10話 研究者

 カタカタカタと毎日同じ音がその部屋には響き渡る。

 時折コーヒーを啜る音、作業に飽きた者が話し始める声、映像から流れる喜怒哀楽の悲鳴や勝ち声により静寂な時間はひと時もない。


「そういえばなんですが錺さん」


 ふと黒服は思いついたことをその部屋で最も階級の高い男である錺へと尋ねる。

 ……いや、尋ねようとしたところでその考えを思い止める。人間としてこの質問はしてはいけないのではないか、と。


「何でしょうか?」


「あ、いえ……。えーと、そういえば錺さんには秘書みたいな人はいないんですか?」


 錺は研究職ではなく、事務職である。そして特別部門部長という役職には秘書が与えられていたはずだ。

 どのような人物がこの変人奇人に付き従っているのか。興味があった。


「……秘書、ですか。ええ、いますよ。今は別の場所で仕事をしていますがね。それよりも」


 パソコンから顔を離し、錺は黒服のほうを見る。


「君が聞きたいのは違うことでしょう?」


 すべてを見透かしたような目で錺は黒服へと尋ね返す。

 錺の何かが反応したのか、面白いものを見るような目で。


「これ、聞いていいのか分からないんですけどね……」


 人として、聞いていいのか分からないが、この男は生き物の散りざまを飯の種にするような男だ。自分もどちらかというと悪人ではあるが、善悪という分類に区切れないこの男ならばあるいはこの馬鹿げた疑問にもちゃんと向き合って答えてくれるのではないだろうか。


「この実験って動物に感情を与える薬の副作用で異能力が発現したじゃないですか。それで投薬された動物それぞれの異能力が面白いからって始まった殺し合い……なら人間に投薬したらどうなるんですかね」


 ほう、と錺は感心したように頷く。

 まさか思いつく者がいようとは。自分でさえその考えに気づいたのは実験が始まる直前である。数いる黒服であるが、錺はこの黒服に興味と関心が沸いた。黒服からすれば迷惑であるが。


「君、名前は何て言うんです?黒服たちの中でも君は比較的頭が良いようですが」


「いえ、俺なんて高卒ですよ。金が無くてこの仕事に就いたんですから。あ、名前は芽岸です」


「ふむ。芽岸君、先ほど秘書の存在を聞きましたね。その答えが今の質問の答えに繋がります」


 錺は語る。この実験が開始される一週間前の出来事を。





「錺部長。来週の実験なのですが」


 実験に向けて忙しい中、錺の元を訪れたのは錺の秘書である恩無仇人。見かけは細身の長身で眼鏡をかけた研究員である。実は見かけでだけなく秘書となる前には新薬開発にも少しばかり携わっており、錺の秘書に選ばれたのは研究員の中でまだまともな分類であったからだ。


「はい?どうしました恩無君」


 錺が他の者より優れているのは知能ではなく、その異常さだ。新薬について十分に理解はできていない。何か支障があるときは恩無から伝わるようになっている。


「私もこの新薬飲んでいいですかね?」


「……はい?」


 さすがの錺も驚きの表情を隠せない。彼が驚くなど何時ぶりだろうか。

 だが、恩無の言葉はある意味で正しい。


「……なるほど。人間も動物とするならば確かに薬も効果があるかもしれませんね。でも、実験ですよ?まだ人間では試していません。どうなるか分からないんですよ?」


「ええ。だから私がやりたいんです。あの実験室の人間はどいつもこいつも倫理がどうのこうのって人間で試しませんでしたからね。なら私が自分で試すしかないでしょう。そのために部長の秘書になったんですから」


 なるほど、比較的まともな人間ではなく、一番まともでない人間だから研究室には収まらず、こうして自らを実験体に推薦しに来たわけか。


「自分で勝手に飲めば良かったんじゃないですか?研究室でもできたでしょうに」


「それじゃ駄目ですよ。私はあの実験場で他の動物と殺し合うことで人間の素晴らしさを味わいたいのですから!」


 やれやれ、と錺は内心ため息をつく。

 短い付き合いではないが、このような男であったとは。


「……では、実験開始から三日後に参加とします。さすがに君には生き残ってほしいので、動物園の出入りは自由、三日間は能力の研究と研鑽をしていてください」


「分かりました!」


 恩無は嬉々とした顔で部屋を出ていく。下手をすればこのまま投薬を開始するだろう。

 有用な秘書をまた見つけなければ、と錺は今後の業務を考えながら今度こそため息をつく。






「どうやら良い具合に仕上がったみたいですね」


「ええ。能力も私なら使いこなせますし、まずは様子見で一日籠ってみます」


「しかし……服はそれでいいんですか?」


「これが私の一張羅ですからね。では、行ってきます」


 悠々と動物園内に入って行く恩無は長い白衣を羽織っていた。

 まるでこれから実験をするかのように。

 



「では、実験を開始しましょうか。『人間ヒューマン’ズハート』」


 人の心とは果たして恩無の心とイコールであるのか。

 それはきっと違う。人の心がある者が自ら危険な場所へと飛び込み、しかもそれを危険とも思わずにただ己の知識欲や好奇心のみで動くのを人間の代表とは言えない。

 それでも、恩無の心に薬は反応し、恩無に能力を与えた。

 鋭い爪の代わりに念入りに研いだメスを、尖った牙の代わりに冴えわたる頭脳を以てして恩無は魑魅魍魎の巣へと挑む。

 例え彼は死んだとしても気にしないだろう。ただ、データを取れたことに満足しながら死ぬ。それが人である前に狂人であり研究者である恩無であるのだから。

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