第5話 急いでも急いでも
自分に向けられたと思っていた笑顔が、完全なる勘違いだろうと思ったのは、翌日の朝だ。
朝、窓から注がれる陽の光が、カーテンの隙間から入り込み、ちょうど寝ていた僕の顔を無慈悲に照らしていた。まだ起きるには早いが目覚めてしまった。昨日の一連の出来事が浮かんできたが、既にだいぶ記憶が薄まっていて、何よりもあの時に感じた鮮烈な印象が、はっきりと感じ取れなくなっていた。あれはとんだ勘違いだ。あんなことに運命的な出会いだと軽々しく感じた自分が恥ずかしかった。
冷めた思いで起き出し、会社に行く準備を始める。僕は朝ご飯はちゃんと食べないと昼まで全然持たない。昨晩のうちに研いでセットしておいたご飯がちょうど炊けたので、鯖缶を開けて手早く朝ご飯にする。それにしても、鯖缶がすっかりメジャーになってしまったのは痛い。子供の頃から好きだったのに、今更こんなに持て囃されるなんて……。独り暮らしをする者としては変な人気で品薄になって困る。ニュースを見るとはなしに見ながら、のろのろとご飯を食べる。週も半ばの水曜日、いちばん気分的に億劫な日だ。いつもよりすべてが遅くなり、心のどこかで片付けなければならない仕事と、行かなくてよい正当な理由がないものか行ったり来たり考える。そうしてアパートを後にしたのはいつもより10分は遅かった。それでも遅刻することはないだろう……。
ほとんど無意識に鍵を閉めた瞬間、昨日のホームのことが何故だかはっきりと頭に浮かんだ。向かいのホームに大きなトードバッグを提げ、桜の木を眺める彼女の姿が。そしてこちら(僕?)を見て微笑む。その柔らかで謎めいた少しいたずらっぽい笑みが、また改めて僕の胸を打つ。
僕は鍵を引き抜き思わず駆け出した。もしかしたら今日も彼女があの下りホームにいるかもしれない。それなのに、僕はいつもより10分も遅く家を出ることになってしまった。革靴が乱暴にアパートの通路を叩く。階段を駆け下りる。細い路地をのんびり横切ろうとした真っ黒な猫が俊敏に走り去っていく。いつもいるほっそりとした黒猫だった。自分のせいで驚かせてしまったことに申し訳なくなる。ちょっと待て、こんなに急いで僕は何をしてるんだ? 何を慌てているんだ。何とか落ち着こうとする自分と急いでしまう自分。駅までは普通に歩いても5分も掛からない。近すぎてどんなに走ってもその差は無いに等しい。冷静に考えてもせかせかと足を運ぶ勢いは変わらなかった。商店街の通りは駅に向かう人の流れが出来ている。そんな中を急ぐ。少しでも早く駅に。
でもどっちのホームに僕は行けばいいんだろう?
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