元天才野球少年は。

汐見 光

第1話

「だからね速水くん

「…俺にいい加減部活に入れ、と」


 目の前にいる仙台北高の新入生は、じっと鋭い視線を向けながらはっきりとそう言った。

入学したばかりなのだから、まだ子どもっぽくてもいいはずなのに。

彼の鋭い瞳を見つめながら北見薫は思う。まだ四月で、未知の高校生活を送っている他の同級生に比べてどこかが違う。周りとは違う雰囲気を彼だけが身に染みこませているようだ。

これじゃあいつもと同じじゃない。北見は机の上のファイルを見つめる。生徒手帳に貼られているものと同じ顔写真が貼られた名簿が綴じてある。何か会話を弾ませようとして、それを見ながら話題になりそうなことを探しながら、頭の中を忙しく回転させる。ふと北見はある記述に目を留めた。

「速水くんは中学校テニス部だったんだ」

「そうですけど」

そのあとに言葉は続かない。北見は返答を待たずに進める。

「じゃあ速水くん、テニス部なんてどう? 中学もテニス部だったなら、いいところ狙えるかもしれないし。運動得意でしょ?」

お世辞ではなく、本当にそのように見えるのだ。外見で人を判断するのは一般的にはよくないかもしれないけれど、教師という仕事柄、やはり一つの判断材料にしてしまう。目の前の男子は目を忙しく動かしながら、答えを考えているようだ。

「俺、まともにテニスやったことないです」

彼は窓の外をぼんやりと見つめながらそう言った。

テニス部だったのに、やったことがない? 名簿の部活動の欄にははっきりと「ソフトテニス部所属」と書いてある。たしかに大会出場の文字は一つも書かれていない。中学の大きな大会である中総体の文字さえも。いったいどういうことなのだろう。

「なんで、俺、どこにも入れそうなところないんで」

速水は立ち上がると、いつものように進路室から出ていく。呼びかけても声は返ってこない。

この仕事を頼まれてから何日経ったのだろう。北見は思わず思った。一年生は何かしらの部活に所属しなければならないのはこの学校の決まりだから、仕方ないのは分かっている。

「やっぱり教師向いてないのかなあ」

北見はファイルを閉じて、座り手がいないイスと机を元に戻す。ふと窓の外が気になって見ると、野球部が声を出しながらノック練習をしていた。

そういえば、さっき窓の外を見ていたな、速水くん。ふとあの横顔がちらつきながら、進路室を後にした。


  *       *       *


 あの先生と話をするのはもう日常だ。どこかの部活に入らなければいけないのは、入学する前からわかっている。きっとこのまま流されて、俺がどこかの部活に入部したって、まるで幽霊部員のような存在になって終わるだけだ。だったら初めから何にも関わらない。ただ、三年間という微妙な高校生活を送る。これが、高校に入る前に俺が考えた唯一のことだった。

今日、中学校の時の部活の話をして心底驚いているようだった。たしかに俺はテニス部だったけど、テニスは素人並みだ。

速水はいつも通り、真っ直ぐ進路室から階段を下りて昇降口へ向かう。校庭から聞こえる声を聞きながら、いつもの帰路に着く。行き先は分かっている。

「おっちゃん、今日もやっていいすか」

「お、大ちゃん。今日も空いてるぞ」

気を付けてな、という声を背中越しに聞いてブレザー姿のまま緑のネットの森の中へとくぐり抜けていく。目当ては一番奥。それがこの古ぼけたバッティングセンターの俺の定位置だ。

この、バッティングセンターとスポーツ用具店が一緒になっている「国分スポーツ店」はこの近辺なら誰しもが知っている。学校のジャージや靴の指定取扱店になっているし、学校の部活で必要な運動用品はたいていがここから仕入れているはずだ。入口で借りた金属バットを片手に一番奥のコースに入り込む。平日の夕方だからか人はいない。別に人がいたからと気にしないけれど。

百円玉を投入して、目の前のすこし古びた機械を見つめる。お世辞にも新しいとは言えないそれは、ギリリと音を出して動き出す。音がするとそろそろ始まる合図だ。真正面に見える穴から白球が迫ってくる。

速水は右足に重心をかけ、構えていたバッドを素早くコンパクトに振る。感触が金属から指へと伝わってくる。カンと軽い音がして打球はバットを通して跳ね返っていく。球は機械の少し上をボールは貫いていく。

「ふー」

さすがに制服のままでは動きづらい。ボールが出てくるまでのほんの少しの間に片手でブレザーのボタンを外しながら、バットはそのままで構える。

よし、と再び両手でバットを持ち目の前に焦点を合わす。球速は一四五キロ。高校野球の平均的な球速よりはずっと速い。だからあまりこのコースを使う人はいない。使ってもすぐに違うところへと移ってしまう。おっちゃんが気を付けてな、と言ってたのはこの速さのためだ。

二球目。さっきと同じように、ぶれることのないフォームで速水は打った。

打つことで自分の頭が整理される。たわいもない学校生活のことも、打ち出されるボールが頭の中を突っ切って切り出してくれる。


「父ちゃん、仕入れの全部終わったけど」

用品店の方から青色のジャージを着た男子が入口からのぞかせた。声は届いているかわからない。ただ、自分の父親の目線はある一点に留まって動くことはない。

「すっげえ…」

 百発百中ってこのことを言うんだろうと思った。打球は同じ方向へ正確に飛んでいく。きっと高校生だと思われる男子はずっとボールのほうだけを見つめていて視線は全くぶれない。

 ずっとこの心地よさを目にしていたい。そんな気持ちが自然に湧き上がってきた。

「父ちゃん! 聞いてんの!」

 ふと本来の目的を思い出して、さっきよりずっと大きな声で自分より大きな背中へと声をかける。

「ああ、卓真。終わったのか」

「終わったよ、ほら伝票ね」

 伝票の束を父へと渡し、彼は気になることをぶつけた。「父ちゃん、あの人よくうちに来んの?」

 あの人とはもちろん、二人の同じ視線の先でバットを振り続けている少年のことだ。

「昔からよく来てるよ。ここ最近はあんまり来てなかったけどなあ」

 忘れやすい父ちゃんが顔を覚えているなんて、相当よく来ているのだろう。

 ぼそりと「卓真も野球やってたらな」と父ちゃんがつぶやいた。その言葉を聞くといつも申し訳ない気分になる。

「卓真、上にあがっていいぞ? わざわざありがとな」

「あ、うん」


  *      *      *   


「ごめん、今日も遅くなって」

 北見はそう言いながら、体育館の二階、ギャラリーに続く階段を上る。上りながら、ジャージのファスナーを首元まで締めた。

「北見先生」

「ごめんね、広瀬くん。今日も遅くなって」

「大丈夫です」

 北見が顧問を務める卓球部の部長ははっきりと言った。

「それより、先生こそ毎日何やってるんですか?」

「ちょっとね。一年生でまだ部活に入っていない子がいて」

 鋭い目つきの男子生徒を思い出す。早くどうにかしないとな、と思っていると広瀬が興奮しながら言い出した。

「まだ入っていない人がいるんですか!」

「え? うん、だからそれで…」

 何か企んでいるような悪だくみをしている顔がそこにはあった。

「北見先生、そいつ、卓球部に入れましょうよ」

 広瀬くん、今何て言った? 状況が判断できていない北見はそのままで話を続ける。

「そいつを卓球部に入れるんです」

「えっと…さすがにあの子に卓球部なんてうまくいくかな」

「あと一人なんですよ!」

「あと一人?」

 今の卓球部の人数は二年生が五人。三年生は一人もいなくて、そして新入部員は誰一人入っていない。

「はい。あと一人で六人なんですよ。こんなチャンスないじゃないですか」

 ボールの音を耳に入れながら広瀬の話を聞く。口を挟む間もないまま続けた。

「俺が何とかします。先生が悩んでいる問題児をうちで引き取る。六人になる。一石二鳥じゃないですか!」


「お前が速水だな」

 いつも国語教師が座る席に自分と同じジャージを着た男子が座っていた。

 どういうことだろうか。そして目の前のこいつは誰なのか。男子は速水の顔を見つめながらにやにやしたり、真面目くさった顔をする。見た目は俺と同じくらいの背か、少し小さいくらいか。ひょろりとしていてスポーツマンにはあまり見えない。

 何なんだよ、一体。速水は心の中で悪態をつきながら話に耳を傾ける。

「速水ってこの辺じゃ珍しい名字だな。下の名前は?」

「大輔です」

「へえ、速水大輔…速水、うん」

 悪くないなあ、とつぶやきながら何やら物思いにふけっている。

「俺の名前は広瀬拓海、二年だ」

 広瀬と自己紹介してきた男子は勢いよく立ちあがる。床と椅子が引きずるうるさい音がした。

「そこで速水。さっそく提案だ」

 何のことだろう。顔も名前も知らない他人が俺に要件があるのだろうか。忙しく思索にふけっている間に目の前の口から言葉が出た。

「お前、卓球部に入らないか」

 広瀬は手を机に叩きつけた。ただでさえ古い木製の机ががたんと揺れる。さっきから目の前の男の行動はうるさい。言い切った後、やけに広瀬の顔はすがすがしかった。

「俺、部活入るつもり全然ないんですけど」

 ましてや卓球なんて。口には出さなかったが速水はそう思った。そんなの修学旅行の温泉卓球くらいだ。

「高一は必ずどこかの部活に入らなければならない」

 それは知っているよな、と広瀬は切り出す。

「でもここにいるやる気のない男子はどこにも入りたくないと意地を張っている。そんな男子にこっちから入らないかと大歓迎している部活がある。大歓迎だ。こんなにも好都合なことはない」

「はあ」

 大歓迎。むしろ強制的という言葉がぴったりな気がする。右手の人差し指を速水に見せつける。

「一年だ」

 指を見せつけたまま、広瀬はずっしりとその短い単語を言い切った。

「一年経って、それでも辞めたくなったら辞めればいい。その時俺は止めない」

 目の前のこの人は何を言っているのだろう。やめたくなったらやめていい? だったらそんな部活こっちから辞めてやる。むしろ、入部させる意味があるのだろうか。

「ただ俺はこの一年で変えてやる。お前に教えてやる。部活って何か、卓球って何か」

 どうだ、悪くないだろうと言いたげの顔で広瀬は口をにやりと曲げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

元天才野球少年は。 汐見 光 @hikaru_shiomi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ