第6話 実はそれどころじゃない

 結局、今朝は彼女に会えなかった。


 僕は出来るだけ急いで、少し悩みながらもいつもの上りホームの桜の枝が張り出す付近にたどり着いた。いつもは近いはずなのに、何で急ぐとこんなにも着くのが遅く感じるんだろう。だいぶ息が苦しい。これしきのことでいっぱいになるとは、最近の運動不足も響いたか。いい年した大人がみっともないと思うが、自分が大人だという自覚があまりなかった。特にこういったことについては。人を好きになるということに、大人も子供もあるのだろうか。立派な大人たちは、こんな頭で割り切れない気持ちも自制できるようになるのだろうか。

 向かいの下りホームに彼女はいなかった。当たり前のようで、そうでないような。いつもの時間だったら会えたのかもしれない。彼女は僕のことを覚えていただろうか。今の僕をこんな風にさせた彼女が、僕の気持ちなど何も知らないでいることに、割りに合わない気持ちになる。ずるい。美しい人は、ずるい。惚れやすい自分によくありがちなことだ。勝手に気になって、独りで盛り上がって、完全に独り相撲だ。3月も終わりに差し掛かり確実に春は近づいているのに、気持ちが落ちていく。ただでさえ水曜日は億劫なのに、自爆同然の自分の行動が恨めしい。

 ふと見ると桜の蕾がほころび始めていた。冬の厳しい寒さを越え、いよいよ咲こうとしている。そのあまりにも健全で健やかな桜の姿は、より一層しょうもない今の自分を際立たせる。恥ずかしい。一旦上がった気持ちは落ち込んだまま、混雑する車内にいつも以上に神経質になる。会社では仕事の山が待ち構えていて、そろそろ本腰を入れないとならない。内田さんに僕のしょうもない話をする暇もなくなるだろう。入稿に必要なテキストをいくつか仕上げなくてはならなかった。そうなのだ、分かっていたが、やらなくていけない時期に差し掛かっているのだ。デザイナーやDTPを行う外注先に原稿や画像を入稿するのは、だいたい月の第2週目くらいなのでまだ先になるけど、月末の今、頑張っておかないと入稿時期になった時に、月末の気を抜いた自分を激しく呪うことになるのだ。月刊誌だと少しゆとりのある時期こそ、しっかりと担当のページを地道に少しずつでも進めておかないとえらい目にあう。


 今の編集部は編集会議で担当ページが割り振られると、基本的には独りで進めていくことになる。特集ページを担当する場合には、実質的な誌面の責任者である副編集長の吉野さんという、普通に見て30歳後半にしか見えない、もうすぐ50歳の大台に届く年齢不詳のアラフィフ上司に内容の詳細、取り上げるテーマ、方向性、ページ数などを相談しながら固めていく必要があるが、基本的には極端な話、こちらが確認や相談をしなければ、何も言ってこない。そして入稿前になるととんでもないことになる。地獄だ。そして、今月号の第2特集の担当が僕で、そろそろ本気で頑張らないといけないのだ。つまり、ぶっちゃけて言うと、僕はまだ副編集長の吉野さんに、自分の担当ページについて何も相談できていないのだ。月末になっているのに。


 そう、僕はだから、運命の彼女にうつつを抜かしている場合ではないのだ。

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