【七月二〇日 午前六時三十分】

―――ぽこぽこ、ぽこぽこ・・・。

 細かい気泡が目の前を浮かんでいく。薄く開けた眼で、私はそれをぼんやりと眺めている。

 「・・・。・・・。」

 遠くで声が聞こえる。私はその声音を知っていて、懐かしい気持ちになる。

 でも、同時にとても不安になってしまう。

 「・・・ミ。カ・・・。」

 あぁ、聞こえているよ。そうね、確か、あなたの名前は・・・。


 ピピピピピ。ピピピピピ。

 目覚まし時計の電子的な音で目が覚めると、私はベッドの上で横たわっていた。朝日が窓の隙間から顔に当たり、私は顔を顰める。

 しつこく鳴り響く電子音を黙らせ、私は上半身を起こした。寝惚けた眼で辺りを見回す。

 薄いピンクの水玉模様が付いたカーテンに、小さな本棚と勉強机。私の身長ほどもある鏡の横には、入学の時に母にねだって買ってもらった鏡台がある。奥にある洋ダンスの横の壁には、セーラー服と通学カバン掛けられている。

 「・・・学校、行かなくちゃ・・・。」 呟いて、大きく欠伸をした。私、一方霞(ヒトカタ カスミ)は、先刻まで見ていた夢をすっかり忘れてしまっていた。


 外に出ると、水分の多く含んだ暑気が体を包んだ。たった数秒歩いただけで、体にじっとりと汗をかく。まだあまり高く昇っていないというのに、自己主張激しく陽光を発する太陽を、私は睨み付けた。

「おっはよー!カスミぃ!」

夏の熱気に拍車を掛けるような暑苦しい声が背後から掛けられる。私はうんざりしながらも、後ろを振り返り、その声に応える。

「相変わらず朝から暑苦しいわね、美樹。」

私の冷たい視線をものともせずに、彼女は快活に笑いながら、横に並んで歩き始める。

「霞こそ、常時冷徹なその瞳は、その内人を殺めるんじゃないかな?」

私の毒のある言葉にも笑顔を変えず、日向美樹(ヒナタ ミキ)は一層厳しい言葉を投げ掛けてくる。

美樹と私は家が隣同士と近く、幼稚園から現在通う高校までずっと一緒という、いわゆる幼馴染の間柄である。お互い一人っ子で、両親は共働きの上、どちらも同じ職場という、薄気味悪いほど育った環境が一致している私と美樹は、もともとの性格なのか育ちのせいか、根本的な性格が似通っていた。

「あなたが死んでくれるのなら、私は大歓迎だわ。」

「そう、じゃあ私はあなたが死ぬまで死んであげないわね。」

私は無表情で、彼女は貼り付けた笑みを、少しも変えずににらみ合う。

私たちはとてもよく似ている。毒舌を吐けば等しく返してくるし、好きなものや嫌いなものを並べあげれば寸分違わず意見が一致する。

屹度それは、育った環境が同一だからなのだ。

私は、他人を蔑んでしまう生来がある。相手のことを見下してしまうし、それを言葉や態度で表してしまう。物心付いた頃からそんな態度で他人に接してきたものだから、私の周りには友達がいない。私は、そんな自分の性格が昔から嫌いだった。

 それはたぶん、美樹も同じなのだと思う。

 彼女もずっと一人だった。小学校の頃、クラスも同じだった私たちは、同級生が仲間を作って遊んでいる中、いつも孤立していた。家に帰れば同じく一人だとはいえ、その生活に私は一生このままなのかという焦燥感と、少しの寂しさを抱えていた。彼女に声を掛けられたのは、そんなある日のことだった。

 校門の前で私を待っていた彼女が、こちらを振り向き言ったのだ。

 「こうなったら共闘だ――――。」と。

 当時、私たちは家も隣だったし、両親も付き合いが深かったため、互いに互いのことを知っていた。そして、お互いの性格がとてもよく似ていることも。

 だから、あまり深く関わろうとしてこなかった。

 話せばお互いけなしあうのは目に見えていたし、それで相手を嫌うことも、自己嫌悪することもよく知っていた。それならばいっそ話さない方がいいだろうと、ずっと避けてきた。彼女も、そう思っていたと言っていた。

 校門から家に帰る途中、彼女と私は話し合った。自分の考え方や、今までの行動、これからのこと。彼女とは驚くほどに話が合ったし、考え方も一緒だった。話してみると、やっぱり私は彼女のことが好きになれなかったし、彼女も私のことを嫌っていたように思う。

 だからこそ、私たちは協力し合った。互いのことを嫌いなら、幾らでも貶し合うことができる。互いの悪い所を嘘偽りなく言い合い、その言葉を吟味し、改善して現状を打開しようと、私たちは結託した。

 そして、私は他人を傷つけないように人に関わることを極力抑え、美樹は性格を隠し、明るく振る舞うことを決めた。

 けれども最近、彼女がその性格を繕うのに、疲れているような素振りを見せる時がある。

「こうやって誰かと言いたいことを言えるのも、朝と帰りのこの時間だけだし。それに、次期生徒会長様に面と向かって悪口を言うのもいいストレス発散になるから、多少の罵詈雑言は大目に見ましょ。」

 そう言い残すと、彼女はついっと前を向いて歩きだした。腰まである長髪を結ったポニーテールが、その動きにつれて左右に揺れる。

 ――――それは、あなたの決めた道じゃない―――――。

 快活な歩き方とは裏腹に寂しく揺れるその髪を、私はじっと見つめていた。


「おっはよう、みんな!調子はどうだい?」

教室に入るなり、美樹は片手を挙げて大声を出した。

騒然としていた室内は、一瞬水を打ったように静まり返ったが、美樹の姿を認めてさらに大きくざわついた。

「美樹はいつも元気ね。」

「もちろん!それだけが取り柄ですから!」

「確かに・・・。知恵も運動神経も胸もない美樹が、唯一誇れるものだもんな。」

「おい、そこの男子、今何つった!そこに直れぃ!」

美樹の周囲に笑いが起きる。私はその横を通り過ぎ、自席に座って教材を机の中に入れ始める。それを入れ終えると、鞄の中から小説を取り出し、静かに読み進める。そうして一日の始まりを告げるチャイムが鳴るまで、美樹は誰にも毒舌を吐かず、私は誰からも声を掛けられなかった。今日も変わらず、美樹は絶えず誰かから話しかけられ、私は事務的な会話以外殆どしない、そんな一日を過ごすのだろう。

私は誰にも聞こえないように、小さく溜息をついた。

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