1章 地獄の1週目

1話 逃げられない恐怖

 光が瞼を通し、意識の中に入ってくる。

 いつの間にか寝ていたようだ。……ひどく体が重い。だが、重いと同時に軽いとも感じる。

横になっていた姿勢から立ち上がり、ふと周りを見渡す。

 ……いつもより目線が高い。目をこすり、眠気を覚まそうとするがそこで気づく。

 前足はここにある。それなのにどうやって立ち上がったのだ?足だけで?二本足で立っているというのか?

 下を見ると二本の足がある。毛に包まれた足ではない。薄っすらとはあるが、これは……


「……人になっている?」


 思わず声に出してしまい、そこでまた驚く。

 べぇと、ヒツジとしての鳴き声が聞こえるはずだった。自分たちヒツジにしか分からない特有の言語。それが今、人の言葉として聞こえた。

 ヒツジの視野は300°に近い。少し首を回すだけで完全に背中を見ることができる。

 自分の顔までは把握できなかったが、これで自分の体型、身体的特徴を理解した。

 そして己の能力までもを。


 昨夜のことを思い出す。突然園長に抑えられ、注射を打たれた。痛みはなかったが、先の尖ったものを身体に入れられるという異物混入の違和感を拭うことはできない。

 そして体内に入れられた液体。身体が熱くなり、あちこちから骨が軋むような音、関節が砕ける音、内臓が、心臓が破裂しそうな痛みが走る。その感覚が分かる、と同時に思考が加速し、冴えわたる。痛みに、違和感に、吐き気に寒気に暑気に耐えるうちにやがて何も考えられなくなった。


 ドリーが自分の身体を見ていると、檻の中に黒い服を着た人間が入ってきた。


「ここから出ろ。説明が始まる」





 突然、銃を突き付けられ、大広間へと連れていかれた。

 なぜかその突き付けられたものが銃であると知っていた。銃は怖いものだと本能が訴えかけてくる。そして同時になぜか知識としても銃は自分を殺すに十分すぎる代物であると知っていた。

 中央に現れたのは客としても見たことがあるような特徴のない男。


「一か月、君達には生き残りをかけて闘ってもらいます。昼夜問わずで構いません。日中の活動が得意なもの、暗闇の活動しかできないものもいるでしょう。君達は野生に還ったつもりで殺し合ってください。自分から殺しに行っても構いません。殺しに来たところを返り討ちにしても構いません。ひたすら逃げても構いません。生きた者が勝者。それが自然界の掟ですから」


 何を言っているか分からない。いや、意味は分かるのだ。だが、なぜ闘わなければいけないのか分からない。

 ドリーはただ平穏にこのまま動物園で一生を過ごすことに不満はなかった。

 群れではなく一匹になってしまい、強い恐怖感となってしまったが、ここの動物園を一つの群れと考えれば恐怖も薄れた。

 この男は、その群れと闘わせる、殺し合わせると言う。


「はあ? 何言ってんだ。ざっけんじゃねーぞ!」


 共に集められていた動物たちの一匹がそう吠えた。

 見ただけで分かる。自分よりも強いということが。

 その動物に感化されたかのように周りの動物たちも吠え始める。

 その鳴き声はある種の恐怖を抱かせ、自分に向けたものではないと分かっているのに足がすくみそうになる。


「やれやれ……あまり見せしめというのをやりたくないのですけどね。今回は特別ですよ?」


 人間に掴みかかろうとしたとある動物は突如倒れ、痙攣し始めた。一番最初に吠えた動物であった。

 辺りがシーンとなる。


「死んではいないので安心してください。この程度で殺すほど私たちも馬鹿ではありませんので」


 人間はニコリと笑う。だが、その笑みはこちらを安心させるようなものではなく、威圧させているような笑みだ。


「首元を触ってみてください。首輪があるのが分かるでしょう? それは君達から私達人間を守る機械です。人間に危害を加えようと、もしくは殺意を持って近づけば首輪から電流と猛毒が流れ出る仕掛けになっています。そこの彼のには気絶程度の電流に弱めておいたので放っておけば起きるでしょう」


 もはや誰も声を発する動物はいなくなってしまった。

 恐怖を抱いたもの、静かに受け入れているもの、これから何が起こるか楽しみにしているもの……ドリーは間違いなく前者であるが。


「さっそく明日から始めましょう! 一ヶ月生き残っていればそれで良しとします。さあ皆さん、頑張ってくださいね」


 それでも何匹かの動物たちは不平不満を言おうと思ったが、男の眼鏡の奥の光に押され、何も言えずに黙っていたまままた檻の中へと戻された。

 ドリーはちらりと錺と、他の動物の様子を見た。

 錺は満足げに動物たちを見まわし、動物たちは殺してやるぞという殺気を溢れんばかりに纏わせていた。

 ドリーは錺の言葉を思い出す。


「一ヶ月、生き残っていればいい」


 その言葉は闘いを強制していない。だが、明らかに皆殺し合おうとしている。ドリー自身は他の動物を殺そうなどとは思わない。

 なぜなのだろう、背中に銃を当てられながらドリーは疑問に思っていた。






 自分の身体を観察している間に大広間へと連れていかれたせいで中断してしまったが、改めて見ても一か月後どころか一週間、一日ももつか分からない。

 背は人にしてはそれほど高くはないだろう。良くて160㎝に届くか届かないか。

 体つきや性器を見るに動物であったときと変わってはいない。

 手足は細く、腹にも腹筋と呼べるものはない。

 およそ闘いには向かないであろう身体。

 速さは期待できない。腕力もない。思考速度は動物でいたときよりも格段に上昇しているが、他の動物も同様ならそれでは他より優れているものではない。

 そして新たに発現した自分だけの異能力も闘いには向かない。少なくとも自分から闘いに行けるような能力ではない。

 視野の広さがあることは救いだが、身体能力も、異能力もおそらく周りの動物より劣っている。

 勝てる道理はない。


 だから、ドリーは決めた。檻から一歩も出ないことを。

 誰も来ないで欲しい、そう願いを何かに託して。


 意識が完全に覚醒し、新たな体に慣れた頃、黒い服を着た男が餌と衣服を持ってやってきた。無口のまま作業を行い、こちらを全く見ようとせず全く話そうとしない。

 ドリーは思い切って話しかけてみることにした。


「闘うのは今日から?」


「そうだ。お前もさっさとここから出て闘え」


 服を着たことでようやく男はこちらを見て話しだす。

 服の上からでも分かるその筋肉質な体を見て、自分もこうであればとドリーは思う。


「私は闘わない。闘えないよ、こんな弱い身体じゃあ」


 先ほど見えてしまった身体からして確かに、と男は頷きながらも、立場上、ドリーに闘いを仕向けさせる。


「……能力は千差万別だと聞く。上手く能力を使え。力がないなら能力を。能力すら弱いなら知恵を張り巡らせろ。索を考えろ。ヒツジであるならそこまで知能は低くないはずだ」


 男は、今度はドリーの目を真っすぐ見て言う。

 それは、実験体に闘いから逃げてほしくないからという気持ちからなのかもしれない。あるいは、ドリーに同情したからかもしれない。気休め程度になってくれればと思ったから出た言葉。

 相手がドリーでなくとも、他の弱い動物に対してでも言っているのかもしれない励ましの言葉は、それでもドリーに届いた。

 自分が他の動物よりも優れているものがある。それを指摘され勝機が見えてきた。


「……まあ待ち構えているのも一つの闘い方だ。それがお前の闘い方だというならそれでいいのだろう」


 最後にそう言い残して男は去って行った。

 少し多めの餌を置いて。

 その日は己の特性、能力でできることをひたすら考えた。

 力で勝てないなら知略しかない。黒服の言うことを信じるなら自分にはそれができるはずだ。

 ドリーは最後に1つ、聞いてみることにした。

 今まで気になっていたが、聞いていいものか分からなかったことを。

 

「あなたたちは誰?」


 黒服はそれに対し、口元に薄く苦笑を浮かべて答えた。


「すまんな、それは答えてはいけない決まりになっているんだ」





 翌日の昼を過ぎた頃にそれはやってきた。

 ドンドンという異音とともに。


 なぜか今までよりも多くある知識。

 その知識で訪れた者がなにかであるか分かった。分かってしまった。


 時折胸を叩きながら、檻や柱などの物をその太い腕で破壊しながらやってきた男。

 本来は臆病であったはずのその動物は今、威嚇行動をとりながらドリーの目の前にやってきた。


「……ゴリラ」


 筋力の塊とも言える化け物。昨日の黒服の男の比ではないほどの、はちきれんばかりの筋肉が覗くその動物は人を握力だけで殺せるとも言われているゴリラであった。


「悪いが、俺も生きるのに必死なんでな。弱そうなやつから片づけさせてもらうぜ」


 檻に入る、ではなくまるで檻が粘土細工であるかのようにねじ切りながら檻へと入ってくる。単にゴリラの力が強いだけではない。これがゴリラの能力であった。



 『大猩々ゴリラ’ズハート』。ゴリラはが行う行動の一つにドラミングというものがある。合図や威嚇に使われるその行動は胸を叩くことで周囲に音を響かせる。

 ゴリラであるウッホは己の能力がドラミングに起因するものと知って納得した。

 合図や威嚇、そして縄張りを主徴するために使われるドラミングは、確かにこの動物園が己の縄張りだと主張するためには丁度いい。

 能力自体は実にシンプルだ。自分の力を強化する能力。すでに周りの動物よりも優れているこの身体をさらに強化する。まず負けることはないだろう。

 強化するにはドラミングを行う。行えば行うだけ、胸を叩けば叩くほど力を増すという能力。そしてその力は決して減少しない。

 羊の檻に向かう途中はずっとドラミングをしてきた。ゴリラであったときと身体の勝手が違うため音を上手く鳴らすことができなかったが、すぐに慣れるだろう。


 檻に触れただけで飴細工のように捻り、ちぎることができる。初日にしてこの腕力だ。一か月後に生き残っている頃にはいったいどれほどまでになっているだろうか。

 そしてその能力であるからこそ、まずは弱い獲物から狩っていくという戦法は正しい。叩けば叩くほど、つまりは闘えば闘うほど強くなっていくのだ。強い敵は最後に、己が最も力を増しているときに闘えば良い。それまでは肩慣らしだ。



 ドリーは動けない。動かない。

 目の前の、暴力をそのまま生き物にしたような存在に怯えと、どこか憧れを抱き、後ずさることもできずただ立ち尽くした。


 ウッホはそれを目にし、狙いを定めず、適当に力を込めて檻を捻ったときの幾倍もの力を持つ腕をドリーに叩きつけた。


 グシャッという音は肉が潰れ骨がひしゃげる音。

 バシャッという音は肉が爆ぜたときに出た血の音。


 地獄の一か月の初日にして一匹目の犠牲となった動物は元が何の動物か分からないほどの損傷を受けた。

 およそ闘いと呼べる時間は30秒とない、一方的に致命傷を与え、与えられた闘いであったが、監視カメラで見ていた錺は一言。


「そう、こういうのが見たかったんだ」


 死体を、決して綺麗と言えない肉の塊となったものを見ながら大変に満足していた。


 この日の錺含め黒服たちの昼食は肉料理であったが、それを食べられた者はごくわずか。嬉しげなのは錺だけであった。


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