序章その2 契約

「……これでいいのだな?」


 エボリュー動物園という動物園があった。

 かつては栄えていたが、今となってはその面影は全くと言っていいほど残っていない。


 日に日に従業員と動物たちが減っていくなか、金策に困り果てた園長である螺在(らざい)慶壱(けいいち)は差し伸べられた手をどのようなものか分からず手に取ってしまった。それが悪魔の手とも知らずに。 


「ええ。十分です。あなたは良くやってくれましたよ」


 机を挟んで園長の対面に座るのは錺(かざり)定吉(さだきち)という名の男。丸い眼鏡をしており、よく言えば人の好さそうなどこにでもいる男。悪く言えば、どこか胡散臭い男であった。だが、そんなことを言っている状況ではなかった。


 このままでは動物園を運営していける金などなくなり、動物たちは飢え死んでしまうかもしれないのだ。


「私達ではどうしても動物を大人しくさせるということができませんでしたからね。まあ力づく、ということでしたら別に問題はなかったんですけど」


「そんなことはさせないぞ! いくらあなた方に恩があるとはいえ、動物たちに危害は加えさせられん!」


「ええ、ええ。ですからあなたにお手伝い頂いたのです。動物に一番慣れているというあなたに。さすが下っ端の飼育員から園長にまで上り詰めただけのことはありますね。ああ、これはもちろん誉め言葉ですよ?」


 園長は別に貶されているとは思っていなかったが、錺の最後の一言で少し腹が立った。

 

「……一ヶ月であったな。その期間だけ、ここの動物園を動物ごと貸し出せば約束通りの金額が振り込まれるのだな?」


「ええ。ほら、この書面通りに。大人は契約書を重要視しますからね、ちゃんと作っておいてありますよ。一ヶ月、ここを貸し出せば――円ほどのお金を用意させて頂きます」


 示された金額は当初の倍以上であった。

 その金額を見て園長は驚きよりも喜びの感情が勝ってしまった。

 疑いもせずに飛びつく。


「わ、分かった。……まあ、君達の会社の名は有名だ。今更不安がることもないだろう。新薬の実験だったな。本当に害や副作用といったものはないのだね?」


 錺の所属する会社、安心安全製薬という名の製薬会社の親会社は世界的にも有名といえるブラックホワイトカンパニーという企業であった。

 会社は大きければ大きいほど、有名であればあるほど信頼性が増す。

 園長も独自に調べてみたが、安心安全製薬は確かにブラックホワイトカンパニーの下請けであり、錺という男もいた。


「おや?ちゃんとレポートに纏めて送ったはずですが?しかもあなたのように専門ではない者にでも分かるように書いたはずですよ」


「それは読んだのだが……まだ本当に見たわけではないからな。動物を人間化するなんて」


 レポートに書いてあった薬の効果は動物を人に変えるというものであった。

 遺伝子を一から変えるのではなく、組み替えて……などと書いてあったのはもう分からなくて読み飛ばしてしまったが、それでも人に変えるという言葉はまだ信じ切れていなかった。


「ああ、最初のほうしか読んでいないのですね。いいですか?この薬の効果は、動物の意志の力を前面に表すというものです。動物は人ほど感情豊かではない。では、人と同じように感情を与えるには人にするしかない、と私たちは考えました。そしてその結果、動物は人になり、特異的な能力を発現しました」


「確かそっちの会社で行った実験体は鼠であったな」


「ええ。鼠の感情、心、本性、本能……まあ何でもいいですが。それが能力として発現したものを仮に『マウス’ズハート』と名付けました」


「そ、それでどのような能力であったのだ?」


 なぜ感情を表に出すだけで能力が発現したのかは分からない。分からないのは人にするという技術のところからである。ならばこのまま話を進めるだけだ。


 動物たちにもその能力が発現してしまうならなるべく危険性のないものが良い。

 もしも肉食動物たちが暴れ出し、殺処分にでもなってしまったと思うと……逸る気持ちを抑えられない。


「まあ落ち着いて。まず、人としての外見は子供ほどの大きさになりました。鼠だからでしょうかね。ちなみに会話も可能です。そして肝心の能力ですが、なんと、歯がすぐに再生する能力なんですよ!」


「……今何て?」


「だから、歯がすぐに再生するんですよ。欠けても抜けても折れても削っても、すぐさま元の長さまで再生しました。これ、医療技術に使えないですかねえ」


 悩む錺を尻目に園長は安堵していた。歯の再生、なんだその程度か。ならば一か月待てばよいだけではないか。そうすれば動物を一時的に売った金でこの動物園も立て直せる。





「じゃあ後はよろしく頼むぞ!」


 大金を得ることができた園長は意気揚々と自宅へと帰っていった。


 園長が帰っていったのを確認すると、錺の指示の下、黒い服を着た男たちが動き始めた。





「一晩経ちましたが……良い具合に仕上がっていますね」


 広い、中央広場へと錺が赴くと、すでに集まっていた大勢の人間……否、元動物たちが殺気だった顔で錺を睨みつけていた。その数は計り知れない。廃園寸前であったくせにどれだけの動物が残っていたのだろうか。

 前日に注射をされ、起きたらこのような姿になっているのだ。

 そして銃で脅され、広場へと集められた。恐怖にすくものもいるが、多くの動物は殺気立っている。それも肉食動物に多い。

 黒服たちは気を抜けない。抜いた瞬間、蹴られ割かれ潰され喰われかねない。


「皆さん、安心してください。彼らにはほら、あれがついているでしょう?」


 錺は自分の首元を叩く仕草をする。

 錺の首には何もついていない。ついているのは元動物たちであった。


「皆さん、私の言葉は分かりますよね?もとは自然に生きてきた皆さんにはこの動物園も手狭かと思いますが、それよりも生死を賭けて生きていたあの頃が懐かしいと思いませんか?」


 何も臆することはない。そんな顔で錺は続ける。


「では、これから皆さんに行ってもらうことを説明しますね。それは――」






 かくして大きな実験場ができあがった。

 面積はおよそ30ヘクタール。東京ドーム6.5個分である。

 自然界では狭く、人間界では広い面積の実験場の開幕であった。



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