【七月二〇日 午後三時四十分】
「・・・なので、君たちの今の時期を、青年期と言います。この時期には、心が大きく動き、情緒が不安定になる時期です――――。」
昼下がりの午後、教室内に教師の声が響く。本日最後の授業を私はほとんど聞き流しながら、私は遠くに見える山の稜線を眺めていた。
「また、自我―――アイデンティティを確立しようとする時期でもあります。自分が何者で、どういった人間なのか。他人と違う所はどこかなどを必死で探します。」
その言葉に、私は視線を窓から教師へと移した。
その瞬間、教師と目があった。彼はすかさずこちらに微笑みかける。
私は眉をしかめながら彼―――捺澄大翔(オシズミ ヒロト)から目を逸らし、再度窓の方へ眼を向けた。
昨年の夏休み中、教師が一人急逝したため、臨時の講師としてこの学校に来たのが彼だった。あくまで臨時で、正式な教師が決まれば、彼はこの学校を去るそうだ。
彼がこの学校からいなくなってしまうことを、嫌がる生徒がたくさんいるらしい。
彼は生徒から人気がある。特に女子に人気で、長身で顔も良い上に、性格も温厚で優しい。授業中に見せるさわやかな笑顔が、特にいいらしい。
私は――――彼が苦手だ。
みんながいいという笑顔が一番苦手だ。少し下がる眉も、唇の隙間から見える白い歯も、どうも好きになれない。
だから、彼の授業は基本的に窓の外を眺めている。
彼はしばらくこちらを見ていたようだったが、直ぐに授業を再開した。
(・・・アイデンティティ、ね。)
私は、美樹のことを考える。私たちはとてもよく似ているから、お互いに嫌いあっているのだろう。他人とは違う自分、自分にしかできないことがある自分。そう言ったものを、きっと私たちは探しているのだ。
でも、違うものが無かったら。
本当に、全く一緒だったら。
それはとても――――。
(・・・また・・・何考えてるのかしら。)
溜息と同時に、修了の鐘が鳴る。捺澄が手早く荷物をまとめ、授業の終了を告げた。私は勉強道具を鞄に詰め込み、立ち上がる。
「・・・一方さん。ちょっと良いかい?」
帰ろうとした私を、快活で高い声が引き止める。
「・・・何でしょう、捺澄先生。」
私が近づいて彼の顔を正面から見据えると、例の眉尻の下がった笑顔を返してくる。
「ごめんね。帰ろうとしているところ。・・・ちょっと聞いてみたくて。」
「・・・何をですか?」
私が問いかけると、彼は何故か周りを見回し、小さな声で話し出す。
「ここだとちょっと・・・。準備室まで来てくれないかい?」
私の学年のある階には、準備室と呼ばれる狭い教室がある。その名の通り、授業に必要な道具が様々置かれる・・・はずが、その中には今や絶滅危惧種であるタイプライターや大きなそろばん、腕が一本無い人体模型など、他にもどう使用していいか分からないようなものが多数放置されている。
はっきり言って物置部屋になっているそこは、教室から少し離れている上、生徒があまり用事がない場所にあるため、教師が態度の良くない生徒を呼び出し、面談を行う場所にもなっている。
だから、私は多少なりとも緊張した。
一体何を聞きたいというのだろう。確かに授業は聞いていないが、テストでは酷い点数はとっていない。こういう風に呼び出されないようにそれだけは気を付けている。
訝しげに机の向こうに座っている捺澄を見つめていると、それに気付いたのか彼は少し気まずそうに頭を掻いた。
「そんなに緊張しないで。別に叱りつけようってわけじゃないんだ。・・・実は・・・一方さん、いつも俺の授業聞いてないでしょ。他の先生からはそんな話聞かないから、何でこの授業だけって思ってね。・・・何か悪い所があれば直すよ。だから、教えてくれないか?」
どうやら叱られるわけではないらしい。まぁ、私の授業態度の悪さを指摘されてはいるのだけれど。
「・・・先生は悪くないですよ。だから気にしないでください。」
「じゃあ、何であんな態度をとるんだい?倫理学は嫌い?」
「そういうわけではないですけど・・・。」
貴方が苦手です、なんて言えるわけもない。私が何と言っていいか口ごもっていると、彼は静かに溜息を吐いた。
「・・・まぁ、嫌なら無理に話さなくてもいい。一方さんは成績も良いし、咎めるところもない。ただ単純に、何か言いたいことがあるのなら言ってほしかっただけだから。」
彼はそう言いながら、またあの笑顔を向けた。
(それを止めてくれればいいのに・・・。)
私はそう思いながら、彼の顔から眼を逸らした。
「・・・君には去年のことがあるからね。臨時講師とはいえ、精一杯サポートしなきゃって思うと、ちょっと力が入っちゃって。・・・こう見えて、実は医師の資格を持っていてね。精神医学と外科医学の両方は基礎知識程度ならあるから、悩みがあるならいつでも相談に乗るよ。・・・明後日から休みだけど、その間でもいつでも相談に乗るから。」
彼はそう言って笑った。
部屋を出て時計を見ると、五時近くになっていた。商店街の八百屋は七時までなので、急げば間に合うだろう。
今晩も両親は帰って来られないということだ。両親は繁忙なのでいつものことだから、家にいないことがほとんどだ。だから料理だけじゃなく、家事はほとんど自分でやっていた。美樹の両親も同じ職場だから、それも変わらない。
本当に、よく似ているなと、つくづく思う。
「お疲れ様。不良生徒さん。」
声のした方を見ると、廊下の角から美樹が現れた私を待っていたのだろう。叱られて出てくることを想像して、そんな私をからかうために。
「別に指導を受けたわけではないわ。」
「あら、そうなの。残念。」
相変わらず偽造した笑顔を貼り付けながら、美樹はスキップしながら私の横に並んだ。
「あなた今日も顔が険しいわ。あの人と同じ空間にいる時はいつもそうね。」
「・・・私の顔はいつでもこうよ。」
「違いないわ。」
美樹が向ける笑い顔が、捺澄の笑顔と重なる。二人の笑顔は全く似ても似つかないのに、なぜだかいつも重ねてしまう。
たぶん、二人の笑顔が嫌いだから嫌でも重ねてしまうのだろう。
「それで、何の話をされたの?」
「授業態度と、あと、いつでも相談に乗るとか言われたわ。・・・去年のことがあるから心配なのだそうよ。」
私がそういうと、彼女はあぁ、と言って複雑な表情をした。
去年の夏休み、私は事故に遭ったらしい。
らしい、というのは、当時の記憶があまりにも朦朧としているからだ。事故で頭を強く打ったからだと言われたが、入院中の記憶も思い出せないほどで、去年の夏休みの記憶がすっぽりと抜けている。
事故に遭ったというのは捺澄から聞いた。捺澄も前任・・・亡くなった教師から聞いたらしく、詳しくは知らないらしい。相当酷い事故だったらしく、捺澄以外誰もその話を私にしてくる人間は居ない。
私も特に何も話さなかった。まず話す人間がいないし、居たとしても、覚えていない事故のことなど話しても意味がないだろう。
それでも、最初に意識が戻った時のことは覚えている。
美樹が自宅に来たからだ。
まさか彼女が来るとは思っていなかったから、とても驚いた記憶がある。そして驚きとともに、朦朧としていた意識が覚醒した。
ベッドの横にあるカレンダーを見て、私はその間の記憶がないことに困惑したが、美樹はそれ以上に困惑した表情を浮かべていた。
「何も、覚えていないの?」
美樹は驚くことに、心配そうにそう声を掛けてきた。今までの彼女の態度からは想像できなかったため、さらに困惑したが、何とかうなずいた。
「・・・そう。」
その時の彼女の表情をどう表現していいか分からない。一瞬その不可解な表情になった後に、彼女はいつもの通りの笑顔を浮かべた。
「あなたが記憶を失ったと聞いたから、その面を拝みに来てやったわ。興味本位で。」
それからは、元の彼女に戻った。戻らなくてもよかったというのに。
今隣を歩く彼女は、その時と同じ人を食ったような笑顔でこちらを見詰めている。
「それにしても、嫌いすぎなんじゃない?あれだと少し可哀そうよ。」
「・・・そんなことは重々承知よ。ただ、生理的に無理なの。」
貴女と同じようにね。とは付け加えなかった。
「ふーん。ま、いいわ。それより、急いで帰らないと、八百屋さん、閉まっちゃう。」
彼女の言葉に腕時計を見ると、5時半を回っていた。ここから商店街までは一時間ほどかかるので、あまり時間がない。
「そうね、行きましょう。あなたもたまには役に立つわ。」
「いつも一言多いんだから、この不良生徒は。」
一言多いのは貴女も同じでしょうと顔を顰めたが、そんな私を見て、美樹は笑った。
この時間帯、商店街は夕飯の献立を決める主婦や帰宅途中の学生で混雑する。これだけ見れば繁盛しているように感じるが、これ以外の時間や休日になるとほとんど人がいなくなる。原因は数年前に隣町に開店した大型のショッピングモールで、そこにはレジャー施設も多数ある。学生や家族連れなど、多様な年齢層にも支持を得られるように作られているその施設にお客をとられ、この商店街に並んでいる店の半数以上はシャッターが閉められ、その数は年々増加している。
「小さい頃に比べて、ずいぶんと店が減ったわ。」
商店街を見回しながら、美樹がしみじみとした声で言う。
「何を悠長なことを言っているの。貴女のせいで閉店間近だわ。急いで。」
時刻六時四十分。私一人だけならもう少し早くつけたのに、彼女とここに来るといつも遅くなる。
目的の八百屋はまだ開いていたが、置いている商品は少なかった。閉店間際なので、ほとんど売れてしまったのだろう。私は残っているものの中からなるだけ状態の良い野菜だけを選び、かごの中へと入れていく。美樹も玉ねぎを手に取り、矯めつ眇めつしている。
私が先に買い物を済ませ、外で待っていると、美樹が店長と一緒に出てきた。
「美樹ちゃんは偉いね。お父さんとお母さんが中々帰って来ないから、一人で家事やって。」
「いえいえ、おじさんの野菜がおいしいから、料理したくなるんですよ。」
美樹は愛想のいい笑顔を見せながら、店長と話している。
「うれしいこと言ってくれるねぇ。今度サービスしてやるよ!」
「わぁ、ありがとう!また今度ね!」
おう、と言って店長は彼女に手を振る。その時、私の方をちらりと見たが、私は構わず歩き出した。
店長は私にも笑顔を向けるが、親しげに話したりはしない。
店長だけでなく、商店街のほかの店の人たちだってそうである。八百屋に行くのが遅くなったのも、美樹が行く先々の店で色んな物を買ったり貰ったりしていたからである。それに比べて隣にいる私には愛想笑いを浮かべるだけで、話しかけたり親しくしたりすることはない。それは彼女の擬態がうまくいっている証拠であり、私の本性が常に曝け出されている結果である。
この商店街にいると、私たちの共闘の成果がよくわかる。
「・・・今度って、今サービスしてくれればいいのに。」
「してもらえるだけマシでしょ。貴女文句言える立場にないでしょう。」
「あなたには冷やかす権利がないでしょ。これはいわゆる私の常日頃の努力の賜物なのですから。僻むのなら私の真似でもしたら。・・・まぁ、私と同じことを貴女がしたら絶対に阻止するけど。気持ち悪いから。」
美樹は八百屋に来る前にもらった様々なものの中からコロッケを取り出し、口に咥えた。そして何かを思い出したようにこちらを見る。
「・・・あ、そうだ。今日面白い噂を聞いたんだけど。」
美樹はコロッケを頬張りながら話し出す。もごもごしていて聞き取りづらい。
「食べてから話しなさいよ、汚いわ。」
分かってるわよ、と言いながら、彼女はコロッケを口に放り込む。
私は噂話が嫌いだ。本当かどうかも分からないのに周囲に蔓延り、人の感情を伝染して増幅させる。それは時には不安だったり、幸福だったりするが、あまりに増大してしまった感情というのは、何を引き起こすか分からない。他人の嫌いな私は、見たこともない人たちのそういった感情を、多数の人間によって増幅された噂話、というものが怖くて仕方ないのだと思う。
だから美樹は、私に噂話をするのが好きでしょうがないらしい。昔からこの手の噂話をどこからか聞いてきては私に聞かせてくる。最初は嫌がって聞かないようにしていたが、その内聞いても気にしないようになった。これもある意味彼女のおかげで成長したと言えるのだろうが、全く嬉しくないし、迷惑だ
「霞、人造人間って知ってる?」
「人造人間?それって、あのフランケンシュタインとかの?」
私はいぶかしげに美樹の横顔を見詰める。少し前を歩く彼女はこちらを振り向かずに話を続ける。
「そう、その人造人間。人に造られた、人の形をした怪物。」
「それがどうしたの?」
「この街にね、いるらしいのよ。」
相変わらず彼女はこちらを前を向いたままこちらを振り向かない。少し前を歩いているので、どんな表情をしているのか全く分からない。
周囲の音がふっと遠のく。込み合っている商店街は騒々しいはずなのに、彼女の声だけが明瞭に聞こえる。
私はとても不安になる。
「いるって、人造人間が?そんなの噂でしょ。そもそもいるわけがないわ。」
「いるわけないのにいるから噂になってるのよ。」
「・・・でも、だからどうしたっていうのよ。何かあるって・・・」
「気を付けないと。」
私の言葉を、美樹が遮る。その言葉はとても強い口調で、私はその場に立ち止まる。美樹は人混みの中を構わず進んでいく。
「・・・気を付けないと、きっと死んでしまうわ。」
ようやく振り向いた彼女の口元には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
その表情に、私の体は凍りつく。
美樹と共に過ごすようになってから、彼女の様々な表情を見てきたが、今見た顔はそのどれでもなかった。例えようもない、暗い表情。
とても、とても寂しくて、悲しい表情。
その場に固まる私を置いて、美樹は人混みに消えていった。
「・・・一体、なんだっていうのよ。」
彼女のいた辺りをしばらく見つめてから、私は何も考えないように前へ歩き出した。
商店街を抜け、角を曲がると、すぐに居酒屋の並ぶ通りに出る。ここの通りも昔はもっと多くの店があったそうだが、今や店先に出ている看板は片手で数え切れるほどで、隆盛を誇っていたようには見えない。
私はこの通りが嫌いだが、この道を通らなければひどく遠回りになる。今はすぐにでも家に帰りたかった。
さっさと抜けてしまおう、と歩くスピードを速めようとした時だった。
視界の端に、白いものが映る。見ると、店と店の隙間に、白い塊が転がっていた。
なぜそれが気になったのか分からない。美樹に変な噂を聞いたことは多分に影響していたとは思う。きっと、別なものに興味を移して、嫌な記憶を早く忘れたいのだ。
近づいてみてみると、それは土で汚れた白いシーツで包まれていた。シーツは下の方が破れ、中からシーツよりも真っ白なくるぶしが覗いていた。
・・・くるぶし?
瞬間、塊が動いた。覆われていたシーツがずれ、頭が覗く。それは顔を上げてゆっくりと周りを見渡し、そして。
私と目があった。
その人は、全身が白かった。髪は染めたように白く、肌もすきとおるように真っ白だった。唯一瞳だけが薄く灰色がかった空色だったが、周りの白にいずれ浸食されてしまいそうなほど弱々しい色をしていた。
驚きと困惑で混乱していた私は、どうしてこんなところに居るのか、何をしているのか。様々な疑問が脳内を駆け巡っていたが、初めに出てきた言葉はこれだった。
「貴方は・・・誰?」
混乱している私の突拍子のない問いかけに、彼は疑問を持つでもなく、訝しむでもなく、ただ無表情に答えた。
「・・・ユウマ・・・。」
なぜかその表情に、私は興味を惹かれた。
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