2話 求められた勝利条件

 ゴリラのウッホは、元は争いを好まない性格であった。

 動物園にまだ活気があったころ、彼の周りにまだ他のゴリラたちがいた頃のウッホは群れの長であるが、決して他のゴリラたちを見下さず、飼育員が近づいたときには仲間を守るような行動をとっていた。優しい力持ち、それが飼育員や職員、客たちのウッホに対する印象であった。

 来場者数の減少と、それに伴う経費の削減、金策のために多くの動物たちは他の動物園へと引き取られた。ウッホの群れもほとんどが他の動物園へと移籍させられ、残ったのはウッホとその番の雌のみであった。

 職員たちもさすがに動物間の夫婦を引き裂くことには躊躇いがあったのだろう。元々、動物好きが多かったのもあったが、それでも今まで世話をしてきた、幼子のころから面倒を見てきた動物たちと別れるのは辛いものであった。家族であるところはせめて一緒の動物園に引き渡すか、こちらに残しておこうという考えは園全体の総意であった。

 

 群れの数が減ろうと、それでも金策は続く。

 下手な広告をしてしまったせいもありさらに一匹当たりにかけられる飼育費は減っていく。特に、二匹以上いる動物は通常の半分ほどの餌しかもらえずにいた。


 ウッホの妻は元から身体が丈夫ではなかったのだろう。

 足りない食事、ストレスのかかる環境でついには倒れ、動物病院へと運ばれ、療養生活を受けることになった。

 職員たちはこれには逆に安堵していた。まだ動物病院のほうが環境は良いと。充分な栄養と清潔な環境にいれることがむしろ救いである。

 だが、ウッホはそのようなことは分からない。餌が減り、突如妻が倒れたと思ったら、どこかへと運ばれそのまま戻ってこない。生きているのか死んでいるのかも分からない。

 自分たちをこのような檻の中へと閉じ込めておいてこのような待遇。

 自分がこの動物園という群れの長であれば絶対にしないであろうことをやってのける人間たちに怒りを覚え、殺意が芽生えた。


 



 何か理解はできないであろう力を得たことは分かった。

 憎き人間から。しかし、それは人間には通じないらしい。厳密には使用しようとした瞬間に自分たちのほうへと電流が流れるという。

 間違った群れ、間違った法則、間違いだらけの人間を目の当たりにしてウッホが辿り着いた結論はすべて皆殺しであった。

 人間化したときにどういう風に能力が変化したのかは分からない。

 少なくとも見た目以上の筋肉があることは分かる。握力だけで床を削り取れそうなほどに。

 そして、『大猩々ゴリラ’ズハート』という能力の詳細な情報が頭に入ってきた。

 ドラミングを行えば力が増すという、単純な分かりやすい能力。だが、ゆえに強力。

 代償として、知能が低下していくようだが、それでもこの殺意という本能は決して消えない。考えずとも殺すことに変わりはない。四肢に掠ればそれでけでその部位は欠損するほどの破壊力を秘めた腕を、ただ振り回せばいいだけ。


 ドリーを狙った理由は弱い生き物、草食であり、群れでなければストレスすら溜まるという羊であるがゆえである。

 己の力を過信しすぎているわけではないが、それでも檻を簡単に捻ることができる力ならば羊一匹などただ腕を振り回せば殺せる。


 目の前のヒツジはもはや恐怖に足がすくみ逃げることすら出来ないようだ。

それを見届け、ウッホは腕を振り上げ、ドリーのいる場所へと振り下ろした。


 ドリーは腕が当たる直前まで動かなかった。当たった瞬間ですら動かない。

 ウッホの攻撃は何の変哲もないただのパンチと同じだ。力が上昇しているが、速度は上昇していない。そのため、少しでも速度で勝る動物がいれば避けることもできたのかもしれない。だが、ドリーは微塵も動かなかった。避けられないのではなく、避けないという姿勢を見せた。


 ドリーの細く、風圧で吹き飛ばされそうなほどの体躯に拳が当たる瞬間にドリーの目を見てウッホは思った。


 この目は決して、死を覚悟した目ではない。必死に生に縋り付こうとしている目だ。


 思えば、ドリーが決してウッホから目を逸らしていない時点で不用意な攻撃をするべきではなかった。

 少しおかしい、拳が当たった瞬間にウッホはそう思い、直後に身体が四散した。



 『シープ’ズハート』の能力が分かったとき、ドリーは決して闘いに赴けるような能力でないことを理解した。素の身体能力が優れていればまだしも、満足に闘えるようなほどの力も早さもないドリーにはそれは考えるまでもない選ぶことのない選択肢であった。


 相手からの攻撃の完全反射。

 そう聞けば使いようによっては強力かつ、相手が強力ゆえに闘える能力と思うかもしれない。しかし、反射時間はわずか1秒。その上、連続使用ができなく、次回使用まで10秒かかる。相手からの攻撃が2回、3回と続けざまに来た場合はなす術もなく一撃目だけを反射し、その後はただ攻撃を受けるだけとなるだろう。


 今回勝利できた要因はウッホがフェイントもせず、ただ殴り掛かってきたことが一つ目。

 そして、ウッホの一撃がウッホの肉体を四散するほとの破壊力であったこと。

 ウッホ自身が耐えられるような一撃であった場合、続けてくる二撃目でドリーの身体が四散していたはずだ。

 そして、分かりやすい、避けようと思えば避けられるような攻撃であったから1秒という短い時間の能力を使うことができた。


 穏便に、話し合いで解決できるような状況ではなかった。

 だが、これで自分も動物を一匹殺してしまった。

 気分は大きく悪くなることはなかったが、それでも良い気分ということはない。



「……はあ」


 ウッホの血肉を体中に浴び、ドリーはため息をつく。

 自分の能力は決して他の動物に知られてはいけない。

 強い攻撃を反射して勝つことは確かに可能かもしれない。だが、能力を知られ、弱い攻撃を繰り返されては反撃するほどの腕力がない自分では勝つことができない。

 いや、勝つことはできなくでもいい。ただ、生き残りたいだけなのだ。


「今日はもう誰も来ないといいな」


 血の臭いが身体にこびりついているのだ。嗅覚に優れている動物であれば寄ってくるかもしれない。

 ドリーにできるのは警戒心が強い動物が血の臭いで避けてくれることを祈るのみであった。

 出来ることならば明日もあの黒服の人間と少し会話してみたい。

 それが羊から人間となったドリーという少女の、小さくて儚い、それでいて難しい願いであった。

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