月を見上げる狼 中編

「アオオオオオオオォォォン!!」


 ハティは高らかに吠えることで敵を威嚇し自分を鼓舞する。

 敵の能力は未知数ではない。腕を巨大化させるものだとすでに分かっている。

 単純であるが故に破壊力や攻撃範囲はそれなりと感じたが、それでもハティの今の速さでも避けられるものである。


「最初に俺を仕留められなかったのが失敗だったようだな。恩無ならともかく、俺の武器は足と牙だ。早々に捕まることはない」


 巨大化された敵の右腕が頭上から落ちてくる。

 ハティは右に避けるとその腕に食らいつく。


「……硬いな」


 肉質のせいか、筋肉量が多いためか、牙が通らない。

 わずかに巨大な腕に埋もれた牙を引き抜くと腕から少量の血液が流れる。

 腕であるため致命的なダメージは期待していなかったが、これでは蚊が刺した程度。何十、何百、何千回噛みつけば腕を使い物にできなくさせられるだろうか。


「やはり本体を狙うしかあるまい」


 ハティは黄色い男――風来坊を目掛けて駆け出した。

 途中で敵の左腕が落とされる。だが、それをまたしても横にずれることで回避し進む。

 俊足までとは言わなくてもハティの足は鈍足ではない。

 腕の振り下ろしを何回か避けるうちに黄色い男の間近まで迫ることができた。


「お前、キリンだろ? 何がどうなって腕が巨大化するのかは知らねえが所詮は草食動物。闘うことに慣れてねえ。巨大化しようと、威力が高かろうと、慣れない攻撃はしないほうが良い」


 風来坊の振り下ろす腕を避けるとハティは男の眼前で口を開け牙を見せる。


「単調だ。だからそんな攻撃は容易く避けられる」


 風来坊は巨大化した腕を振り下ろしたまま動かない。

 そして、ハティが風来坊の首元に食らいつこうとした瞬間、


「単調なのは知っている。なぜなら、それは故意であるからだ」


 ハティの牙が首に触れようとした瞬間、風来坊の巨大化した腕とは逆の腕が直線状に伸びた。

 巨大化しての振り下ろしではなく伸長。それはハティの身体を吹き飛ばした。


「拙者の腕の真骨頂は範囲でも威力でも巨大化でもなく、巨大化する速さ。巨大化してからの振り下ろしがそれほどでもないのはそれが本命ではないからだ」


 両腕を元に戻して黄色い男は吹き飛ばされたハティの下へと歩む。


「先ほどは失礼した。頭に血が昇ってしまっていた、ほんの一瞬ではあるが。改めて名乗ろうか。拙者はキリンの風来坊。この名を灯火の命を燃やし尽くすまで覚えておくがいい」


 風来坊は吹き飛ばされたハティを見つけると近寄っていく。

 不意を突かれ、防御態勢を取らないまま腹部に巨大化した腕を喰らいまるで大砲の弾のように飛ばされたハティは建物の壁に当たることで止まっていた。

 しかし、腹部に巨大化した腕をまともに喰らい、背に壁との激突により吹き飛ばされた威力をそのまま喰らったハティは満身創痍とも言える状態であった。


「草食動物だから闘いに慣れていないと言ったな? しかしそれは間違いだ。拙者らキリンは子を守るために外敵を駆除する。貴殿らのような肉食動物を時に殺すこともある。そしてそれを行うのは発達した長い首ではなく……この4本の手足だ」


 風来坊は右腕を巨大化させると振り上げる。


「ライオンですら蹴り殺す拙者の脚力こそが拙者の能力の源よ。首だけに囚われがちであるが、キリンの足は長い。見る間もなく巨大化し、伸長する。それこそが拙者の『長頸鹿ジラフ’ズハート』の力である」


「…………」


「短い時間であったな。覚えておくどころか意識があったかも怪しい。しかし安心するがいい。この腕をまともに喰らって立ち上がった者は未だにおらん。どんな耐久自慢も一撃で戦意を消失していた」


「…………」


「ふむ、速度自慢であればなおさら耐えられなかったか。では、さらばだ」


 風来坊の巨大化した腕が振り下ろされ、辺り一帯に砕けた建物の壁の破片が舞い散った。





「(あーあ、何やってんだろうな)」


 ハティの意識は風来坊の腕を喰らい、壁に激突してもまだ辛うじてだがあった。

 腕が腹部に当たったことで、壁が背に当たったことで頭部へのダメージがほとんどなかったこと故であるが、しかしそれは腹部と背の痛みを感じてしまっていることと同意だ。


「(恩無に騙されたみたいに闘ってしまったが、俺は群れを守るためであって個を守るために闘ってはいなかった。モチベーションの問題……のせいにしたいわけではないが、油断があったことは間違いない)」


 ハティの目には巨大化した腕の持ち主である風来坊がこちらへと近づいて来るのが映っている。しかし、身体は動かず、頭の中では今起きている状況を正しく認識しようとはしていなかった。


「(結局、能力も使うことはなかったな。まあ今から使ったところで遅いか)」


 しかしその時、ハティは気づいた。

 昼間でも見える月を。

 

 その月は上弦の月と呼ばれていた。

 朝方に見られる下弦の月とは対照的に夕方を過ぎた頃から見えてくる月であり、形は半月に近い。

 満月ではないが、月は月である。待ち望んでいた月をハティはしかと視認した。

 しかし、


「(今更……遅いよな。今から能力を発動しても勝敗は五分五分といったところだろう。恩無には悪いがここで諦めさせてもらおうか。願わくば、恩無が俺の敗北を確認して逃走していればなのだが)」


「では、さらばだ」


 風来坊の腕が巨大化した。

 ハティは目を閉じず、恩無が逃げていることを祈って周囲を見回した。

 恩無の背中が見えていれば良し。それでなくともこの闘いを目撃していると言っていたのだ。自分が死んだ後でいいから逃げてしまって欲しい。


 風来坊の腕が振り下ろされようとした。

 その時、ハティの目には映っていたのは巨大化した腕でも、腕の持ち主である風来坊でも、待ち望んでた月が昇る空でも、恩無の背中でもなかった。


「なんで……こんなとこにいやがるんだ」


 ハティが激突した建物。その陰には恩無が倒れていた。

 意識はないようで、微かに動く胸が生きていると実感させる。だが、壊された壁の破片のうちのいくつかが恩無の身体に少量の傷を作っていた。


「『ウルフ’ズハート』」


 気づけば身体が勝手に動いていた。

 恩無を抱えて更に建物の奥へと。


「……ここならこの建物が倒壊でもしない限りは安全だろう。あの腕は確かに脅威的な威力はあるが、この建物を壊すならば数回は必要だ。……数回ならば大丈夫」


 牙を剥き、爪を鋭く生やす。


「一回だって建物には当たらせない。なにせアンタが改良してくれた能力だからな」


 消失したと思っていた戦意がいつの間にか戻っていた。

 守る者が傍にいるかどうか。安全地帯にいるかどうか。結局、ハティは恩無は自分が負けてもどうせ上手いこと生き延びているのだと心のどこかでは思っていたのだ。

 しかし、現実は違う。ハティが負ければハティは死に、そのすぐ後に恩無も殺されるだろう。

 守ることの実感こそがハティを今動かしていた。


「……半月で十分だ。見せてやるよ、俺の能力を。狼男の、化け物の力をな!」


 アオオオオオオオォォォン、とハティは再び吠えた。

 それは先ほどのような鼓舞や威嚇ではなく、周囲に死の恐怖を撒き散らす呪いの類のように不気味な咆哮であった。

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