第26話 微睡みの槌 26

 *


 この屋敷は小高い丘にあり、そこからは町の景色がよく見えた。

「向こうも気づいた頃だわ」

 何の事かと声を出す前に、それは来た。奇妙な圧迫感を感じ、上空を見ると、空を覆わんばかりの巨大な半透明の赤い球体が降りて来ていたのだ。何が起こっているのか、事情が呑み込めずにいるまま、その球体は屋敷の屋根を通過し、自分までもあっさりと飲みこんでしまった。その時、先ほどノーラが夢と現実を行き来させた時のような不快さを感じた。球体はそのままズブズブと地面をも貫通し、半分ほどが埋まった所でピタリと止まってしまった。

「これって……」

「これが破滅根の最終段階。現実世界と混ざる一歩前。見て、この光景に見覚えがあるでしょう」

 言われてみれば、夕焼けの中にいるような真っ赤な世界は、かつて潜った件の夢そのものだった。しかし、建物のほとんどが壊れる事なく残っているという違いはあるが。

 いや、一つだけ違う部分があった。

 空がぞわぞわと蠢いている。見れば、それは何か小さな黒いモノの集合体だとわかった。

「あれってまさか、黒蝶か……? 何ておびただしい数だ。こんなの見た事ないぞ」

「町の人間全員分の命の危険って事ね。さあ、これが正真正銘、最後の戦いになるわ」

 ノーラは真剣な眼差しで俺を見つめながら、こちらへ手を差しだしてきた。

 正直、あれほど苦戦した相手に悪夢も使わずに勝てるか不安だ。完全になったと言っても、向こうだって同じなわけで、上り幅が同じなら負ける可能性の方が高い。

 ……とはいえ、

「逃げるって選択肢は無いな。行こう、ノーラ」

 俺は彼女の手を握った。

「ええ、勿論」

 次の瞬間、少しの酩酊感を感じたと思った時にはすでに移動は完了していた。そこは、かつて親方とやって来た、町の入り口付近。そして、再戦を果たした場所でもあった。

 周囲の建物はどれも損壊しておらず、綺麗なままだ。そして、悪夢を使って浮遊夢魔を変化させてやったはずの木も無い。という事はつまり、そういう事なのだろう。

 と、その時、頬のあたりをふわりと何かが優しく触れた。驚いて反射的に体をねじって正体を見れば、それは一匹の黒い蝶だった。

 そうか、コイツはもしかして、最初に潜った時に……。という事は、

「――――いるんだな」

 素早く周囲を見渡すと、近くの民家の屋上にアイツはいた。

 赤い光を鈍く反射する銀色の甲冑。もう三度目なのだから、見間違うはずもない。

こちらもかなり嫌気がさしているが、向こうもそうであるらしい。荒々しく足元の植木鉢を蹴り潰すと、勢いよく飛びあがり、十メートルほど離れた位置に着地した。

「ノーラ、大丈夫か」

「問題ないわ」

 彼女はそう言うと、すぐに真核の中へと入って行った。と、同時に体の周囲に火の玉が浮かびあがった。

 そこで、今までとは違う感覚が自分の中にあるのを発見した。内臓とは違う、具体的に指す事ができない体の奥がまるでロウソクのようにじわじわと溶けているような感覚である。なるほど、これが自分を真核にするという感覚なのかもしれない。

 などと、考えている内に、敵はもう突進する構えをとっていた。今回はサシでの真っ向勝負という事だろうか? いや、そんな事はあるはずがない。何しろ、ここは向こうのホームなのだから。

 相手が地面を蹴り、走り出したと同時に、周囲の窓に小道、ありとあらゆる場所から白い浮遊夢魔たちが飛び出し、こちらへと殺到してきた。

 判断は一瞬で済ますしかない。それを可能にするには、数秒前に行動を決定しておくのが最も手軽に違いない。俺は体を前方に投げ出しながら、背中で火球を爆ぜさせた。

 衝突する直前、自分の前方に火球を全て集め、盾を作る。火球の一つに剣先が触れた瞬間、急激に膨張した炎の槍が甲冑を吹き飛ばした。

「心なしか、威力が上がっているような……」

「気のせいじゃないわよ」

 背後からノーラの声がしたかと思った時、自分の意思で動かしていたはずの火球達がひとりでに動きだした。そして、自分の肩に移動したかと思うと、その全てから炎でできた人の腕が飛び出した。そして、その腕は巨大な炎の槍を生み出し、こちらに向かっていた浮遊夢魔たちを勝手に攻撃し始めた。

「これって……もしかして、ノーラがやってるのか?」

「そういう事。本当なら私も、アナタと戦えるはずだった」

 ノーラが操っているという腕は人間技とは思えないほどの早さで浮遊夢魔たちを蹴散らし、刺し潰して行っていた。

「後ろはどうにかする、だからデリスは前に集中していて。私の予感が正しければ、そろそろ本番が来るよ」

 ノーラの性能に少し楽観的になっていた俺に、彼女の言葉はまるで、冷水を頭から浴びせるようなものだった。

 吹き飛ばしたはずの甲冑の方を注視すると、砂埃の中からゆらゆらと歩いて来ているのが見えた。しかも、何か武器らしきものを引きずってきている。

 砂埃を抜け、その姿を見た時、全身に鳥肌が立った。アイツがその手に持っていたのは、親方の相棒、リトル・ガルムだったのだ。

「なるほど。これは、確かにかなりマズい……」

 と、その時、甲冑は突然、リトル・ガルムを逆手に持つと、それを自分の喉元に押し付けた。何故、そんな事をするのかと疑問に思う間も無かった。胸当ての上部がぐにゃりと歪んだかと思うと、その下から鋭い牙の並んだ巨大な口が現れ、一息に飲みこんでしまったのだ。

「あれは、一体……」

「よく見ておいて、デリス。アレが本来、騎士が相手をしなければならないモノの姿よ」

 武器を飲みこんだ甲冑はブルブルと体を震わせると、隠れていた口がずるり這い出してきた。それは、単純に中身が出たという話では無い。明らかに、甲冑の体積を超えるほどの巨大な何かが出て来ていたのだ。

 ソイツはみるみる内に巨大になっていき、視界を埋めていく。

 あまりの光景に呆気にとられていたが、爆発的に膨張して迫って来ている事に気づき、火球の推進力を使って一気にそこから離脱していく。

 離れた建物の屋根に飛び乗り、あらためてソイツの姿を確認した時、すでに小さい城ほどはあろうかという大きさにまでなっていた。

真っ白でデコボコとした甲羅。そして、そこから伸びる真っ黒な四本の脚。焼けた鉄のような色をした目をギョロつかせながら、ソイツは首を長く伸ばした。

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