30話 何だったんだで済まされる世界 前編

 白い空間が広がる。

 真っ白で、臭いはなく、音はなく、味はなく、感触もなく、自分の身体すらも無い。

 何もかもが無い中で、白い空間が有るということだけが分かっていた。


「ふうむ……何処でしょうかね」


 分からないことだらけの中で白い空間に唯一自分がいることを恩無は確実に確信していた。


「ハティさんと共にいて、何者かの襲撃を受けて、そこで私は離れた場所からハティさん達の闘いを見物しようかと思っていたのですが……」


 知らない場所であっても、未知の体験であっても恩無に恐怖も躊躇いも見られない。

 そんな感情よりも先に出てくるものこそが好奇心であり、科学者としての本能が今の状況を楽しめと言っている。


「まあどなたかの能力なんでしょうがね。固有の空間へと引きずりこむ能力でしょうか? それとも五感を潰す能力でしょうか? ああ、考えても全然分からない。材料が足らない」


 もっと能力を使ってくれ。

 恩無は願う。自分の安全よりも敵と思われる存在の能力の使用を。

 仮令、自分に危険が及んだとしてもそれで新たな能力の存在が分かるのだとしたらそれは本望であり、生きて体験し、生還して解明できるのならばどんな犠牲であっても払う覚悟である。


「私を見ているであろう動物はなぜ私の前に現れないのか。この真っ白い空間を作り出すことが能力でありここが限界なのか、それとも発動までに時間がかかってしまう能力なのか、気づかないだけで私に攻撃はしているのか……可能性を考えても尽きません」


 自分の身体の感覚がないためここから移動することもできない。

 移動どころか真っ白い空間の中、1歩歩いてもそれを認識できるのか分からない。

 果たしてこの空間の先に果てはあるのか、歩いても歩いても果てが無いのならば、歩いたことを認識できないのであれば、永遠に歩き続けるはめになる。


「この空間作りが能力の限界ならば最悪ですね。何せ、これ以上の解明は望めないのですから」


 しかし、恩無は自身の命よりも敵の能力が未だ未知数であることを望む。

 白い空間の生成。これだけで終わってしまうことは恩無にとっての最悪であり、敵の限界を示すのだから。


「おや?」


 これが敵の能力だという考察を重ねるうちに恩無は気づく。


「そういえば、先ほどまでは何も聞こえませんでしたが、こうして私の声は聞こえていますね。というか、声を発することができているようです」


 声を発し聞くことができる。

 それだけでまだ敵の能力はこれで終わりではないということが分かり恩無は嬉しくなる。

 次第に、瞼を開いている感覚を感じ、指先が何かに触れているという感触が起きてくる。


「待ちましょう。考える時間はたくさんあります。考えて待ちましょう」


 心臓の拍動が聞こえ、関節の位置を感じられるようになり、やがて五感全てが十全に機能し始める。

 恩無は自分の姿形が先ほどまでの、ハティと別れた時と同様であることを確認する。

 細身の身体には白衣が通ってあり、その下にはヨレたシャツがある。

 恩無は懐を漁ると、少し残念そうな表情を見せる。


「あらら……私特性の薬品が1つもありません。取り上げられてしまいましたかね……」


 しかし、身体に埋め込まれた――爪の間や口内、その他皮膚の下に仕込まれた――薬品の数々も無いところを見ると取り上げられたとも考えにくい。


「考えられるのは、ここは現実ではないという可能性。私のこの身体は私の身体ではなく、現実の身体を忠実に再現されただけの偽物、ということでしょうか」


 自分で言っておいて恩無は分からなくなる。

 この能力は何なのか。何を目的とした能力なのか。

 身体を破壊するならまだしも、再現するとはどういったつもりなのか。


「そういえば……」


 と、恩無は気づく。


 まだ身体が作られる前、指先に何やら感触があったことを。

 てっきり無意識に身体にでも触れていたのだと思っていたが、その時にはまだ身体は出来上がっていなかった。

 指先から出来上がっていたのも変ではあるが、指先に何が触れたのだろうと、見てみると、


「……ほう」


 指先から腕にかけて小指大ほどの虫が何匹も這っていた。それも3匹や4匹どころではない。

 指先に空いた穴からさらに一回り小さい虫が這い出ており、皮膚を削っては食べ削っては食べて少しずつ大きくなっている。そうして一定の大きさにまでなると別の虫を交尾をし、皮膚に穴を空け卵を産み付けていく。

 そうして少しずつ、段々と、時間が経てば経つほど数を増していく虫を見て恩無は、


「何と言う種類なのでしょう……見たこともないですね」


 と、冷静に虫を観察している。


「皮膚に穴を空ける行為も、卵を産み付ける行為にすら痛みもくすぐったさも感じません。何か麻酔のような毒液を抽出しているのでしょうか。この大きさでこのように優れた麻酔薬を持つ虫など限られているはずなのですがねえ」


 常人であれば既に発狂していてもおかしくない事態にも関わらず恩無はあくまで観察を続ける。

 やがて虫の1匹を摘まみ上げると、


「ふむ、味は無味ですか。独特の苦みも甘みもない。舌が痺れた様子もないし、感覚が鈍る気配もない」


 口内に入れると咀嚼し、ついには飲み込んでしまう。


「おや、全身にまで回ってしまいましたか」


 今や恩無の全身は虫という虫に覆いつくされ、皮膚は食い破られ、その中身にまで浸食されかけていた。

 しかしそれでもなお恩無は痛みを感じない。

 これは恩無が故意に痛覚を遮断しているわけではなく、全て虫ないしは敵の能力のせいである。

 虫が這う感触はあれども、体内に侵入する痛みはない。


「これが敵の能力ということなのでしょうが……痛みを発しない虫を操る能力ですか? ……うーん、思い当たる動物はいませんね」


 全身に虫が広がろうとも、体内に虫が侵入しようとも恩無は考え続ける。

 脳内を荒らされない限りは、思考を続けられる限りは続けていく。


「アリクイならば蟻を操れる能力を得られる可能性もありますが、これはどう見ても蟻ではないですね。新種の蟻と言われたらそれまでですが。ふむ、思考並列というのをやってみましょうか」


 思考並列――1つの事柄を突き詰めずにあらゆる可能性だけを考えていく考え方であるが、普通、こうした危機的状況では行わない。というか、行おうという考え方を思いつかない。あらゆる可能性を考えられるだけの冷静さと思考速度なくしては並列思考は行えない。だが、あらゆる可能性を考えられるならば、危機的状況を脱するのには並列思考というのは有効なのである。


「空間の生成……これはもう外していいでしょう。虫の操作……捨てがたいですがこの白い空間の説明ができません。ならば、空間も虫も私の身体も全てを生成するという能力はどうでしょうか……いや、そもそも意味が分かりませんね。身体の生成と言っても、私も元の身体が……ああ、そうか」


 恩無は思い出す。恩無の身体を新しく生成するということは、元の身体が必要である。

 それがどこにあるのかを考えれば後はこの状況の説明は容易であった。


「巨大な黄色い何かによって額をぶつけた私は建物の陰に隠れました。そしてきっと気絶したのでしょう。思った以上にダメージが大きかったのでしょうね」


 ここまで来れば後は簡単だ。


「気絶、つまりは意識を失っている状態。もっと言えば意識は失っているけど違う場所に飛ばされた。意識が飛ばされる違う場所、つまり……」


 恩無の目に映る景色が変わっていく。


「ここは夢の中というわけですね。そして夢から連想される動物はアレしかない」


 真白な空間がひび割れ崩壊していく。

 崩壊と同時に新たな世界が生まれる。

 木々が並び、小鳥のさえずりが聞こえる。澄んだ透明な湖には動物達が水を飲もうと集まる。風が吹き花が散る。

 そして、雄大なる自然の背後に巨大な建造物があった。西洋を思わせる城、そしてその中からは人影が出てきた。

 闇のような黒を基調とした己のプロポーションを最大限に魅せる扇情的なドレスを身に纏いコツコツと影のように黒いヒールを鳴らしながら、


「見事じゃ」


 そう、声の主は高慢に言った。声とは反して控えめな胸の前で腕を組みながら。


「こんにちは、あなたはバク、で合ってますでしょうか? 私は恩無と言います」


 王女のように高慢で不遜な女に対し、恩無は優雅な礼をしたのであった。

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