君と楓の木の下で(後日談)
待ち合わせの時間よりやや遅れた喫茶店に、
「なに、その顔」
「いやあ、ちょっとね」
頬を人差し指で掻きながら困ったように笑う。その顔にピンときた。
きてしまった。
「……どうせ、サリーだかシャーリーだかいうコにやられたんでしょう」
「ダ、ダイアナ」
私が知らないと、気付いていなかったとは言わせない。なんといってもこの男、ほかのガールフレンドの存在をわざわざ自分からは言いもしないけれど、隠しもしないのだから。
身分も顔もいい上、入所するのさえ困難を極める王立植物園のホープで、あのキアラン・ハーフォードの唯一の弟子。どこでだって引く手数多あまた、さらに自他ともに認める女好き。そんな男の相手が私一人だけだと思い上がってもいない。
……だけど。
「で、話ってなによ」
顔は向けずに目の端で彼の姿を捉えて、なんでもないことのようにカップは口元に。余裕のない顔を少しでも隠すように。
そう言って水を向けるとすうっと真顔になる――この男がこんな顔をするなんて。そしてそれが私じゃない、他の誰かのためなんて。
ああ、聞きたくない。
こんなことなら、今日の待ち合わせにこの店を指定するんじゃなかった。もっとどこにでもある適当な店にすればよかった。せっかくのお気に入りの店に嫌な思い出がついてしまう。
「――ごめん。別れてほしい」
ルーカスに会ったのは、元クラスメイトの婚約パーティだった。
皆に囲まれて幸せそうに微笑んでいる本日の主役は、ふわふわとした綿菓子みたいな女の子。なにかミスしても、そのうるうるとした大きな瞳で謝られると、なかったことになるタイプ。最初っから戦う気満々の言いがかりをつけられる私とは真逆だ。
今日だって、たくさん来ている男性陣は、私とは別の可愛らしい女の子たちばかりをちやほやと楽しそう。あぶれた感がハンパない。
私だって素敵な恋人はほしいし、人並みに結婚願望だってある。でも、母譲りのキツい顔立ちと父譲りの頑固な性格が災いして、恋人ができても長続きはしないのが常だった。
挨拶を済ませ、あとはご勝手にどうぞと早々に見切りをつけた私は、豪華な食事が並ぶコーナーでせっせと胃袋を満たすことにする。
たいして仲良くもなかったけれど、呼ばれてお祝いもしたからにはせめて楽しんで帰らなきゃ。お相手の一族が飲食店経営だけあって、さすがに食べ物も飲み物も最高。特にこのデザートの充実ぶりときたら!
あちこちで繰り広げられる新しい恋の始まりに目を背けて、手にした皿に乗る色とりどりのお菓子を楽しむことにした。でも、それにしたって、やっぱり……
「あーあ、可愛い子は得よね」
「君も可愛いと思うけど?」
つい出てしまった愚痴にまさか返事が。しかも何か妙な単語が聞こえた。
「……いけない、飲みすぎたかしら幻聴が」
「ぷっ、はは、君、可愛いうえに楽しいね」
何コイツ。いつの間にか近くにいたのはハニーブロンドの、少し下がった目尻が甘い感じのちょっといい男……私の好みではないけれど。
行きつけの喫茶店のマスターくらい落ち着いた大人の方がグッとくるわ。
まあ、マスターとも何かあるわけでないけれど。店の雰囲気もいいしコーヒーも紅茶も美味しい店で、ついでに目の保養もさせてもらっているだけ。い、いいじゃない、それくらいっ。
「あなたこそ酔ってるの? 悪いけど、可愛いだなんて初めて言われたわ」
「そうだね。大人っぽいし、顔立ちは綺麗系だもんね。でもさ」
そう言って面白そうに笑うと私の手元からプティ・フールをつまみ上げ、そのままきゅ、と人の口に押し込んだ。
舌の上に広がる、甘い甘いベリーのタルト。
「そうしてお菓子食べてにこにこしてる女の子は、どう見ても可愛いでしょ」
――チョロイって言うな。だってこんなこと言われたこともないんだもの。思わず鳴ってしまった胸は止めようがない。
パーティーはダンスの音楽も始まり一層華やかに盛り上がる。それを横目で見た男は、私の耳元で内緒話のようにベリーよりも甘い声を流し込んだ。
「ね、俺と抜けない?」
その視線の先はちょっと深く開いたドレスの胸元――冷めた。覚めたわ。
ああ、コイツもそうか。簡単に落とせると思ったら大間違いよ。ほんとムカつく。返せ、私の久々のときめき。ちくしょう、そっちがその気なら乗ってやるわ。
手にしていた皿を置き、かわりにするりと腕を絡める。がっかりを押し隠してしなだれついて、いたずらっぽく笑って見せれば、男は目を瞠った。
「……あなたのお友達でしょう、いいの?」
「正直そんなに仲良くもなかったんだよねー。面倒くさいと思わない? この『知り合いは全員呼ばなきゃならない』ってお約束」
「心からそう思うわ。ねえ、私行きたいところがあるんだけど」
そう言って連れてきたのは宝飾店。次々と豪華なアクセサリーを見せつけるように試着すればあっけにとられた顔をする。それに少しだけ溜飲が下がった。
貢がせ好きの金のかかる女だと思えばいいわ。そうして呆れて立ち去ればいい。これに懲りたら軽々しいナンパなんてやめるのね。
男は困ったように笑うと席を立ち――帰るかと思ったのに、ふと後ろに立つと両腕で囲うようにして一本のネックレスを私の首に回す。
「こっちのほうがいいと思うけど?」
それはレース糸みたいな繊細なチェーンに、私の瞳と同じ色のちいさいトップがついた、ごく華奢なネックレス。「よくお似合いになります」と店員が持ってきたゴージャスなものと真逆。
驚いた顔の私と鏡越しに目を合わせると満足そうに笑った。
「ほら、可愛い……本当はこういうののほうが好きでしょ」
――ああ、ずるい。そうよ、似合わないって言われたって、私だって女の子だ。小さくて可愛いものが好き。
こんな、まるで星屑みたいにキラキラしている、すぐちぎれそうな細い鎖なんて本当は大好きなんだから。
そのまま流れるようにプレゼントされて――彼が有名な女ったらしだと知ったのは、翌日のことだった。
パシャリ。
私が浴びせたグラスの水をルーカスは避けなかった。水魔法の使い手の彼には造作もないことのはずなのに、一滴残さずその身に受けた。
そのことに、また胸が痛む。
「いつまで濡れたままにしているつもり? 風邪でも引かれたら迷惑だわ、早く帰って」
「うん……ダイアナ、君さ、」
「なによ、さっさと行っちゃってよ。顔も見たくないわ」
そう促されてようやく店を出るルーカスが去り際に最後に残した一言が、音を立てて私の心に突き刺さる。
ちょっと集まった店内の視線も、彼がいなくなって私が平然としていると、何事もなかったようにそれぞれのざわめきへと戻っていった。
周囲の席は入れ替わり立ち替わり。風が吹くたびに落ちてくる黄色い葉を窓の外に眺めているうちに、あの場面に居合わせた人達はみんないなくなっていた。
誰も見ていないことを確かめて、首元に手をやる。少し力を込めただけで、細い鎖は簡単に切れて手の中に収まった。
……ようやく、もう一度カップを口元に運ぶ。
すっかり冷めてしまったけれど、私の好きなミルクティーはこんな時でもいつもと同じ、いい香り。そのことにじわりと瞼が熱を持った。
「こちらをどうぞ」
ぐい、と手の甲で目元を拭った私の前に、ことりと湯気の立つカップが置かれる。見上げればこの店のマスターがいつもの顔で立っていた。
「頼んでいないわ」
「当店のお茶は美味しくお召し上がりいただいてこそ、お代を頂戴できますので」
そう言って私の手の中にある冷めたカップを取り上げる。
いつも愚痴を聞いてくれるマスターは普段と同じ顔で、からかっている感じはない。だから、渡された冷えたナプキンで目元を抑えると、つい、言ってしまった。
「……『やっぱり可愛いね』ですって。馬鹿にしてると思わない? 別れ話の最後がそれよ」
「おや、それは」
「酷いこと言ってくれたら心置きなく嫌えたのに。ああもう……知らなかった。私、実は、男を見る目があったのね」
――縁はなかったようだけど。
本当は、私があの男にあげたかった。本気で誰かを好きになったことのないあの男に、誰かに恋をする気持ちを知ってほしかった。それを教えてあげたいと思った。
口が上手くて女の子の扱いがうまくて優しくて、寂しがりの、どうしようもない優男。
そんな彼が心を傾ける相手が、私だったらよかったのに。
「騒がせてごめんね、マスター。しばらく来ないから勘弁して」
「それは困りますね。またいつも通りご来店いただかないと」
「いつも通り?」
「ええ、おひとりで」
「ひどっ、マスター酷い。ずっと彼氏もいないままでいろって言うの?」
涙目で睨みつける。世間話ですって顔をしてさらっと意地悪を言うなんて。愚痴だって何だっていつも楽し気に聞いてくれるいい人だと思っていたのに。
やっぱり男見る目ないのか、私。
「……悪かったわね。もう来ないから安心して」
「いえ、そうではなくて。私のこの店で貴女が私以外の男と話しているのが、これほど気に食わないとは知りませんでしたから」
「え? な、」
「別れ話でよかったです」
意味ありげににこりと微笑んでカウンターに戻っていくマスターと、席に一人残される私。
「――っ、はあ……っ!?」
その後姿を、口を開けて見送っているうちに、せっかくの新しいミルクティーもまた冷めてしまったのだった。
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