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「恋ぞつもりて」その後は

 サッカー部の掛け声、吹奏楽部のパート練習……賑やかな部活動の喧騒を通り過ぎてたどり着いた西校舎三階の地学室。その引き戸に手を掛けた時、誰もいないはずの教室から聞こえる小さな声に相模さがみ美月みつきは気が付いた。

 漏れ聞こえてくる声は男女のもの――緊張をはらむ空気が廊下まであふれてきそうな雰囲気にはっとする。

「どうした? 開けねーの」

「しっ! 海斗かいと、やっぱり今日は帰ろう」

 動きの止まった美月に覆いかぶさるようにして、戸の脇壁に手をついた町田まちだ海斗に、美月は潜めた声で慌てて答える。

「わざわざここまで来てなに言ってん……って、あれ、片岡じゃん。女子のほうは向井か?」

「ちょ、声が大きいってば!」

 扉に嵌まっているガラスには展示物が貼られているが、上部五センチほどは開いている。美月には届かないその隙間。そこから見えた室内にクラスメイト二人の姿を確認した海斗は、不思議そうな声を出す。

「何してんだ、あいつら。書道部でもないのに」

 美月につられてようやく小声になったが、廊下に人がいる気配は中に伝わってもおかしくない。しかし、室内の二人はこちらに気付かず、そのまま何やら話し続けている。

「覗かないっ。誰でもいいし、なんでもいいから。ねえ、名簿は後に」

 後にしよう、と続きを言いかけた美月が海斗の腕を壁から剥がして回れ右したのと、室内からやや大きめの声が飛び出したのは、ほぼ同時だった。

「す、好きだ! っ、だから、付き合っ……てっ、ほしい」

 バッチリ聞こえてしまったそのセリフにピタリと動きを止めて、美月と海斗は顔を見合わせる。

「……えーと、帰るか」

「今すぐ」

 返事まで聞いてしまう前に。

 頷く暇も惜しんで、そそくさと二人は地学室の前から退散した。




 そのまま、駅に向かう帰り道を一緒に行くことになった。

 校門を出てからも黙々と歩いていたが、周囲に同じ制服が少なくなったあたりで、ようやく海斗が口を開く。

「あー……そっか、片岡が向井のこと……そうだったのかぁ」

「え、知らなかった? 結構バレバレだったと思うけど」

「そうなん?」

 全然気付かなかった、とぽかんとする海斗に美月は少々呆れ気味の視線を送る。多分、クラス中が気付いていた。当の本人ともちゃんと、目の前の海斗コイツ以外は。

「片岡君、クラスのみんなに人当たりはいいけれど、ともちゃんだけにはって感じだったじゃない。なにかといえば構うし」

「えー、そうか?」

「まあ、友ちゃんも海斗と一緒で、ちっとも気付いてないようだったけど。遠回しは効果ないって分かったんだろうね。夏休み前に勝負に出たか」

 入道雲を見上げながら美月はそう言った。現在のクラスメイト同士、そのうえ女子のほうは一年生の時も同じクラスでよく知っている。いつも穏やかでぽやぽやと笑う癒し系の向井友実は、女子から見ても可愛らしく憎めない雰囲気の子だ。

 割と目鼻立ちがキツめの美月がこっそり、いいなあ、と羨ましく思っていた相手でもある。

「夏休みねえ」

「夏祭りとか花火大会とかあるじゃない」

「まあなぁ。なあ、向井はなんて返事したと思う?」

「さあ……でも明日の片岡君見れば分かるんじゃないかな。それにしても心臓に悪かった。人の告白なんて私、初めて聞いちゃったよ」

「俺も」

 偶然とはいえ、盗み聞きしたみたいで申し訳ない、そうこぼす美月に海斗はきょとんとする。

「なんで? 俺ら悪くないだろ。書道部の部室だって分かっているのに地学室を選んだの、あいつらだし」

水曜日きょうは活動休みだって知ってたかもだよ。名簿なんて明日でよかったのに、海斗が『今日出せ今出せほら早く!』って急かすから」

 部活が休みなのに部室である地学室に行ったのは、そこのロッカーに名簿を置いていたから。

 夏休みの活動に関わる書類の提出期限は明日。生徒会で必要なその書類を執行役員の海斗に求められて、一緒に取りに行ったのだった。

「だって、未提出は書道部だけだったんだよ。お前、部長だろ? 生徒会も暇じゃないんだから、早く終らせたかったんだって」

「それも分かるけど……」

 それにしては生徒会に戻らず、こうして美月と一緒に下校の途にある。忙しいのじゃなかったかと聞けば、もともと役員室には行かずに持って帰って家でやるつもりだったと返された。

「しっかし、あれだな。告白ってあんなんでいいの?」

「え?」

「いつもの学校でさ。セリフだって直球だし」

「それのどこが悪いの?」

 本当に疑問に思っているようで、海斗の声に揶揄する響きは全くない。今度は美月がぽかんとした。

「うちの姉ちゃんがよく言ってるし。シチュエーションに凝れって」

「ああ、そういうのが好きな人もいるだろうね」

「女子は皆そうじゃねえの」

「あんまり遠回しに言って『なんのこと?』ってなっても意味がないじゃない。現に、友ちゃんには片岡君からの今までのアプローチは伝わってなかったでしょ」

 そう説明する美月に海斗は困惑顔だ。

「それに、ラインやメールじゃなく直接言うなんていいじゃん」

「そういうもん?」

「人によると思うけど、私はね。そもそもメールとかまめに見ないし、しょっちゅう充電切らしちゃうから、二、三日は気付かない自信ある。伶奈れなちゃんにもそれでよく怒られるけど」

 そんな美月の返答に、海斗はますます眉間にシワを刻む。

 中学から同窓な二人だが、こんな、恋愛系の話をするのは初めてだ。そう思うと、高校二年という自分達の年齢がやけにリアルに感じる。

「ふうん……ま、でもお前には縁のない話だな」

「お。失礼な」

 お互いに彼氏彼女がいた時はない。それは中学高校と一緒だからよく知っている。家もまあまあ近所だし。

 とはいえ、一度も告白されたことがない、と決めつける海斗に、美月はいたずら心が湧いた。無くはないのだ、今まで言うつもりもなかったが。

 わざと余裕そうに振る舞えば、一瞬驚いた顔を不機嫌に変えた海斗に、問いただすように訊かれる。

「なに、あるって言うの」

「まあね。海斗はどうなの」

 高校では辞めたが、小中とサッカー部で活躍していた海斗は、お約束通り結構人気がある。女子マネと付き合っているだの、他校の生徒から告白されただの、噂はよく耳にしたが本人はその都度否定していた。

「俺? 告白されたことはあるけれど、自分からは無いな」

「わーやだナニソレ、自慢デスカー」

「違うって。好きでもない子や知らない子から言われても断るのがしんどい。それより、お前に言ってきたの誰、書道部の前の部長か?」

「え、もしかして私と翔太しょうた先輩、そんな噂になってるの?」

「……名前呼びかよ」

「聞こえないよ、何?」

 面白くなさそうに車道側を向いて呟いた海斗は、また美月に向き直ると少しヤケ気味に言い直す。

「だから、よく二人っきりで残って部活してたじゃないか」

「ああ、だって部員多くないし。展覧会にちゃんと出すの、私と翔太先輩くらいだったし」

 大がかりなパフォーマンスで人気のある書道部も他校にはあるが、美月の通う高校の書道部はほぼ帰宅部員で構成されている。そのため、自由参加の活動日は人が少ない。というか、いない。

 県内の書道コンクールや美術展が発表の舞台ではあるがお義理での参加が多く、練習して何度も書き直して、と本気で出品するのは毎年ごく少数だった。

 ――夕陽の差し込む地学室に言葉はなく、あるのは墨の匂いと半紙の上を走る筆の音だけ。あの静かな時間を美月は気に入っていたが、周りから見れば確かに放課後の室内に男女二人っきりだ――活動中は、準備室に常に顧問の先生がいるのだが。

 去年書いた作品は二人そろって入賞して、先輩の引退前のいい思い出になった。そんなことをぼんやりと思い出す美月に、海斗は話し続ける。

「習字はよく分からないけど、あれはいいと思う。あの、校長室前に飾ってるやつ」

「うん、翔太先輩のすごいよね。私、篆書てんしょなんて到底書けないわ」

「いやそっちじゃなくて、お前のほう」

「私の?」

 上位入賞を果たした先輩の作品はさすがに立派で、美月は憧れと感嘆と、少しの羨望を覚える。傍目に見ても自分との差は歴然のはず。

 でも海斗は空中に虹のような形を手で描いて、どこか楽しそうな顔をする。

「こういうさ、扇の形の紙に何個もさらさらーって書いてあって、なんか綺麗だし。全然読めないけど、すげーな、って」

「……ありがと。そんなこと言うなんて、珍しい」

 普段から、教室でも登下校の電車が一緒になった時とかにもよく話はする。でも、面と向かってこんなふうに褒められたことはなかった。まあ、地味な部活だし、そんなものだと美月も気にしていなかったが。

 駅はもうすぐ。ここまで来ると、買い物をしたり何か食べたり帰宅したりで、また学生が増えてくる。

「そうだったか? で、あれ、なんて書いてんの」

「どれも和歌。二枚目の『筑波嶺つくばねの……』とかは、百人一首にも入っているよ」

「へえ……」

 知らない、とは言えず苦笑いでごまかすと赤信号で足と一緒に会話も止まった。

 待ち時間を示す電光表示が少なくなった時。美月は海斗をまっすぐに見上げると、ふ、とその目元を和らげ、あのね、と口を開く。

「知ってる? ……あなたが好きです。前よりもっと、すごく好き」

「っ!?」

 美月のそろえた前髪をなびかせる風が二人の間を通る。

「好き」と言い終わった唇のまま淡く微笑む美月に、余裕のない表情の海斗が何か言いかけた時。信号が青に変わった。

「――っ、みつ「あ、美月―!」

「玲奈ちゃん」

 信号の向こうで手を振るのは二人と同じ制服の、これまた同中の友人。さっとそちらに向かって歩き始める美月を、海斗は慌てて追った。

「海斗もいたんだ」

「いて悪いか。方向同じだろ」

「まあいいや。ね、なに話してたの? 珍しく真面目な顔してるけど。コイツ」

 揶揄うように海斗を指先でつつきながら、遠慮のない突っ込みをしてくる玲奈は今も昔もクラスのムードメーカーだ。

「ん、私のほら、校長室前に飾ってる書道の」

「ああ! それは海斗には難しいわ。このニブさで『恋の歌』なんて無理ムリー」

 ほら通じてない、とカラカラ笑う玲奈の隣で美月も困ったように微笑んでいる。

 ようやく、海斗は先ほどの状況と自分の勘違いを理解した――和歌。

「あ、そういう……」

 美月の言った「あなたが好き」云々は告白などではなく、書いた「和歌の訳」を教えてくれただけということに。

「ちょうどよかった。ね、美月、買い物付き合って! 夏合宿用の鞄が欲しいんだ」

「そこの店? いいよ、私もサブバッグ見たかったんだ。じゃあね、海斗」

「お、おう」

 あっさりと手を振って駅ビルの中に消えていく二人の背中を見送ると、海斗は改札近くの通路壁にドサ、と寄りかかる。

 遅れて紅潮してきた頬を隠すように目元を手の甲でこすると、大きく一つ息を吐いた。耳の奥に響くのは、自分に向かって「好きだ」と告げた美月の声――告白でなくてよかった。だってそのセリフは。

「……ちくしょ。俺が言うんだっつーの」

 シチュエーションに拘らず、直球な言葉で、面と向かって。

 次第に混み始めた駅には、長年の片思いにケリを付けようと、今日入手した情報を胸に静かに決意する男子高校生の姿があった。


 シースルーエスカレーターの下にいる海斗を名残惜しそうに目に映した美月は、少し眉を下げる。

「けっこう、頑張ったんだけどなあ……」

 とうとうあふれた美月の想いは、うまく伝わらなかったようだ。三十一文字で心を交わし合った古の歌人を羨ましく思いながら、屈託無く笑う友人に手を引かれて美月はショップフロアに進む。

 ――かの時代と違って、明日も会える。そう思えば足取りも軽い。

「どうしたの美月?」

「あ、ううん。ほら、今日がダメでも明日があるしね」

「ええっ、やだ。ぜーったい、今日! 今日、買いたいのっ。あ、こっちこっち」

 片岡、向井に続き、二組目となった二人にクラスメイトが「爆ぜろ」の祝辞を贈るのは夏休み直前。今からもう少しだけ後のこと――。




 〜おまけ〜 美月の書いた句


 筑波嶺の 峰より落つる 男女川 恋ぞつもりて 淵となりぬる 

(つくばねの みねよりおつる みなのがは こひぞつもりて ふちとなりぬる)

 (陽成院) 出典『後撰集』


 時とともに、淡い気持ちからゆっくりと深まっていった恋心を素直に歌った一首。

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