第35話 微睡みの槌 35
「さて、面会時間の開始に合わせて行こうと思っていたのに、道草を食ってしまった」
最後にどうしても親方にはお礼を言っておきたい。それさえ叶えば、後はもう何も思い残す事はないのだ。ただ、ひたすらに戦う道を行く事ができる。
人目につかない道を選びながら、少し遠回りをしつつ街を行く。離れがたい気持ちを少しずつ整理したかったからかもしれない。
目的地にたどり着くと、少し緊張した。足先が震えるのだ。町を出る決心をするまでは、近づく事すらできなかった。心を決めた今ですら、体は恐れるらしい。もしかしたら、親方の顔を見たら心がグラつくのではないかと、そんな事を考えてしまう。
もういっそ、何も言わずに行ってしまおうかと思い始めた時、腕を優しく掴まれた。
隣を見ると、いつの間に出ていたのか、ノーラが立っていた。
「行かなきゃ。じゃないときっと、後悔すると思う」
「ああ……」
最初の一歩を踏み出すと、二歩目は自然とついてきた。そうして、一歩ずつ歩いて行く。
受付の女性に面会したい旨を伝えると、少し不審そうな視線を投げられたが、職業柄こういう恰好をしていると説明してどうにか通して貰う事ができた。
廊下を歩き、病室へと入った時、パーテーションの向こうで微かに人の動く気配を感じた。看護師の話では、まだ目は覚ましていないという事だったので、まさかと思ったが、どうやらただの寝返りをうっただけらしい。
少しの間、親方の顔を観察する。無精髭が伸び、顔全体も少しやつれてしまっていたが、それでも以前に見た時よりはるかに血色がいい。回復に向かっている証拠だろう。
心が満ちるまでしっかりと目に焼き付けてから、俺は少しだけ窓を開け、ベッドの隣におかれた台に自分の夢を攻略した真核を置いた。
相変わらずゴツゴツとした、美しさなどまるで無い代物だが、殺風景な病室には少し馴染んでいるような気がした。
別れの挨拶は胸の中に抑え、深く頭を下げてから部屋の出口へと向かった。
扉を開いた時、通り道を見つけたそよ風が窓の方から這入りこんで来るのと同時に、何かが舞い込んできたような気がした。
念のため、確認しようと覗いてみたが、病室にそれらしいものは見当たらない。
気のせいかと踵を返した瞬間、頬の隣を、金色の蝶が通ったように見えた。それは一瞬だけ確認する事ができて、幻のように姿を消してしまった。
と、その時―――――
「ん、んん……」
親方がむずがるように、顔を歪めた。
俺は咄嗟にパーテーションに隠れ、声をかけた。
「……起きてますか、親方?」
少しの間を挟んで、少しかすれた声が聞こえた。
「デリスか……? ここは、医院か? 何が、どうなった……?」
俺は自分がした事は言わず、少しだけ事情があって声がおかしくなってしまったと前置きしてから、親方が夢患いになった事、破滅根は既に処理されてもう安全だという事を説明した。
「そうか……、それは良かった。ところでお前、どうしてそんな所に立ってるんだ?」
「すいません、今ちょっと汚れてまして……。傷に障るといけませんから」
「そんなに汚いのに医院に来るもんじゃない。迷惑になるだろうが」
「ごめんなさい。ただ、どうしても今日は来たかったものですから……」
そこまで言って、町を出る事をどう切り出そうかと悩んでいると、何かを察してくれたのか、親方が言った。
「……何か、言いにくい事でもあるのか?」
「…………はい。実は……町を出て、修行をしようかと。色々な土地の工房を回って、何か新しい技術なりを掴んでみようと考えているんです。いや、親方の指導が悪いとかではなくてですね……とにかく、見識を広げようと……」
嘘を吐いた。急に怖くなって、それに抗えなかったのだ。どうにか、傷つかずに関係を終わらせたいと思った。
しかし、そんな浅はかな言葉に何の意味も無いとすぐに思い知らされた。
「……夢細工師を、辞めるつもりなのか?」
何故、見透かされたのかわからない。でも、親方はそう言った。
「……はい。俺は違う道に行こうと思います。細工師が嫌になったとかじゃないんです。ただ、自分がするべき事を見つけたから、そう決めました」
「そうか……」
しばらく沈黙が続く。次にどんな言葉が飛んで来るのか予想もできず、鳩尾のあたりが苦しくなってくる。
「……お前が決めたのなら、それなりの理由と決意があるんだろう。そういうヤツだ。ウチに弟子入りに来た時に、それは理解した。だから、止めはしない。いや、むしろ俺は背を押してやるべきなんだろうな」
「いえ……そんな……。俺は、これまでよくして貰ったのに、なのに……」
心が苦しい。今まさに、一番大事な人を裏切っているのが、何より辛い。
「デリス、お前には内緒にしていたがな、実は俺も昔、一度この仕事を放り投げた事があるんだよ」
「え」
「意外か? 実は俺の先代が結構すごい人だったんだよ。でも、ある日突然に亡くなってしまってな。ロクに引き継ぎも無いまま、カイエロンの奴もさっさと出て行っちまって、なし崩し的に後継者になっちまった時だ。ひどいもんだったぜ。客はどんどん減るし、どうしていいのかわからない事ばっかりで。幸い、蓄えだけはしておいてくれたから、時間があったが、あの頃はとにかく辛かった」
「初めて聞きました。そんな事……」
「情けない姿を見せたくなかったからな。ある日、どうしようもなくなって、店を閉めた。そんで、何もせずにただぼんやりと過ごし続けた。心が萎れて、何もする気が起きなくて、ただ寝て食ってを繰り返してるだけの虚しい日々を過ごしてたもんさ。いつしか、店なんて処分してしまって、どこかへ旅に出ようなんて考えたりもした」
「まるで想像できません……」
「かもな。でも、そんな時に妙な子供がウチを訪ねて来た。先代の評判がまだあったから、ウチの店に頼ってきたソイツは黒い石炭みたいな真核を握りしめてやって来た」
「それってまさか」
「どうかしてたんだろうな。ソイツのすがるような目を見て、気づいたら埃の被った道具を手に持ってやがった。そして、どうにかこうにか形になったような作品を見たソイツが泣くほど喜ぶのを見て、俺は……自分の心に何かが戻って来るのを感じたんだ」
「…………」
「有り難い出会いだった。神様が授けてくれた、チャンスだと思った。だから、それから必死に修行をやり直したよ」
「親方、俺は…………」
「人にはそれぞれの運命ってものがある。それを期待するべきなのかはわからないが、いつか何かがお前を迎えにくる事だってあるかもしれない。だから、お前が見つけた道と、いつか諦めた道が同じように交差する事だってあるはずなんだ。だから、スッパリと切り捨てる必要なんて無いんじゃないのか」
「いいんでしょうか? そんな贅沢な事が、許されるんでしょうか?」
「許されるさ。お前がそれを望むならな。お前がここを離れて、何をしていたとしても、いつまでも俺の弟子でいてくれていいんだ」
「それが、許されるなら……」
いつからか、顔を覆っていた布が涙で濡れていた。心にあった固い何かが氷解したように綺麗に無くなっているのを感じた。
「行け、デリス。俺はお前という人間と出会えて嬉しかった。師弟として過ごせた事も、何より幸福だった。いつまでも、それは変わらない。だから、胸を張って行け。胸を張って、俺の弟子だと、コーラルスパニングのデリスだと名乗れ」
「はい……ありがとうございます……」
「ああ。達者でな。体には気を付けろよ」
「本当に、お世話になりました」
それ以上、何も言う事はできなかった。だから、すぐに病室を出て、足早に医院を去る事にした。そして、しばらく早足で駆けながら、薄暗い路地裏へ隠れるように入りこむと、そこで息を整えた。
「ノーラ。何故だろうか、もっと後ろ暗い気持ちで行かなければならないはずなのに。こんなに嬉しい気持ちで行ってしまっていいんだろうか。こんな事があっていいんだろうか」
「ええ、親方さんはそれを望んでいたわ。だから、それでいいのだと思う」
「捨てなくていいのか。もう、人間ですら無くなったのに。元の体も、声も失ったのに」
「それでも、いいの。アナタが生きているのだもの」
「俺は……取りに戻らなければならない。自分の仕事道具を。今のままでは使う事なんてできないけれど、必ずまたそれで何かを作り上げたい」
「ええ、勿論。きっとそれは叶うわ。アナタは、夢細工師だもの」
もう、心に憂いや曇りは無い。
俺は路地裏を出ると、光の当たる表通りへと出た。これからも、同じ道を歩いて行く。途切れたわけではないと分かったから。
この町で失われたものなど、何も無かったのだから。
夜明けの凶蝶 めめんと @memento
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。夜明けの凶蝶の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。