体の沸騰している音が、彼女の言葉と混じって耳に響く。何故だかその音は、耳の周りにまとわりつくように何度も何度も反芻する。

―――ぽこぽこ、ぽこぽこ・・・。

「〝あの時まで〟はね、嫌いだったけど、たぶん、好きでもあったのよ。似通っている隣人、考えや好みの合う幼馴染・・・。互いに罵倒しながらも、アドバイスし合って、お互い困難を乗り越えあって、私たちきっと、親友、だったわ。」

この部屋だけ、彼女がゆっくり進んでいるように感じる。そんな筈ないのに。彼女がここだけ遅く進む理由がない。

―――ぽこぽこ、ぽこぽこ・・・。

私は、この音を、知っている。

「でもね、それはどこかで違うと知っていたから。全く一緒で気持ち悪いって言いながらも、心の隅では違う部分があるって信じていたから。・・・きっと貴女もそうなのだろうけど・・・私の場合はね、両親が違うから、絶対に貴女とは違う部分があるって、そう思っていたの。」

早く、次の扉を開けて、と心の中で叫ぶ。耳の奥で気泡が発生する音が幾度となく重なって再生され、本物の音なのか幻聴なのか分からなくなってくる。

―――ぽこぽこ、ぽこぽこ・・・。

―――ぽこぽこ、ぽこぽこ・・・。

「だってそうよね。生まれた親が違うのだから、遺伝子が違うじゃない。それは連綿と続けられてきた日向家の血筋のはずよ。一方家とはただ両親同士が交流があるだけで、交わりのない赤の他人なのだから。たまたま生まれた子どもが、似たような性格で、趣味や好みが似ていて、ちょっと似た見た目をしていただけなのよ。」

彼女が扉を開ける。

漸く、開放されると思った。だが、扉を閉めても気泡の音は鳴り止まない。

「――――あぁ、でも。でもね。私は聞いてしまったの。私たちの両親が話している内容を。」

彼女は力強く扉を開けていく。何かに追われているかのように、美樹はどんどんと歩く速度を速めていく。

「〝その時から〟私の世界は一気に崩れたわ。好きだった貴女が嫌いになった。憎くなった。貴女がこの世に存在していると思うだけで、一日一日が堪えられなくなった。」

視界が狭くなっていく。呼吸をするのが辛い。その場に座り込んでしまいたいのに、美樹が私の手を強く引き、無理矢理に奥へ奥へと進まされていく。

―――ぽこぽこ、ぽこぽこ・・・。

―――ぽこぽこ、ぽこぽこ・・・。

―――ぽこぽこ、ぽこぽこ・・・。

扉を開けるたびに、気泡の音が強くなっていく。

この音は、脳にこびりついているのだ。

深い記憶の中に、剥がれ落ちないあの忌まわしい思い出とともに。

――――それは、なんだ。

「何なのよ!〝その時まで〟って!!」

私は何もかもを振り払うように、彼女に向かって叫んだ。私の叫び声に、彼女は立止まる。

―――ぽこぽこ、ぽこぽこ・・・。

違う。

彼女が立ち止まったのは、〝次の部屋で行き止まりだから〟だ。でも。

でも、なぜ私はそれを知っている?

彼女が振り返り、あの表情で私を見る。

何もかもを捨てたような。

世界を捨てた瞳。

理解して、私はぞっとした。

「〝私と貴女が双子と判るまで〟よ。」

彼女が世界を捨てるということは、私を捨てるということなのだ。

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