第33話 微睡みの槌 33
真核を手にした時、ふと思い出した。そういえば、ここへはノーラに連れて来て貰ったのだ。どこから出ればいいのだろうか、と。
そう考えた時、後ろから自分を呼ぶ声が聞こえた。
振り向くと、宙に浮くように彼女が立っていた。
「ノーラ、上手くいって良かった。君を引き留める事ができたんだな。良かった、本当に良かった」
「デリス」
「終わったよ。ようやく、全部終わったんだ。皆が助かった」
「デリス、ごめんなさい。何度、言っても足りないわ。本当にごめんなさい」
何故、彼女が泣いているのかわからなかった。一体、何について謝っているのかもわからなかった。
ノーラはゆっくりとこちらへ近づくと、俺に抱き着いた。すると、周囲の景色がぐにゃりと歪み、束の間の暗転の後に、景色が一新した。
懐かしい匂いがする。それは、微かな埃っぽさを含んだ金属と油の香り。
見れば、そこはコーラルスパニングの工房だった。どうやら、彼女の力で現実へと帰還する事ができたらしい。
だがそこで、妙な違和感を覚えた。――――視線が、高い。
胸騒ぎを整理するより先に、ノーラが手を引いて近くに置いてあった姿見の前へとやって来た。
そこには映っているべきものがなく、そうでないものがいた。
姿は人間と言ってもいいかもしれない。しかし、体中に目玉が埋まり、あらゆる所がボコボコと歪んでいる。肌も青ざめたように不健康な白さをし、髪と目は緑がかった銀色をしていた。指もやけにひょろりと長く、しかも四本しかない上、薬指の関節は一つ足りないのに、中指は余分に一つ多い。そして、何よりも驚いたのが、その顔が……自分のものでは無くなっていた。
「これは……」
はたと気づく。声もまるで別人だった。
「俺は……そうか……これが、人間の形をした真核になるという事か」
「普通なら、腕だけを異形化させるの。でも、デリスは全身を何度も作り直すほどに壊したから、跡形も無くなってしまった」
「…………ノーラは、俺の為に泣いてくれていたのか」
「ごめんなさい。私達家族のせいで、アナタをこんな姿にしてしまった……」
「謝らないでくれ。俺は自分で選択したのだから。最も良い方向を目指し、そして至った。代償は必要だったんだ。でも、こうなってもまだ……俺は良かったと思える所があるんだ」
もしも屈していたならば、もしも諦めていたならば、できなかった事がある。
「もう一度君に会って、ありがとうと言いたかった。俺を守ろうとしてくれて、ありがとう、と」
自分の顔にある二つの目からだけ、涙が溢れた。それを見て、ノーラは再び泣き出しながら、俺を抱きしめてくれた。
「見に行こう、いつも通りの町を。何も変わっていない朝の景色を」
俺は彼女の肩を抱きながら店の裏口から路地裏へと出た。
そこには、何年も毎日見た、忙しない朝の光景が広がっていた。仕事へ向かう人は早足で歩き、店を構えている所では見知った弟子仲間が玄関を掃除していた。近くの民家では窓際に布団を干しながらぐずつく子供をせっつく声が聞こえる。
何も変わりはしない。本当に、全てが見慣れたままにそこにある。
「……ああ、そうさ。こうでなければいけないんだ。悪い夢は朝には消えるのさ……」
自分の目からだけ見える不変の平和を、今は噛みしめたいと思った。
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