29話 月を見上げる狼 後編

 月下での身体能力向上。ハティは自分の能力をそう表した。

 満月であればあるほど身体能力の向上値は高くなり、新月であればあるほど強くはなれない。

 しかしその能力はおおまかには身体能力の向上であって、詳細は全く異なる。

 ハティの能力の詳細とは『ウルフ’ズハート』とは狼男への変身である。

 狼となった人間。人間となった狼。いずれとも違う点はいくつもあるが、その最たるものは化け物と呼ばれる所以の再生能力と身体能力である。吸血鬼と並ぶほどの化け物であり、月の下で吠える姿は異形そのものである。

 姿は狼に近い人間と言っていいだろう。しかし、体毛は濃く生え、頭部には獣の耳が、爪はより鋭く裂くことに特化し、牙はより噛み砕くことに特化していた。身体つき自体が一回り大きくなり、手足は太くなっていた。

 しかしこれでもハティの能力は十分ではない。半月だから能力の効果は半分しか発動できない。体毛は衝撃を吸収してはくれず、耳は遠くまでは聴こえず、爪は堅固なものは裂けず、牙は強固なものは噛み砕けない。身体つきは一回り大きくなってはいるが、元々ハティの体格はそこまで大きくはないため巨躯とは言えず、手足は多少の筋肉が増えただけだ。

 本来であれば、満月であれば、能力が十全に発動していれば、勝負など一瞬で着いていただろうし、能力を発動するのにも躊躇いが無かったのかもしれない。爪と牙で何物をも裂き砕き、丸太のように太い腕は振り回すだけで敵の身体が千切れるだろう。






「半分で十分だ。このくらいで……丁度いい」


 ハティが走り出した――瞬間、風来坊の本能が己はこのままでは1秒後に死ぬことを知らせる。考える暇もなく、両腕を巨大化させ、盾のように身を守る。

 本能の訴えの通り、巨大化した腕を盾にしてから1秒後にザシュ、という音がし、盾にした腕に衝撃が走る。


「うお……おおぉっ!」


 腕を盾のようにしているため向こう側が見えない。しかし、ハティの気配は未だすぐ近くにあるため巨大化した腕をそのまま振り回す。幸いというべきか、ハティは振り回したよりも後方におり、こちらへの攻撃をすぐに仕掛けてくる気配はない。


「ふん、少しは強くなったようだな」


 風来坊は能力を使ったハティが予想以上のパワーアップをしてることに驚き、攻撃を直接受けた腕を見る。

 腕は大きく切り裂かれており、少なくない量の出血をしていた。


「…………」


 風来坊は驚いた。ハティの速度よりも切り裂かれた腕を見て。速度よりも攻撃力の上昇を危険視する。

 風来坊の巨大化した腕は只の巨大な腕ではない。

 極限まで肥大させた筋肉を極限まで圧縮させた結果として出来上がったものがあの巨大な腕であるのだ。圧縮の際に攻撃力を多少なりとも失ってしまった代わりにそれ以上の防御力を手に入れた。ただの筋肉ではない、圧縮された筋肉の壁である。

 しかしそれをハティは容易く切り裂いた。


「浅くはない。しかし深くもない。完全に動かなくなったわけではなく、痛みを我慢すれば十分に機能はする。その程度の攻撃力と言ってもいい……拙者の腕ではなければな」


 巨大化した腕を切り裂ける者はそれだけ限られる。

 かつて闘った1週目の敵はどれも風来坊の腕を突破できる者はいなかった。

 巨腕をかいくぐる速さ、そして巨腕を切り裂く強さ。どちらも持ち合わせる者に出会うことはこれまでなかった。


「拙者の腕を切り裂くほどの攻撃力。それが如何ほどに偉業の技であるか分かっているのか?」


 風来坊は己の能力に過剰なまでの信頼を置く。

 それはこれまでの闘いが負け知らずであることに加え、一度だって傷がついたことがなかったからである。


「知らないな。俺の力を一番知っているのは俺だが、こんなのが大したことだとは思えない。偉業の技? こんなのは技ですらなく、ただの引っ掻きだ」


 ハティは己の能力を使い勝手の良い物だとは思っていない。

 これまでまともに使ったことがなかったことに加え、使える期間も強化される値もバラバラなのだから。


「ふ、ふは、ははははは! そうか、これがただの引っ掻きと言うか。……ならば貴殿の技を引き出すとしよう。拙者の最大の技を以てだ」


 風来坊が勢いよく身体を捻る。そのタイミングで両腕を横に広げて巨大化させると遠心力によって風来坊の身体は回転する。


「拙者の回転は貴殿を壊すまで止まらない! 止められない! これこそが拙者の最大の奥義であり最高の秘技である! 圧縮された拙者の筋肉は回転によりさらに破壊力を増し、速度を上げる。この回転の前では貴殿の速度と攻撃力は無意味!」


 回転速度は見る間に上がっていく。

 風来坊を中心にしてコマのようにクルクルと回っていた巨腕は速度の上昇とともに見えなくなる。空気の抵抗などないかのように、動力源が生物の範疇を超えた何かであるかのように回転速度が減少することはない。

 回転するのに体力などいらないかのように、回転しているくせに眩暈など関係ないかのように風来坊は静止時と変わる様子はない。


「そう、それだ」


 ハティは身をかがめるほどに低く構える。


「お前のするであろう行動の中でそれが俺にとって一番の問題だった」


 風来坊の回転を見てハティは呟く。


「ずっと考えていた。もしお前が回転を始めたらどうなるか。恐らく俺の勝機は限りなく消えるだろうと。しかし、止まらない回転は止められない回転でもある。お前はそれをコントロールできているわけではない」


 ハティは小石を1つ拾うと、回転する風来坊に向け投げる。

 小石は風来坊の身体に到達する前に巨腕に当たると砕ける。


「一見、無敵に見えるかもしれないその巨腕の守り。しかし回転てのは真正面から止めようとするから回転力をまともに受けることになるんだ。止められない回転だって? 止められるさ、お前が死ねばな」


 ハティは跳躍する。風来坊に向かって、だが風来坊を目掛けずに。

 回転する風来坊の真上目掛け跳躍したハティは頭上から、


「最大の奥義も最高の秘技も当たらなければ意味がないのさ」


 巨腕を無視して、飛び越えたハティは風来坊の頭上から鋭く裂くことに特化した爪を脳髄深くまで突き立てた。

 巨腕を引き裂くことのできるほどの爪を巨腕以上に柔らかな頭部に受けた風来坊は何が起こるか分かっていながらも回転を止められずに死亡した。


「ぐう、おおおおおおおおおぉぉぉぉ!?」


 回転する風来坊の頭部に爪を突き立てたことによって共にハティは回転し、止まるまで目を回し続けた。

 死んでなお回転する風来坊であるが、やはり動力源は体内の何かしらのエネルギーを使っていたようで、やがて回転速度は減少していき、ようやく命と同じくその回転を終えることとなった。


「ハアッハアッ……死ぬかと思った。こんな方法しか思いつかなかったが、満月でなかったのが幸いした。……満月であれば、身体能力のみが最大であったなら死んでいたのは俺だっただろうな」


 満月であれば死んでいたのは自分の方であった。能力値が最大になるはずの満月で死ぬとハティは言う。

 それもそのはず、満月とは理性を失わせるものである。

 ハティの身体能力向上とはつまり、理性を失って、脳のリミッターを外して身体能力が向上するものであって、そこに理性は無く、知性は無い。敵を見れば即座に殺しにかかり、味方を見れば即興で死体を作る。

 そして、満月とは正反対である新月。理性を失う満月とは正反対である新月では理性が最も向上する。身体能力が最も向上しない代わりとして知性が働く新月はハティにとって逃走や襲撃に向いている時期なのである。

 生者を見れば死者に変えずにはいられなくなる。だからこそ、ハティは能力の使用を渋り、恩無と共にいるときは尚更使い道を探さなければいけなかった。

 しかし現在の月は満ちてはおらず半月である。

 身体能力の向上が半分程度である代わりに知性の向上も半分である半月は向上した身体能力を最も知性的に使える。

 回転する巨腕を飛び越えられる身体能力と、飛ぶ距離を算出する知性を備えていたからこそハティは勝利することができた。


「案外、回転しない方がお前は手強のかもな」


 風来坊とともに倒れたハティは風来坊の頭部から爪を引き抜くと、1つの建物に向かってふらつきながらも歩き出す。


「待っていろ、恩無。アンタが起きるまで……、いやこれから先しばらくは守っていてやるさ」

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