6
祭囃子
新幹線の改札を出て、久しぶりに湿気の抜けた故郷の風を頬に受ける。
駅前の店の顔ぶれは違うが、建物そのものは変化に乏しい。
何年か前に誰かから聞いた「様変わりした」は、玄関口のここではなく本町通の話だったかもしれない。
突然の帰省を誰にも告げていないのは、驚かせるつもりだったのではなく自分でも予定外だったから。
弟夫婦が継いだ実家まではバスかタクシー。その前にここから徒歩十五分程の母校を眺めようと思ったのは、待たせる人のいない身軽さか。
それとも何とは無しに心許ない、迷子のような気分だったからか。
折しも今日から始まった祭のために支度された出店を上辺だけ冷やかしながら、懐かしさも薄れた道を歩く。
青空の下、慣れた熱風ではなく、ほんのりと秋の気配を含んだ風に乗って運ばれる祭囃子。待ち合わせにはしゃぐ浴衣姿の集団。
数日間の祭りの後に盆を迎えれば、もう夏も終わる北の国。
荷物もほとんど持たない自分は、まさか今着いたばかりの帰省客とは見えないだろう。
放課後によく通った定食屋がコンビニに変わっていたことに驚きはなく、ああ、そうだなと納得する。
住宅越しの数区画向こうに見える新しくなった校舎は、自分が通った頃とは違う向きに建っている。残された旧校舎の一部も今は資料館になっているのだったか。
角を曲がったとこにある正門だけは変わらない。
そして、その前には浴衣姿の母子――自分は紺色の浴衣を着て、胸に抱く幼な子は白地の浴衣に紅い兵児帯――が立っていた。
表通りから続く道沿いに吊るされた祭飾りの御幣や風鈴に小さい手を伸ばす子供は、楽しげに声を上げている。
ふとその母親らしき女性と目が合った。
片方の耳にかけた肩までの柔らかそうな髪、警戒心をなくさせる少し垂れた目元。
――悪い、辞書貸して。
――また忘れたの? もう、学校に置いとけばいいのに。
呆れたように笑いながらも決して断りはしなかった、紺色のブレザーが重なる。
ここで一緒に三年間を過ごした同級生。卒業後はお互い別々の県に進学して、直接会うことはほぼなかった。
「やっぱり来た。まだお盆前だよ、早いね」
俺を認めると、あの頃と同じように片頬にえくぼを寄せて笑う。その顔は自分と比べ随分と若々しい。
「お前、なんでここに」
「お盆の最終日にする同窓会の案内状行ってない?
案内状……そういえば。
進学して就職して、慌ただしい日々に流されるだけ流されて会わなくなって何年経つ。
部活でもクラスでも情報通で世話好きだった奴は、今も変わらないらしい。
「そんなわけで、あわてんぼうの忘れんぼさんに教えてあげようと思って」
嫌味ではなくそう言われれば苦笑いしかない。
なんとなく気が向いた帰省だと思っていたが、どこかで見たその案内状が引っかかっていたのだと、ようやく気が付いた。
「武市は元気か?」
「それは当日のお楽しみ。去年から同窓会の幹事引き受けてくれて。だんだん参加者も増えてくるだろうね」
重く錆びついたこの身体は、日が暮れてからもボールを追った毎日が嘘のようだ。
正門脇のフェンス越しに見えるグラウンドから視線を外し、腕に抱かれた子供に目をやる。母親によく似た垂れ目で、きょとん、とあどけない瞳は娘が小さかった頃を思い出す。
よいしょ、と腕を揺すって抱き上げられ愛おしげに頬摺りをされた子供は、満たされた表情でいとけなく笑った。
頬を付けたまま睦み合う母娘は、祭に似合いの華やぎだ。
「可愛い子だな」
「ふふ、そうなの可愛いの。そっちの娘さんはもう大きかったよね」
「今年嫁いだ。ようやくな」
「初盆でしょう、一度向こうに行ってあげて。それでこっちには同窓会の日にまた来ればいいよ」
「よく知ってるな……ああ、それも武市か。お前も同窓会に出るんだろう?」
「私、お盆はずっと旦那さんのところ」
だから早めに実家に顔を出しに来たの、と屈託無く笑う。それが意外だった。
「……許したのか」
「許すも何も」
「お前の親父さんは、ものすごい怒ってた」
高校のあの頃から、喘息持ちだった。
幾分治癒したはずの臨月の妻を突然襲った重い発作。一生大事にする、と誓った出張中の夫は、助けを求めた深夜の着信に気付かなかった。
――側にいたのは、他の女性。
社会的にはそれなりの立場の夫だったが、謝罪に日参してもただの一度も敷地に入ることすら許されず追い返されたという。
双方が外聞も醜聞も構わず繰り返した攻防があったことは、卒業以来、地元に数回しか戻っていない自分でも知っている。
「娘は自分のところに返してもらう、絶対に渡さないって」
「私も、あの人じゃなく直接救急車を呼べばよかったのよね
息も吸えない状態で何も話せなかっただろうから、結果はきっと同じだと呟く。
その表情が透けて消えてしまいそうで瞬きを重ねた。
りん、と風に揺られて涼を呼ぶ鈴の音が高くなり始めた空に響く。少しの逡巡のあと、ぽつりとこぼす声に耳を傾けた。
「ヤキモチをね、妬いて欲しかったんだって」
「それで浮気? 馬鹿だな」
「あの人結構モテるのに、私が何も言わなかったから。信じていたからなんだけど、もっと分かりやすく怒ってあげればよかった。悪いことしたわ」
いつも穏やかに笑っているコイツに不安を感じるのは、自分に負い目があるからだろう。
やっぱり馬鹿な奴だ。
側から見て恵まれたような人間でも、結局は足りないものを探してばかり。
――雨の玄関先で、力なく項垂れるずぶ濡れの姿を見たあの時。
ざまあみろと感じて初めて自分の想いを自覚した俺も、十分馬鹿だった。
何気なく出した手の指を、小さな手がぎゅっと握る。大人の指一本にようやく回るほどの温かさ。
「あの人、一度私のところに直接来たんだ」
「まさか」
「だから今度は怒って帰ってもらったの。胸張ってこの子に会えるようになってから来てくださいって……ちゃんと、幸せに、なってくださいって」
憑き物が落ちたような顔で、何度も振り返りながら戻ったという。
それ以来、妻の実家に通う回数は減り、静かな話し合いがようやく持たれたのだと。
「……俺さ、高校の時、お前のことが好きだった」
「私も好きだったよ」
「高校の時な」
「高校の時ね」
近づいて来たお囃子はここの近くの八幡に戻ってきたのだろう。
あの夏に偶然を装って、本心では期待してうろついた本通りで嫌になるほど耳にしたのと同じ祭囃子の
「そっか、両想いだったんだね」
きゅ、と一度強く握られてぱらりと離れた指。
白い浴衣の幼な子はいつのまにか、くうくうと寝息を立てていた。
満足そうにその顔を覗き込んで母の顔で目を細める彼女に、もう、制服は重ならない。
そこにあるのは純粋に「そうだった」という思い出。
確かめるようにこちらを伺う瞳を真っ直ぐに見返すと、ほっとしたように微笑んだ。
「大丈夫そうだね」
「ああ。悪いな、世話かけて」
「こっちでは私がずっと先輩だからね」
いたずらっぽく肩をすくめる仕草は昔と同じ。耳の奥にかすかに聞こえる誰かの……妻と娘の声がだんだんと形を成してくる。
この後どうすればいいかは教えられずとも知っている気がした。
もう迷子のような焦燥感はない。
「お前はいかないの?」
「もう少しね。待ってるって約束したから」
「……面倒くせえ男」
ぷっと吹き出すのにつられて一緒に笑う。今でも笑えるんだな、と少しだけ不思議に感じた。
大事そうに娘を抱きながら、小さく振られる手が次第にぼやけてくる。
にわかに強くなった風に揺れる御幣、響く風鈴と祭囃子。
一度大きく息を吐くと、お互いに半分薄れかけた姿で向き合う。
「同窓会で会おうな」
「うん。いつかね」
先に消えたのは向こうだったか、自分だったか。
とりあえず、武市に会ったら忘れずにお節介の礼を言おうと、珍しく殊勝に思って目を瞑った。
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