17話 平和
決して有り得ぬ夢を見た。
鹿が、ウサギが、鳥が、牛が、馬が、狼が、ライオンが、虎が、そしてゾウが仲良く生きている様を見せつけられた。草食動物と肉食動物が争わずに仲良く水辺で休んでいた。
私はその光景を見て頬を緩ませ、自らの身体に水をかけていた。
私のそばに動物が寄ってくる。私は彼らにも水がかけてやる。彼らは嬉しそうに悲鳴をあげて身震いをして水をはじく。
理想であった。平和そのものであった。
「ふん。所詮は夢。じゃが、その夢が儂には眩しい」
見上げてもなお見上げたりないような巨躯を持つ老人が呟いた。
目の前にいた黒服が自分に話しかけられたのかと思いヒッと後ずさりする。
「ん? おお、悪かったな。主のことではない。もう良いぞ、ご苦労さん。食い物さえあれば儂には十分だ」
「そ、そうですか……では失礼いたしますね、アヌーラさん」
「儂ごときを敬称で呼ぶな。敬語を使うな。主ら人間にはこれでも感謝の気持ちはあるのだ。例え、このようなことになってしまっていてもな」
アフリカゾウであるアヌーラはそう言った。
「主のような人間も子供の頃は儂のような大きなものを見て目を輝かせておった。儂はそれを見るだけで心が満たされておったよ。ここは肉食動物も草食動物も同じ場所にいながら殺し殺されない平和な場所。儂にとってここと子供たちの視線だけが生きがいじゃった」
しかし、それはもう失われたのだ。
場所も、視線も。
あるのは地獄だけ。殺し、殺し合う動物園だけ。
「どれ、もう時間じゃろう。儂はそろそろ行くとするか」
「ご無事をお祈りしております」
「はっはっは。ご無事も何も、儂は平和を維持しに行くだけじゃ。儂が行くのは戦地であるが、儂が通った後には争いは残さんよ」
大きすぎる老人であるアヌーラには小さすぎる檻の出口を身をかがませて出ると、アヌーラはそのままどこかへと歩き去ってしまった。
「私は……動物園では一番ゾウが好きでした。またいつか、芸を見れることを心待ちにしています」
アヌーラが去った後も黒服は深く深く礼をしていた。
昔見たその雄大さは別のゾウであっても、年老いたものであっても全く変わらないものであった。
少年の頃の心躍った記憶が蘇る。
大きく優しげな瞳で自分を見ていたあのゾウは今どうしているだろうか。
「待てよ、確かあの時のゾウの名前は……」
いやまさか、そう黒服は思考を打ち切る。
あの時のゾウが今こうしてここにいるわけがない。
そのような偶然は起こってほしくなかった。
「まずはこいつらからじゃな」
アヌーラが立ち止まったのはとある2匹の闘争。
片方は拳をきつく握りしめボクサーのように構えており、もう片方は両手にそれぞれ鎌を持ち、口にも鎌を咥えている。
両方互いに睨み合っており、いつ殺し合いが始まるかは分からない。何がきっかけとなって動き出すか分からない。まるで先に動いたほうが死ぬ。そのような闘い方をしているようだ。
そして、その膠着状態をぶち破ったのがアヌーラであった。
「これ、止めんさい」
低く、だが通る声は存在感を放ち、その一言で両者はアヌーラの方を見てしまう。互いから目を離せる状況ではないのにも関わらず。
「ああん? 誰だてめえは」
「……私はこの傍若無人な男に対して拳で分からせなければならないのだ。できれば邪魔をしないでいただきたい」
だが闘いを止めることは譲らない。
「ふむ、邪魔をするつもりではない。儂は闘いを止めようとしておるだけじゃからな」
「それが邪魔っつってんだよ! だから誰なんだよてめえ! 俺ははやくこいつをぶっ殺してやりてえんだ!」
「ふん、それは私も同じこと。早くこの死体漁りのコソ泥を殺してやりたいのだ。ご老人、ここは退いてはくれぬか?」
「何やら事情があるようだが……しかし儂がいる場所は闘いを起こさぬようにというのが儂の信念であり行動原理じゃ。そこの拳を構える主はなぜそこの男を殺そうとする?」
アヌーラは拳を構えた男に問いかける。
この闘いがどのようにして始まったのかを知るために。
「私とて無益な争いは好まない。だが、ご老人の信念が争いを起こさないことなら私の信念は死の尊厳を損なわないということだ。生きるという事はただそれだけで価値がある。そして、死ぬことにも。死というものはその生の終着点であり、目標地点。いかなる死を迎えられるかがそれまでの生を彩り形づくる。いわば死とはその生き様と同じなのだ。だから私は生も死も等しく尊敬し、それを侮辱する者を許さない。この男は死を侮辱する者。だから私は殺すのだ。死を守るために」
拳を構えた男が主張する。
自分が正しいのだと。
「申し遅れた。私はカンガルーのフェル。生と死の守護者だ」
そう、拳を構えたままカンガルーのフェルは締めくくった。
「ふむ。守護者、か。儂の平和とは相性の良さそうなことじゃな。して、そちらは?」
「俺か? まあ言ってもいいがよ。俺はハイエナのミガテだ。ヒャハ! 俺はな、死体を喰らうのが好きなんだよ。んで、それをそこのヤツが邪魔しやがった。なあ、平和が好きなんだろ? 俺は平和を乱したりはしねえよ。闘いを自分から仕掛けることもしねえ。どうだ? 俺は悪くねえだろ?」
死体を喰うことをミガテは自慢げに話し、それに対してフェルは顔を歪める。
よほど嫌悪感があるのだろう。フェルは拳をきつく握りしめ、今にも攻撃を開始しそうである。
「ふむ、まあどちらの言い分も儂には分からなくもない。フェルとやらは自分の信念のため。そしてミガテのは自分の欲望……まあ食事じゃからな、それが本人の好物と言うなら儂には何も言えんよ。両方ともに儂からは何も言えん。だから、儂は儂の拳骨に判断してもらうことにしようかの」
アヌーラはフェルに近づく。
フェルはその接近に警戒し、ミガテに注意したままアヌーラに対して拳を向ける。
「それ以上近づくな。……部外者になぜこのような話をしてしまったのか、それは成り行き状仕方ないことかもしれないが、よくよく考えてみると私達には敵はいても味方はいない。全員が敵ではないか。それ以上近づくのであれば私も攻撃せざるを得なくなる」
フェルはアヌーラの警告を無視してそれでも近づいていく。
「……やむを得ないか。しばらく眠っていてもらうぞ」
フェルとアヌーラの間の距離は3m弱。その距離にも関わらずフェルは腕を伸ばし、拳を放った。
誰もが、アヌーラも、少し遠くから見ていたミガテも何をしたのか分からなかった。
明らかに拳はアヌーラに届いていなかった。拳とアヌーラの身体にはまだ2m以上は距離があったのだ。
だが、アヌーラの身体はのけぞった。
まるで見えない拳で殴られたかのように。
「これが私の能力だ。『
腕の伸長。それが一体どのくらい伸びているのかは本人にしか分からないのだろう。
だが、アヌーラにはそのようなことは関係なかった。
腕が伸びる能力。それはほとんど確実にアヌーラに対して攻撃を当てられるだろうし、おそらくその拳を防御することはできても拳を掴めない。不思議と殴られた感触はあったのに、拳が触れた感触はなかったのだ。
しかし、拳で殴られた。その程度の能力であった。
「こんなもの、我慢すればいかほどでもないわ」
アヌーラは構わずに進む。
巨躯なる肉体に秘められた筋肉はフェルの拳を受けようとも壊れはしない。
長い年月で鍛え上げられた肉体は鋼のように固くなっていた。
「な⁉ 私の拳が効かないだと……ここまで近いと能力の意味が……」
「『
アヌーラは拳を振り上げ、フェルの脳天へと突き落とした。
たった1発でフェルの意識は刈り取られた。
フェルの伸長された拳とは比べ物にならない威力。
それをアヌーラは事もなげにやってのけた。
「ヒャヒャヒャ! すっげえ威力だな。たった1発でこいつをのしちまうなんてな。さあて……俺はこいつを喰うとするかね」
ミガテがフェルに近づこうとするが、その間にアヌーラが割り込んだ。
「主は死体を喰うのであろう? こやつはまだ生きとるぞ」
「ヒャハ、なら俺が死体に変えちまうだけだ。どきな爺さん。こいつは気絶させられたかもしれないけど、俺はそんなに容易く倒されりゃしないぜ? ミガテさんは耐久が持ち味ってどこかで言われてんだ」
「……死体を喰うのだけであればまだ許されたかもしれぬが、殺そうとしたな? 殺気を出したな。なればこそ儂の拳の対象だ。死体でなく儂の拳を喰らうがいい。『
アヌーラの拳が振り上げられる。
「ちっ。『
アヌーラの拳が振り下ろされ、ミガテの頭部が粉砕された。
先ほど、フェルの放った拳とは比べ物にならなかったフェルを気絶させた拳ともまた威力の桁違いな拳。
真上から振り下ろされたそれはまるでいたずらをした子供を叱る拳骨。
「儂の拳は悪感情を抱く者であればより威力が上がる。良いか? 殺すということは平和から最も程遠いもの。それすなわち大罪である。よって儂の粛清対象なのだ」
すでに絶命し、聞こえていないミガテに対しアヌーラはそう言い放った。
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