【七月二〇日 午前四時二十分】

白い壁、白い天井。

それが、初めて視界に映った風景だった。天井には照明が一つ取り付けられているが、壁も天井も真っ白なために、目が痛くなるほど眩しい。

 どうやら自分はベッドに横たわっているらしい。頭を傾けてみると、壁や天井と同じ真っ白なシーツが裸の体にかけられている。

 肌は、病的に青白い。

 裸体からは幾本ものチューブやコードが周囲に伸び、ベッドの周りの白い箱型の機械に繋がっている。

 「眼が覚めたみたいだね。」

 不意に、頭上から声をかけられる。こちらを覗き込むようにして、男がこちらを見つめていた。

 「一時はどうなるかと思ったよ。君を失ってしまうのではないかと・・・。とても心配した。」

 彼は優しげな瞳をこちらに向ける。本当に心配していたようだ。うっすらと瞳が潤んでいる。

 何故だろう。

 僕が怪訝に思い、彼の顔を見返すと、彼は眼鏡の奥の瞳を大きく見開いた。

 「君は、まさか・・・。」

 その時、巨大な振動が部屋全体を揺るがした。続いてけたたましいベルの音が部屋中に鳴り響く。

 「・・・ここまで来たか・・・。」

 彼は顔を顰めると、部屋の出口へと向かう。扉を開ける前にこちらを振り返ると、笑顔を向けた。

 「大丈夫、何も心配しなくて良い。僕が君を守るから。」

 そう言い残して、彼は出て行ってしまった。

 再度、部屋に一人きりになる。相変わらずベルはなり続け、急に寂しさと心細さがわいてくる。

 彼がいなくなって、この部屋は白だけの世界に戻ってしまった。壁が、天井が、機械が、僕を囲んでいる。

 いや、僕自身も白いから、囲まれているのではなく、同化しているのだろうか。

 この白は、自身が周りに白く染められてしまったのか。それとも。

 自身が、周りを白く染めてしまったのか。

 例えようのない不安が心に押し寄せる。それは心細さと寂しさと相まって、大きく膨らんでいく。

 巨大な爆発音が、耳をつんざく。続いて、部屋中に先ほどよりも強い振動が響く。

 周囲は煙で覆われ、機械や薬品を入れていたのであろう瓶が床に散乱している。ベッドの上で横たわっていたはずの自分の体は、裸のまま床に投げ出されていた。

 何が起きたのか、全く分からなかった。

 膨らんでいた不安が、恐怖に変わり、僕は手近にあったシーツをとって部屋を飛び出した。 

 部屋の外も、真っ白だった。僕は体をシーツで包み、とにかく走ろうと足を踏み出した。

 踏み出した廊下の先に、黒い何かが見えた。

 (・・・あれは、人・・・?)

 黒い戦闘服のようなものを着て、マスクをかぶった大勢の人間が、廊下の先から隊列を組んでこちらに向かってくる。周りがまっ白いだけに彼らの姿は余計にはっきりと視界に入った。

 「・・・見つけたぞ、ユウマぁぁぁぁ!」

 集団の先頭を歩く男が、こちらに気づくなり大声で叫びこちらに駆け出した。乾いた発砲音がしたと思った瞬間、足元のシーツの裾がはじける。

 向けられている者が銃口だと気づき、恐怖が限界に達する。

 銃口に背を向け、廊下を駆け抜ける。後ろからは男の叫び声と、いくつもの発砲音。

 ぐるぐる、ぐるぐると恐怖と不安が脳内を駆け巡る。

 何故だろう、何故だろう。

突き当りを左に曲がる。運がいいことに、銃弾はすべて外れたようだ。体に痛みを感じないことに一瞬安堵したが、背後から聞こえる大勢の足音にすぐさま恐怖がよみがえる。

前方は相変わらず真っ白な空間を広げていたが、廊下の先に異質な茶色い扉が佇んでいるのが見えた。僕は一目散にその扉へと駆け寄り、自らの体の数倍の高さのあるそれを、体全体を使って押し開ける。

「うわっ・・・!」

見かけによらず、扉は軽々と開き、僕は地面に倒れこんだ。起き上がろうと手をつくと、冷たい土の感触がした。

ゆっくりと地面の先へと視線を伸ばしていくと、地面は唐突に途切れ、暗い闇の淵が広がっていた。目を凝らすと、そこは針葉樹が群生した巨大な森だった。それらの一本一本がとがった先を天へと向け、はるか遠くまでその群れを連ねて並んでいた。朝焼けを背にして黒く連立する山々の斜面にも、おそらく同じものが無数に生えているのだろう。

どうすることもできずにしばらく呆然としていると、背後の扉が乱暴に開かれる音がした。僕は咄嗟に後ずさる。後ろを振り返ると、崖まであと一歩という位置まで来ている。崖の下はどう考えても落ちたら助かりそうもない高さで、逃げ場のなくなったことに絶望を感じた。

扉の前には、既に銃を構えた黒い集団が横一列に隊列していて、こちらの様子をじっと窺っていた。

「追い詰めたぞ・・・、ユウマ。」

列の中から歩み出た男は、先ほど先頭にいた男だった。よく見ると服の形が一人だけ違う。

「これで終わりだ・・・。撃て!」

男の言葉と同時に、僕は後ろに飛んだ。

耳には発砲音と、自分が落下して、風を切る音が聞こえてくる。僕の行動に気が付いて駆け出した男の姿が一瞬だけ目に映り、すぐに黄土色の崖だけになった。

何故だろう。何故だろう。何故だろう。

目が覚めてから、ぐるぐると巡る疑問と、自らの行動に答えを見いだせないまま、あと数秒後に僕は死んでしまうと思うと、悲しさよりも虚しさが胸に込み上げた。

だが、地面から生える針葉樹が目前に迫った時、僕の意識とは無関係に、体が勝手に翻る。体を包んだシーツを両手で掴み、木の枝に引っ掛ける。強い衝撃が両腕を襲い、僕はシーツを放そうとしだが、両手はシーツを放さない。逆に枝の方が耐え切れず派手な音を立てて折れてしまったが、僕の体は下方の枝に再度同じ行為を繰り返した。その度に枝が折れ、体中が軋んだが、徐々に落下速度は緩んでいき、最後には地面に近い枝で僕の体は止まった。

「・・・?」

今のは、一体何だったのだろう。

シーツを伝って地面に降りながら、僕は自分の体に疑問を持つ。地に足が着いても、未だに焼けるように痛む両腕を見詰めた。掌は擦過傷で真っ赤に滲み、両腕は筋繊維が切れたのか青く内出血している。

自分の意識は、手を放そうと必死だったのに、体はシーツを掴んで放そうとしなかった。まるで自分の体ではないかのように。

頭上で、一際大きな爆発音が聞こえた。その音に僕は我に返る。

あの黒い戦闘服の男たちが、いつ追いかけてくるか分からない。考えるのは後にして、今はこの場を立ち去った方がいいだろう。

そう考えて、枝から降ろしたシーツを再度身に包み、僕は駆け出した。

何もかも分からないままに。

「・・・ユウマ・・・。」

あの黒い戦闘服の男は、僕のことをそう呼んでいた。

自分の命を狙っていた男の言葉であったが、何もかも分からない今、その言葉だけが唯一分かったことだった。

(ユウマ、ユウマ。僕の名前はユウマ。)

頭の中で何度も反芻しながら、暗い森の中を、僕は手探りながら進んでいった。

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