君と楓の木の下で(後)

「知らないな」

「そうです、ケイトリンっていって。え?」

 事務室には予想通り先生が戻っていて、でも返ってきた言葉は予想外だった。

「たしかに先ほどまで来客はあったが、トレイビル家の先代夫妻だ。お前の言うような小さい子供とその母親の連れなどない。私の親戚にもその年齢の子供はいない」

「ええ……」

 どういうことだ。

 記録表を書き進む手は休めずに、訝しむようにこちらをちらりと見る先生に思わず言い訳めいた口調になる。

「いやだって、確かに……五、六歳くらいの女の子で、濃い栗色の巻き毛で、」

「さあ」

「本当ですって。あ、そう、そういえば! なんかすごい指輪していました!」

「指輪ねえ」

 親のところまで送ろうかと言ったときに、慌てて目の前で振った小さな手に不似合いな立派な指輪。

 それもあって、確かにどこかの貴族令嬢に違いないと思ったんだ。

「この前ダイアナに宝石店に連れていかれたから分かります。あれ絶対、紅玉でした。随分立派で、ちょっと変わったデザインで。緩そうにしていましたから、きっとあの子の母親のものじゃないかと」

「紅玉……?」

 先生が初めて手を止めて顔を上げた。

「葉の形――そうですね、かえでの葉っぱみたいな」

 金色に染まった葉色の楓を思い起こさせるデザインのリングは、艶やかな赤い石を何石も惜しげも無く配した細工だった。店でもあんなふうなのは目にしなかったから、きっと特注だと思う。

 ところが話すほどに先生は顔色をなくして黙り込んでしまった。

「――イーファ……?」

 なにか呟くとそのまま椅子を倒して立ち上がり、こちらに目もくれずに飛び出していってしまう。

「先生っ?」

 つられて俺も外に出たが、ちょうど来合わせた王宮の担当事務官に呼び止められる。なんだかんだと時間を食ったおかげで、先生の姿はとうに見えなくなっていた。


 すっかり陽が傾いてしまっても先生は戻らない。夜は冷え込むというのに、室内で作業をしていた先生はシャツ一枚のままだ。

 少し迷ったものの、俺は外套を手に探しにいくことにした。

「せーんせー。先生ー、どこですかー? 」

 向かったのはあの女の子に会った温室。一応、灯りを持ったが、外に灯のないこの辺りで陽が沈みきったら人探しはまず無理だろう。

 ここに住んでいると言って過言でない先生なら滅多なことはないと思うが、夜露に濡れた落ち葉で足を滑らせて水路に――ということもないとは限らない。

 ……あまりよろしくない想像を頭を振って払い落とし、手応えのない呼びかけを続けていたその時。まさに沈みそうな夕陽をバックに樹の陰からひょっこりと女の子が顔を出した。

「しーっ、声が大きいわルーカス!」

「えっ!? あ、君っ、ケイトリン!」

 おいでおいでとされて慌てて駆け寄る。

「君、何やってるの、こんな時間まで! 暗くなると危ないんむぐ!?」

「私は平気よ。それより声を小さくしてってば!」

 むぎゅ、と口元をふさがれて強引に話を止められる。そのままグイグイと引っ張って林の奥の方へ連れていかれた。

 不思議なことにふさがれた口も組まれた腕もなぜか外すことはできず、子供とは思えない力に内心で驚く。

 しかも、なんとなく、いや確かに……さっきより大きくなっている。五歳くらいだったはずなのに今は、十歳くらい。いや、もっとか?

 ものすごく問いたげな俺に気が付いた彼女は、絶対に大きな声を出さないと固く約束をさせて、ゆっくりと口元を解放してくれた。

「ケイトリン、」

「ねえ、ルーカス。あなた、恋したことある?」

 真っ直ぐに俺を見つめる瞳は、昼間の榛はしばみ色から夕陽をうつした茜色に変わっていた。唐突にされたその質問の返事に詰まる。

 確かにガールフレンドは切らしたことがない、でも「恋」と言われると――。

「ないでしょう? 別にそれが悪いとは言わないわ」

「なに、何の話だよ一体……」

 先生を探しに来ただけなのに。なんで残念な気分にならなきゃいけないんだ。

「母さまはね、恋をしたの。父さまとたったひとつの恋をして、私が生まれたの」

 ケイトリンは俺の目を真っ直ぐに見てうっとりと微笑むと、潜めた声の一語一語に自信と力を込めた。今やその目線は俺のすぐ下にあって、服も髪も昼間に見たままなのにどこからどう見ても俺と同じ年頃のレディだ。

 あり得ないことが目の前で起こっているのに、不思議と疑問を感じない。

 す、と上げられた手が示す樹々の先には、特別鮮やかに葉を染める楓の大木が見えた。この国の楓は秋になると黄変する。それなのに、あの樹の葉色は赤一色だ。そう、まるで紅玉のような――。

「え、ここ……嘘だろまずいって」

 植物園の中でも、特に出入りを制限されている区域に入り込んだことに気付いて動揺する。

 古代樹が残るこの一角は、王宮内の植物園でありながら聖域として保護されている場所。特にこの、赤く色を変える楓は建国時からあるという神木のひとつになっていて、周囲には護りの結界も施されている。

 先生でさえ神殿の許可を特別に取っているというのに、俺がこんなに近くまで来たことが知れたら大変なことになる。

 俺の焦りを助長するかのように、とうとう夕陽が沈む。

 ところが暗くなったのはほんの少しの間だけで、光と、そして暖かい空気に周囲はふわりと包まれた。驚いて見回す俺の目には、あり得ない光景が映っていた。

 燃えるように色付いた楓の葉の一枚一枚が、淡く赤い光をまとい周囲を照らしている。そしてその古樹の下には、探していたその人。

「先生……」

「私を産むのにたくさんの力を使ってしまったから、母さまは外に出られなくなってしまったわ。ようやく今年、少しだけ動けるようになったの。父さまのお薬のおかげよ」

 胸元で指を組み、目を細めて先生の方を見つめるケイトリン。

 その横顔も赤い光に照らされて、茜色の瞳はそれこそ紅玉のように輝いていた。

 ――急に変わった姿、見たこともない色の瞳。たしかにここにいるのに、視界にいれなければ彼女は周囲と完全に同化して気配が消える。


 こんな存在を俺は知らない。彼女は、人ではない。あるわけがない。


「ケイトリン、君は、」

「本当はまだ少し早いの。でも、大好きな人には一番綺麗な姿を見てほしいじゃない?」

 そう言って俺を見上げるケイトリンの瞳は本当に嬉しそうに潤んでいて、そのきらめく茜色に鼓動が大きく跳ねた。耳の奥でうるさく鳴る脈の音に目眩がしそうだ。

 また横を向いた視線の先を追えば、大樹の下で迎えるように腕を広げる先生。その中にふわりと降りて来たのは、葉と同じ深い紅色のドレス、まばゆい金褐色の髪。


 ――会いたかった、と胸が痛くなるようなかすかな声が耳に届く。

 シャラ、と歌うような葉ずれの音が周囲を満たす。


 先生のあんな顔、初めて見た。

 五年も一緒にいたのに。あんな、痛みをこらえた泣き顔のような、ぎゅうと胸が絞られるような笑顔は。

 植物に触れるときの先生の指先。土を確かめる真剣な眼差し。水質の検査も、温度や湿度の調整も、研究者としての姿だと思っていたけれど、きっと先生の一番底にあったのは……。

「さ、行きましょう」

 ぐい、とまた腕を引かれて先生たちが影になる。手元の灯りもついてはいるが、先を行く彼女の全身が淡く光っていてその用をなしていない。

 繋いだ手は進むたびに小さくなっていく。歩くごとに滲むように変わっていく姿に、何度もその手を握りなおし、何度も瞬きを繰り返した。

 ケイトリンに導かれて俺たちは来た道の方へ戻った。

「ここまで来たら道は分かるでしょう? 心配しないで戻って」

「ケイトリン……」

「母さまはまだぜんぶ元気になったわけじゃないから、きょうはすこしだけなの。じゃましたら、ダメなの」

 林を抜けた時、目の前にいたのは昼間に見た小さなケイトリンだった。少し舌足らずな話し方の、お菓子みたいな女の子。

「それじゃ、ばいばい」

「っあ、ま、待って!」

 離そうとした小さな手を慌てて引き止めた。もう半分背中を向けていたケイトリンは、髪を揺らして不思議そうに顔だけで振り返る。

「なあに?」

「あの……また、会えるかな?」

「どうして?」

 どうして? どうしてだろう。この子は人ではなくて、でもそんなことは関係なくて。ただ、これっきり会えなくなるのは嫌だと思った。

 先生のさっきの顔、降りてきた女の人が先生を見つめる瞳が頭から離れない――恋っていうのは。

「会いたい、から」

 そうだ、ただ会いたい。その茜色の瞳にまた自分を映したい。

 先生みたいな恋など知らないし、自分の気持ちもよく分からないままだが、それだけは確かだった。

 きっと微妙な顔をしているだろう俺の手からするりと指を外し、ケイトリンはにこりと笑った。

「……またね!」

 屈託のない笑顔にさっきの大人びた瞳が重なって見えて、また胸が騒ぐ。鳴り続ける鼓動を振り払えないまま、林の中に消えて行く淡い光を立ち尽くして見送った。




 事務室のソファーでいつのまにか眠っていたらしい。掛けた覚えのない毛布をよけて朝日の眩しい外に出ると、冷えた空気に昨夜のことはまるで夢のように感じる。

 寝ぼけた頭を冷たい水で無理矢理起こし温室へ向かうと、昨日と変わらない先生の姿があった。

 違うのは、その足に隠れるようにしがみついている女の子がいること。瞳は榛色に戻っているけれど、間違いない。

「なんだ、ルーカス。挨拶も忘れたのか」

「あっ、いや、お、はようございます! って、先生……ケイトリン!」

「おはよ、ルーカス」

 先生の影から半分顔を出して照れくさそうに笑うケイトリン。思わず走り寄ると、先生はケイトリンをひょいと抱き上げてしまった。

「……俺の娘に何か用か?」

「キアラン!」

「父さま、だよ。ケイトリン」

「とうさまっ」

 ぱああ、と笑顔を見せて嬉しそうに先生の首に抱きつくケイトリン。先生はぴったりとくっつく彼女を大切そうに抱え直すと、見せつけるようにその栗色の髪に唇を寄せる。

「お前にはまだ渡さん」

「せ、先生」

 そんな、と言いかけたが俺の素行はバレバレだ。くすくすと面白そうに笑うケイトリンの視線が痛い……これは、先生から話を聞いている顔だ。思わず額をおさえる。

 まあ、今のままだとどう見てもせいぜい兄妹だし――そう呟く俺に、お前も少しは苦労しろ、なんて聞こえた気がするが空耳だと思いたい。

 ……とりあえず、この子にまた虹を見せてあげよう。今度はもっと大きな虹を。

 そうしてその瞳が茜色になるときに、俺の前で笑っていたらいいなと思うんだ。


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