第34話 微睡みの槌 34
*
日課のように、毎朝繰り返す。自身の夢を母塊に変える作業。
冷たい水に手を浸して、目を閉じながら昨晩の夢を思い出して形を探る。いつしか手の中にゴツゴツとした感触が生まれるのを感じ、静かに目を開ける。
そこには、いつもの見慣れた、黒々とした不恰好な石があった。そう、何度も何度も、恨めしく思うほどに見た、俺の母塊。
「……おはよう、デリス」
後ろからの控えめな声に苦笑しながら、そちらを向く。水槽の縁にフラメルがへばりつくように掴まっていた。
「今日もダメだったよ。肉体がそっくり変わっても、これだけは変わらないね」
「そうか……」
「いつまでも暗い顔をするなよ。一時は町ごと全員の命が危険に晒されていたんだぜ。それに、まだ俺に目に見えて変わっていないものというのがあるのは、悪くない。おかしな話だよな。あんなに憎々しく感じていたのに、今ではこれが拠り所みたいになってる。人間は贅沢だ」
「君自身の事というよりは、私の事だよ。よくない事になるのは分かっていたのに、それを止めるどころか、促してしまった。後悔してもしきれない。偉そうにしておいて、結局は喋るカエル以上の何もできやしなかった。いや、それすら……」
「どっちにしたってよくない事になったさ。それよりも、これからの話をしよう。まだ、お互い生きているんだからな」
あの攻略から三日経ち、色々考えた結果、この町を出る事に決めた。
もしも、親方が復活して意識を取り戻したなら、俺の姿を見て、やはり悲しむだろうと思ったからだ。元々、それほど将来を期待されるような出来のいい弟子ではなかった。代替するのに苦は無いだろう。……そう、思いたい。
俺はなるべく体を隠すよう、ゆったりとした異国の衣装を着こみ、顔も下半分を布で隠した。見た目は、怪しげな占い師といった感じだ。
ノーラはあの金の真核が無くなってから、俺の体そのものを住処にしている。離れている事もできるが、そうすると俺の力をたくさん使ってしまうらしい。
荷物のまとめはそれほど時間がかからなかった。服はほとんどサイズが合わなくなってしまっていたし、私物なんてほとんど無い。あるとすれば、自分が使っていた仕事道具ぐらいだろうが、この手では使うには難しいし、必要とも思えなかったので置いて行く事にした。
裏口から出る間際、一度しっかりと家の中を見渡した。離れがたい思いはあったが、それも既に決着はつけた。
水槽の上に、フラメルが乗っていた。
「それじゃあ、もう行くよ」
「……本当にいいのかい? 君はあんなにも真摯に夢細工師というものに向き合っていた。それを、こんな形で失うなんて納得できないよ。ゼードルだってきっと……」
「ああ、わかってる。親方は俺を庇ってくれる。そして、色んな事を手助けしてくれると思う。面倒見のいい人だからな。でも、親方は立派な職人なんだ。そんな事にかかずらって欲しくない」
「しかし……」
「いいんだ、フラメル。俺はもう諦めるしかないけれど、新しい目的を見つけたから。コーラルスパニングには過去にもたくさんのすごい職人がいたんだよ。親方も、きっといつかそんな人たちに並ぶと思う。この先、世の中にたくさんの失い難い才能が生まれて、どこかで生活をしながら、多くの人々の為に腕を振るうんだと思う。俺はね、そんな小さな世界の一つ一つを守る存在になりたい」
「それは汚れ仕事を引き受けるという事じゃないのかい?」
「そうかもしれない。でも、誰かがやらなきゃいけないんだ。それは、踏み込んでしまった俺がやるべきだよ」
「……こんな事を言うべきではないのかもしれないけど、今の君は……この工房の先代みたいな思想をしているよ。その先代すら、ゼードルとカイエロンの才能を見込んで、自分は破滅根を潰す事に注力していた。ここの職人たちは皆、あまりにも優しすぎる。そのせいで、何かを託して迷わず死地へ赴く。ああ、そうだ。あるいは、君こそがコーラルスパニングの正当な後継者なのかもしれない」
「……なら、これからは違うよ。親方みたいに細工師の仕事に集中する人間が正統になるんだ。物騒な戦いはもうやらなくていい。いつでも、俺が駆けつけるから」
「君のこれからに、たくさんの幸福がある事と、不幸が少ない事を祈るよ、我が友よ」
「ありがとう。じゃあ、行って来る」
荷物を担ぎ直し、裏口から店を出た。少し強い日差しから逃げるように、路地裏へと踏み込んだ時、そこで壁によりかかっている一人の男を見つけた。
「よう」
「カイエロンさん。まさか、見送りですか?」
「ふん、俺ァただ、気に食わねえ事をしようって奴に文句をつけに来ただけだ。お前、アイツに遠慮して出て行くんだって? あんだけ世話になっておいて、やっぱり無理なので辞めますってか。かけた労力も全部無駄にするって事かよ」
「まともに仕事ができそうなら、俺も少し悩んだんですけどね」
俺は仕方なく、いくらか服をはだけ、腕を見せた。そこには、ギョロギョロとした目玉がつき、本数の少なくなった指と、形の歪んだ手がある。
それを見た彼は、少しの間だけ息を飲むようなそぶりを見せてから、目を逸らした。
「……それ、全身がそうか?」
「ええ」
「ふん、なるほど立派な化け物っぷりだな。……お前のせいで、思い出したくもねぇ事を思い出しちまったぜ。……師匠の、あのわけわからん衣装と、男のくせに化粧なんぞしやがる所。お前みたいに、体にある何かを隠そうとしてたぜ」
「俺のは化粧では隠せそうにないもんで」
「……確かに、店先に出れそうにはねぇだろうがな。だが、工房の隅でひっそりとしてる分には、問題無いんじゃねぇのかよ」
信じられないような言葉を聞いた。まさか、あのカイエロンからこんな妙ちきりんな台詞が出るなんて。失礼かもしれないが、何だか笑えてきてしまう。
いや、そうか。なるほど、確かにコーラルスパニングの職人は皆、優しいんだったか。
「……ありがとうございます。でも、やっぱりやめておきますよ。この身体になってから、色んな事を見つめ直せるようになったんです。カイエロンさんのやり方は、それほど間違ってないって思うようになりました。これから先、きっと伝統と急進はハッキリと分かれていくけれど、それはどちらも間違ってはいないんです。それでも、きっと効率的なものこそが次々に採用されるようになっていくんでしょう。それを冒涜と言う人も多いかもしれない。でも、もしも人間が歩き続ける生き物なら、それは進歩と言うべきなんじゃないですかね」
「ハン、何を偉そうに言うかと思えば。そんなちっちぇえ気づきなんざ、とっくに俺は承知してんだよ」
「でも、俺はそのどちらも選ばないつもりです。その代わりに、両方を守る道を行こうと思います」
カイエロンは苦々しそうな顔をして、頭をガシガシとかくと、
「お前なんぞに守って貰う必要はねぇよ」
と、吐き捨てるように言うと、そっぽを向いてしまった。
「そうだ、カイエロンさん。これ、返しておきます」
俺は服の下に腕を突っ込むと、釣っていた選定の剣を取り出し、差しだした。
「……やっぱりお前の所にあったか。突然、姿を消しやがったからな」
「あくまで、俺の考えなんですがね、コイツを抜こうと思うのは無駄だと思いますよ。多分、これって町を守る為の一つの装置でしかないんです。もしも、これを使わなければならないような状況って、もうほとんど手遅れに近いんですよ。それでも、出来る限りの事をする為に決定権まで与えてスムーズに戦える状況を作ろうって代物なんですよ」
「まあ、そんなこったろうと思ってたぜ。そもそも、剣だからな。用途なんてそっち方面しかねぇわな。しかし……クソ真面目に返却しようってのが腹立たしいぜ。黙って持って行っちまえばいいのによ」
「俺の事は御心配なく。それよりも、町の為に残しておいて下さい」
カイエロンはひったくるように選定の剣を受け取ると、フンと鼻息を吐いた。
「それで、どういう筋書きにするつもりなんだよ? 曲がりなりにも破滅根をやったんだ。誰がどう解決したのか、収まりがつくようにしていけよ」
「そうだな、母塊は選定の剣が盗んだ事にしましょう。そして、剣が全てを解決してしまったという事にして、その能力はほとんど失われた事にしましょうか」
「ふん、まあ妥当な所だな」
「これで、カイエロンがやろうとした事も含めて、まあ内緒になるってわけですが。それに加えて、カイエロンさん、俺に借りがありますよね? 瀕死の所を助けてあげたわけですし、あと結構えぐい嫌がらせもされた気がするなぁ」
「はぁ?」
「出て行くんですから、全部清算していきましょう」
「おい、ちょっと待て。何でそんな……」
「じゃあ全部、真実を話してみますか? そんな事をすれば、カイエロンさんは一生、俺に尻を拭かれた人間って事になっちゃいますけど?」
「ん……ぐぐ……何が望みだ……」
「親方がいない間、コーラルスパニングの掃除をお願いします」
「ふっざ……ッ!! ぐっ……ああ、いいだろうよ。二言は無ぇ……。だが、覚えてろよ。俺は恨みだけは絶対に忘れないからな」
「よろしくお願いします。まあ、忘れないでいてくれるのは有り難いですね」
「……変な所だけたくましくなりやがって」
可愛げの無ぇ奴だ、と呟いて、カイエロンは背を向けて行ってしまった。これ以上、話す事は無いという事だろう。俺もそう思う。体に気を付けてとか、そんな感傷的な別れを言い合う間柄でもないのだ。そもそも、顔を見せた事さえ、驚くべき事なのだから。
何かを教わった事は無い。嫌いな人間だった。でも、それは俺の立ち位置がしっかりとしていて、それを親方や先人が守って来たコーラルスパニングがあったからだろう。
あの人とこんな気持ちで話ができるのは、自分が足を踏み外したからだ。……今まで
の事を全部、台無しにしたからだ……。
まあ、しかし……それでもスッキリした。彼が掃除夫として働く所を見られないのは残念だが、そこはまあ……情けというものだ
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