13話 変わった患者(後編)

「二人は強く抱き合うと……く、口づけを……」


 オルディス卿が読んでいたのはまさかの恋愛ロマンス小説だった。口に出して音読するのはなかなか恥ずかしいもので肝心のラブシーンで噛んでしまった。


「ああ、もういいよ。子供に読ませるようなものではなかった」

「あ……いえそれは大丈夫なんですけど……」


 頭の中はアラサーだもの。そんなぶりっこするつもりはないんだけど。でもこの偏屈そうな老貴族がまさかロマンス小説を読んでいるとは思わなくて。顔つきからはなんだか小難しそうな神話の本でも読んでいそうだったのに。


「口づけをかわし、お互いの思いを確かめ合いました……終わり」

「……うむ」


 終わりまで読み終わると、オルディス卿は満足そうに頷いた。


「さぁ、私はそろそろ帰らないと……」

「――また来てくれるか」

「え? ああ、治療なら今すぐ」

「そうじゃない、また来て本を読んで欲しいんだ」


 そう言ったオルディス卿はどこか気まずそうに顎髭を撫でた。


「それは……ジェラルド司祭に相談させてください」


 さすがに雇用主を無視してこの屋敷に通うことは出来ない。私は回答を保留して、屋敷の主寝室を出た。出た所で廊下の端に年老いた使用人の二人がこちらを心配そうに覗いていた。


「お嬢ちゃん、旦那様の具合はどうなったかね。司祭様にはわしが頼んだんだ」


 そう聞いてくるお爺さんに私は黙って首を振った。今回の件はこのお爺さんの独断だったのか。


「それが、治療させて貰えませんでした」

「そうか……旦那様……」

「どうしてでしょうか。あの方はなぜ治療を拒むのでしょう」

「それは……」


 お爺さんは俯いた。何か言えないような事情でもあるのだろうか。口を濁らせた。そこに口を挟んだのはもう一人のお婆さんメイドだった。


「旦那様はここを最後の地にしようと思っているんだよ」

「最後……」

「もう生き飽きたのさ、きっと。だからお嬢ちゃんの治療も受けない」

「そうなんですか……」


 あの老貴族の目に浮かんだ諦めのような色の意味がようやく分かった気がした。


「それにしても、治療もしてないのに随分時間がかかったね。何をしていたんだい」

「本を。本を読んでくれと言われまして」

「本……」


 今度はお婆さんメイドが考え込むように俯いた。


「そうだね、旦那様は本が好きだから……」

「また来て読んで欲しいとも」


 そう言うと、お婆さんはハッと顔を上げた。


「そうかい。……あんたも仕事があるだろうけど、出来れば来てやってくれないかね」

「考えてみます」


 そう言って、私は屋敷を出た。門を抜けると初夏のさわやかな夕暮れが広がっている。しかし私の足取りは行きのパパッと治療を終わらせるつもりだった時とは逆に重たかった。

 死を待つ老人の傍らで本を読む。治療もしないで。その事の重さを感じていた。


「ただいま戻りました」

「ああ、アンナマリー。遅かったね」

「それが……」


 私は事の顛末をジェラルド司祭に話した。オルディス卿が治療を拒んだこと、そして本を読んで欲しいと頼んできたこと。それを聞いたジェラルド司祭の眉が困ったように寄せられた。うーん、憂い顔もイケメンだなぁ。間抜け面で見惚れていると、ジェラルド司祭が首を傾げた。


「アンナマリー、聞いているかい?」

「へっ!?」

「……行っておあげ、と行っているんだよ。さすがに毎日はこっちの手も足りなくなるけれど、時々だったら構わないんじゃないかな」

「いいんですか?」

「ああ、ご老人には親切にしておくものだよ」


 ジェラルド司祭の許可は割とあっさりと下りた。そこで私は二、三日に一度、オルディス卿の元へと通うことになった。彼の、死に際の願いを聞く為に




「今日はどの本をお読みしましょうか」

「……棚の端から三番目の……その下だ」

「これですか?」


 仕事の合間を縫っては、私はオルディス卿の屋敷へと通った。彼の好むのはやはりロマンティックな恋物語が多く、私はそれを読みながら彼との静かな時間を過ごした。私の朗読を聞くオルディス卿は満足そうに微笑んでいる事が多かった。

 そうして季節は巡り、夏がやってきた。


「……よく来たね」


 その日のオルディス卿は一際顔色が悪かった。声も出すのがやっとといった感じだ。


「……! オルディス卿、治療を……」

「いや、いい。……本を……読んでくれ」


 土気色の肌をした老貴族はそれでも私の回復魔法を拒んだ。私は動揺を押し隠しながらも本のページをめくった。ああ、ちっとも頭に入ってこない。


「今日はここまでにしましょうか」

「……ああ」


 苦しそうに呼吸をする老人を見かねて私がそう切り出すと。オルディス卿は黙って頷いた。主寝室を後にした私はお婆さんメイドの姿を探した。


「あの……卿はひどく具合が悪いようです」

「そうかい……ありがとう、お嬢ちゃん」


 気落ちした様子のお婆さんメイドの様子に後ろ髪を引かれながら、私は屋敷を後にした。


「あぶぅ」

「ほらほら、リオン。ねぇやが帰ってきましたよー。……ってどうしたのアンナマリー?」

「それが……本を読みに伺っている貴族様が具合が悪いようで……私、何も出来なくて」

「そう……。アンナマリー、頑張ったのね」


 ジェラルド司祭の屋敷に戻り、赤ちゃんのミルクの匂いと明るい陽光に包まれると余計にさっきまでの陰鬱な雰囲気との落差に打ちのめられそうになった。モニカ奥様は肩を落とす私の頭をそっと撫でると微笑んだ。


「私、あんなので何かの役に立ったのでしょうか」

「……彼にはきっと意味があるのよ」


 ――オルディス卿の訃報が届いたのは、それから二日後の事だった。リオン坊ちゃまが寝付いた隙にそっちの屋敷に向かおうとした矢先のことだった。


「アンナマリー、待ちなさい」

「なんでしょう旦那様」

「……オルディス卿が亡くなったそうだ」

「えっ」


 私はジェラルド司祭の言葉に息を飲んだ。覚悟していた瞬間とは言え、人の死の一報と言う物は心臓のあたりに冷たい感触を残す。


 オルディス卿の葬儀は村の教会でひっそりと行われた。そして葬られたのは村の共同墓地。オルディス卿の一族の墓地に彼が入る事は無かった。


「……ご親族はお一人も来られませんでしたね」

「ああ、そうだね」

「お墓がここで寂しくはないでしょうか」

「彼の遺言だったんだ。この墓地のこの墓の隣に葬って欲しいと」


 私とジェラルド司祭はオルディス卿の墓に花を供えていた。その横には小さな墓。そこにはエイリーンという女性名が彫られてれていた。


「……秘密結婚だったそうだ。メイドとの」

「そう、ですか……」


 ありし日には彼女に本を読んで貰ったりしたのかしら? もしくはあのロマンス小説のような熱い恋をしたのかしら。オルディス卿。あなたは早く愛する人の元に行きたかったのね。私はこみ上げる涙をそっと拭った。

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