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地上十二階のトロイメライ
空港へ直通の路線が乗り入れているターミナル駅。そこに併設する駅ビルの上階に、自分が店員と講師を務める楽器店はある。
ピアノやギター、ドラムなどが置かれた売り場自体は広さもなく、楽器そのものの売り上げも大きくはない。メインはその奥にある貸しスタジオと、各種レッスンだ。
ピアノに始まりアコースティックギターからケーナ、ハープまで多彩な楽器に対応できる講師陣、熟年層の初心者に向けた教室なども用意しており、駅の利便性も手伝って毎日賑わっている。
特に今の春先の時期は新生活とともに習い事を始める人も多く、問い合わせや体験授業も普段よりあって気忙しい毎日だ。そんな慌ただしさが一段落した今、落ち着いた店内を見回した。
店頭に置かれた楽器は試弾ができる。しかし基本的に売り物でもあるそれら。安い買い物でもないし相性や好みもあるから、購入を検討する際に試すのは当然だが、遊び半分で乱暴には扱ってほしくはない。
楽器本体につく傷や汚れ、調律の狂いもそうだが、何より不特定多数にやたらと触られた「中古」に近い楽器を好んで定価で買いたがる人は多くないだろう。
なので、ほとんどの楽器には「お試しになりたい方は店員までお声をお掛けください」といった案内表示が付いている。
今、店内に流れるのは落ち着いたジャズ。その心地よいリズムに上書きされるのは、少したどたどしい「トロイメライ」――音源は、一台のアップライトピアノの前に座る女の子。
小学生だろう、まだあどけない顔立ち。しゃんと伸ばした背中は小さなピアニスト然としているが、学校があるはずの平日の午前中というこの時間と黒一色のワンピースに少し違和感を感じる。
近くに保護者らしき姿は見えない。本来ならばすぐにでも声をかけて、なんとなれば迷子放送の手配もしなくてはならないのだが、つい、その音色に聞き惚れてしまった。
そっと覗き込めば、オクターブがようやく届くようになったくらいの柔い手で一生懸命に鍵盤をおさえている。当然だがテクニックは拙く、表現というより音階をなぞるよう。
しかし運指の難しいだろうところも手を抜かず、誰かに聴かせるために心を込めて弾いている音で、それはかつての自分が過ごした時間を思い出させる。
――ゆったりとした美しい旋律のシューマンの調べ。
せがまれて何度も、それこそ毎日のように弾いた曲。
他に客のないフロア、奥にいる店長の黙認。店前の通路を歩く人影もまばらだったこともあり、ようやく声をかけたのは最後の一音を十分に伸ばした指が鍵盤を離れてからだった。
「上手だね。一人で来たの、お母さんかお父さんは?」
驚かさないように、少しかがんで目線の高さで訊くと、キョトンとした瞳をパチパチさせる。
「お母さん、いるよ」
話す声は姿よりも幼く、ああ、これは自覚のない迷子だとあたりをつける。
「そっか、じゃあ、お母さん探さないとね。ええっとね、このピアノは先にお店の人に言ってから弾いてほしいんだ。次からそうしてくれる?」
注意書きの文言は読めなかったのだろう。まさか子供が一人で来店もないだろうと、全て大人向けの案内表記だった。こんな弾き方をする子には不要だとも思うが、一応言わねばならない規則だ。
注意されたことは素直に受け止めてくれたようで、女の子はこくりと頷き、その上であのね、と話し始める。店員相手とはいえ、人見知りをしない子らしい。
「お父さんが発表会に来てくれなかったの」
「もしかして今の曲?」
「うん。いっぱい練習したのに、来られなかったの」
悲しそうに伏せる目は今にも涙がこぼれそうで、どきりとする。接客は苦手ではないが、子供の扱いは得意とはいえない。店頭で泣かれでもしたらと焦ってしまう。
「ここは高くてお空に近いから、ここで弾いたらお父さんに聞こえるかなあって」
――ずきりと心臓に何かが刺さった。
女の子の視線は鍵盤と、通路向こうの窓ガラス……地上十二階の空を行ったり来たり。
「……あ、」
まさかそんな言葉が出てくるとは思わなかった。
――黒一色のワンピース。硬そうな黒革のフォーマル靴。肩までのまっすぐな髪にパールのカチューシャ。
ただのお出かけにはいささかフォーマルすぎるそれらに、言葉を飲み込んだ。
「だってね、お父さんね、」
「さくらっ!!」
降ってきた声に振り返ると、エスカレーター近くから一人の女性が血相を変えて走ってくるのが目に入った。
「あ、お母さん」
「あなた、は、もうっ。待っててって、言ったで、しょうっ!?」
息を切らしながら駆け寄ると、涙を滲ませた表情で女の子の肩に手を置く。
やっぱりここにいた、と安堵の息を吐きながら言うと、隣に立つ自分に向かい深々と頭を下げた。
「すみません、ご迷惑をおかけしました。この上にいたのですが、少し目を離した隙に……」
一階上は最上階のレストランフロア。昼食時は混雑必至のそこで予約を入れていたら、店前で待っていたはずの娘が消えていたのだという。
「いえ、何事もなくてよかったです」
「本当にもう……
たしなめられて小さい声で、それでもごめんなさいと口にする。
「あ、ほら、もう次の電車で行かないと。あの、本当に失礼しました」
「ねえ、お母さん。お父さんはまだお空?」
「そうね。でも、もうじき地面に降りてくるわよ」
――ん?
「お帰りなさいって、空港で言うんでしょう」
「うん!」
お父さん、お空って、もしかして……
「え、あ、飛行機……?」
ぽかんとした顔で口を挟んだ僕に、嬉しそうに微笑む二人。
「出張が長引いてしまって。ようやく今日、帰国なんです」
「お父さん、外国にいて発表会来てくれなかったのー」
「仕方ないでしょう、お仕事なんだから。すみません、お騒がせしました。さ、急がないと飛行機が着いちゃう」
もう一度お辞儀をして、慌ただしく店を出る母娘。最後に振り返って手を振る女の子は楽しげで、肩の力が抜けた僕は呆けたように立ち尽くしてしまった。
「よかったじゃないか」
「店長」
「あんな試弾なら、いつでも歓迎だね」
「……少し、弾いてもいいですか?」
返事を待たずに椅子に腰掛け鍵盤に指を置く。頷いて奥に戻る店長の背中を視界から外し、十二階の外を見た。
広がる青空をほんの一時瞑った瞼の裏に映るのは、いつも隣にいた一人。
思い出は今も鮮やかなまま。
『ここは高くてお空に近いから』、君に届くだろうか。
そんなことを思って弾いた今日のピアノの音は、桜の色をしていた。
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