第3話 内田さん、夜のホーム

 内田さんとの昼食は当然僕の方が奢り、彼女は会社に帰る途中でコンビニに寄るということで別れた後、そのまま今朝のことを話すこともなく、彼女は6時過ぎに帰って行った。そろそろ劇団の公演があるらしく、そのための稽古があるようだった。詳しいことはまだ聞いてないが、今回もきっと目立つ役で出演するのだろう。社内でも男性社員はもちろん、女性からも飾らない人柄や、仕事が出来るということで可愛がられている内田さんは、舞台に出演する時には仲の良い結構な人数の社員が観に行ってたりする。僕もこれまでの舞台は欠かさずに行ってるが、彼女の人気はかなりのものだということを改めて気付かされる。彼女が目当てのファンはもちろん、いわゆる芸能事務所の関係者なども来ているようだし、どう見てもモデル、俳優だと分かる彼女の知り合いなど、彼女を見に来るお客は相当多いようだった。もちろん僕もそのひとりだったが。舞台での彼女は、毎度のことながらただもう凄い。その存在感は圧倒的なのだ。そして僕はいつも彼女と自分との違いを感じる。彼女がいるべきふさわしい世界が絶対にあって、それは僕の働く小さな出版社ではありえず、彼女の存在なしには成立しない劇団ですらない。もっと彼女がいるべき華やかな世界があるのだ。そして僕が彼女と親しく話をして、くだらない話を打ち明けられるのも、本当に今だけの、奇跡的な偶然なのだ。普段は忘れてしまっているが、彼女の舞台を観るたびに僕はいつもありがたい気持ちになる。


 その夜は20時過ぎには最寄り駅に着いた。下り電車のホームに降りた僕は、改札に向かう人の波をやり過ごし、人気のないホームに残って線路を挟んだ向うの上りホームを眺めてみた。今朝僕がいた桜の木が後ろにある所を。僕が今いる場所は、今朝、名も知らない彼女がいた場所だ。春になったとはいえ、夜になるとまだ肌寒い。改札に向かう人たちのざわめきが次第に遠ざかっていく。上りホームにはまばらに電車を待つ人がいるが、とても静かだった。彼女が何を見たのか確かめたかったが、桜の木以外に何もなく、まだ芽吹いていない桜も静かに枝をそよがせるだけだ。彼女はあの時微笑んだのは、僕を見たからなのか、時間が経ちよく分からなくなってきてしまった。


あの時に感じたはずの何かは僕の中からすっかり失われていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る