第2話 微睡みの槌 2
それほど量も無いので、朝食はすぐに済んだ。二人分の食器を洗い場に持って行くと、すぐに洗ってしまう。それが済めば、作業着に着替えて今度は店頭へ移動し、開店前の掃除だ。
棚の上から順番に雑巾で拭いて行き、机、床と綺麗にしていく。これも毎日やっているので慣れたものだ。なるべく手早く終わらせて、外へ出る。
店の入り口はとくに念入りに掃除しなければならない。とくに昔気質な人はそういう所を厳しく見るらしい。正直に言えば、店の格がどうのという話は俺にはピンと来ないが、せっかくの親方の腕前をそんな事で低く見られるのは嫌なので、手抜きはしない。
入口周りを雑巾で丁寧に磨き上げ、地面の掃除に移ろうと箒を手に取った時、路地裏からぬっと大柄な人影が出て来るのが目の端に留まった。
思わず、「うわ」と声が出そうになるのを堪えながら、やって来たその人物に挨拶した。
「……おはようございます、カイエロンさん」
「よぉ、朝っぱらからご苦労だな、デリス坊や」
もしも、一日の中で一番起こって欲しくない出来事は何かと聞かれれば、俺は間違いなく彼と出会う事、と答えるだろう。
不健康な狸のようなその顔を見るだけで気持ちが落ち込むし、面倒くさいから相手にもしたくないのだが、そうもいかない事情がある。彼は俺の親方の兄弟弟子なのだ。つまり、彼もまた以前はウチの店で修業していたわけだが、そうなると一応は縁のある間柄であるわけなので、邪険にもできないのである。
過去にどういういきさつがあったのかは知らないが、彼は同門である親方の事を超がつくほど毛嫌いしていて、それでよくちょっかいをかけてくる。しかし、正面からやりあうという事はせず、立場上あまり強く出られない俺をターゲットにいびって来る。そういう姑息で意地の悪い所が心底嫌いだった。
「なあ、坊や。お前もこんな古くせぇ修行なんてやりたかねぇだろう? 今時、ここまで弟子にさせるなんておかしいぜ。掃除なんてそこらのガキに駄賃をくれてやれば喜んでやるだろう? お前だってこんな事をしてる時間があるなら、技の一つも教えろって思うんじゃねぇのか?」
「……俺は親方のやり方を信じてますんで」
「おいおい、それじゃあいつまで経っても一人前になんてなれやしねぇんじゃねぇのか? ええ? ああ、そうそう、知ってるか? 向こうの店のな、お前よりも遅くに弟子入りしたガキ。もう一人だけで母塊の攻略から細工まで任せて貰ってるんだと! お前んとこはちょっと遅すぎるんじゃねぇかなぁー? これじゃあよ、先に一人前の掃除夫になっちまうんじゃねぇか?」
こちらの神経を逆なでするポイントを的確について来る。確かに、俺はまだ一人で仕事を任せて貰えていないけれど、それは店によって方針が違うからだ。そりゃあ、悔しいし焦りもあるけど、そんな事を言ったってしょうがないだろう。
「一人で行かせて貰えてないのは、俺がまだ半人前だからですよ」
「ワハハッ! それじゃあしょうがねぇなぁ。でも、それはお前の姿勢の問題なんじゃねぇの? もしかして、掃除も適当にここまででいいやって勝手にラインを引いちまってんじゃねぇか? 言われた事だけしてるんじゃねーのか? それじゃあいつまで経っても気持ちが見えねぇよ。ゼードルのヤツも、きっとそういう所に失望してんじゃねぇかなぁ。んー?」
「それは……」
反論しようとしたが、その前に自分の中でブレーキがかかった。確かに、もしも理想的な弟子なんてものを考えたとしたら、とにかくガツガツ熱血的に修行をしている姿が浮かぶ。そして、それが今の自分とピッタリ重ならない事はわかっている。そりゃあ、教えて欲しいと言う事もあるが、それよりも親方自身の仕事を見るのが好きだから、そこまで強く主張しないのだ。
……しかし、親方も、やはりそういうのを望んでるんだろうか。
「……カイエロンさんの助言は有り難く頂いておきますよ。でも、俺には俺の考えがありますから。どうぞお構いなく」
「いい子ちゃんぶりやがって。そういう所はお前の師匠とそっくりだよ。似ちまうのかねぇ、こういうのはよ」
そう言うと、彼はヤレヤレとばかりに首を振ると、持っていた袋から何かを取り出すと、迷う事なくそれにかぶりついた。よく見てみると、それは素揚げされた鶏肉のようだった。
「ちょっと、カイエロンさん……。それはいくらなんでもダメでしょう」
「へへへ、俺達細工師の決まりごとってか? 質素であれーってな。あんなもん、どうにでもできんだよ。これは朝飯じゃなくてオヤツだからな。朝飯はさっき食ったし、その後で何食ったって文句はねぇはずだろうよ?」
屁理屈だ……。でも、戒めなんて言っても所詮はこれぐらいのものである。破ろうと思えば破れる。誰にも罰される事は無い。当然、やり過ぎればそうもいかないだろうが、彼がその辺りのさじ加減を間違える事は無いだろう。
俺は彼の店には近寄った事が無いので噂でしか知らないが、カイエロンは店自体も伝統的な細工職人の在り方を否定するような作りにしているらしい。
彼の店は客層を一部の成金に搾り、とにかくゴテゴテとした派手で悪趣味な細工を施す。そして、店内も紫のつやつやとした布をふんだんに使い、とにかく扱っている物が高級に見えるよう、演出して半端モノの値段を釣り上げる。彼の目論見は概ね成功しているらしく、一部でファンを獲得し、固定客が定期的に金を落してくれるようになったそうな。
そのやり方には、町の店をまとめる職人ギルドも顔をしかめたようだったが、カイエロンは罰せられるような事は何一つしていない上、むしろ彼のような革新さを認めるような人間も少なからずいる為、現在は暗黙の元で放置されているのだった。
ちなみに、職人ギルドとは同業の親方衆が集まって問題解決の為の話し合いを行ったり、各店舗が正常に営業できるように手助けをしたりする集まりだ。町ではほぼ全ての同業店がこれに参加している。
「おお、そうだ坊や。今日はいいモン見せてやろうと思ってなぁ」
別に見たくは無い。
「そぉら、コイツだ」
しぶしぶながらそちらに目をやると、彼は背負っていた袋から一振りの剣を取り出して見せた。
「コレって……」
よく手入れされてはいるが、年代を感じさせる佇まい。鞘には見た事の無い菱形の紋章が入っている。どこかで見た覚えがある。あれはいつだったか、何かのおつかいで職人ギルドの本部に行った時に……。
「ああっ! 『選定の剣』!」
選定の剣。町のギルドで代々受け継がれ、もしも使いこなす事ができたなら、本来なら親方衆の投票で決まるギルド長の役職を半ば強制的に奪い取る事ができるとされている代物である。当然、生半可な人間には貸し出される事などあり得ない。
「何で持ってるんですか?」
「ははは、ようやくギルドの中でも俺を評価する奴が増えて来たって事だ。頭の固い爺さん連中に何を言っても無駄だからな。これ一つで誰も逆らえなくなるんだから、ボロいもんだ。そんなわけで、悪いがお前が磨いてるこの古臭い店も、俺がギルド長になった暁には、流行に取り残されて潰れる事になっちまうだろうぜ。へへへ、てめぇの大好きな親方も苦労するだろうなぁ。おっと、そういやお前らは貧乏なのを誇りに思ってるんだっけか? なら問題ねぇか! ははは!」
「…………ッ!」
流石に、今のはかなりカチンと来た。自分の事ならば聞き流しもするが、この店と親方の事を言うのならばそうはいかない。
後先の事は考えずに、今すぐコイツの顔面に拳をぶち込んでやろうかと逡巡した矢先、上から野太い声が降って来た。
「その辺にしといたらどうだ、カイエロン」
「よう、ゼードルくん。おはよう」
「ああ、おはよう。お前は昔から調子に乗り易い奴だが、年をとってもまるで治っちゃいねぇな。その剣を預けたのが評価の表れ? んなわけあるか。ハンパ者のお前の根性を叩き直す口実だよ。そいつを使いこなせなかった時、お前は二度と大口叩けなくなる上に、万が一に壊しでもしたら責任問題を追及されるんだぜ。それが分かってるから爺さん連中もお前にそれを渡したんだよ」
「関係ねぇな。こんなチャンスを掴まずに放っておくほうがどうかしてるぜ。それに俺なら使いこなせるに決まってらぁ!」
「ワハハ! どうだかな? お前みたいな仕事を軽く見てるような奴を、町の細工師たちの歴史のど真ん中にいたようなソイツが認めるかね。店を畳んで、また初心から勉強する為に修行し直すハメになるんじゃないのか。まあ、そうなっても頼むからウチに弟子入りだけはしてくれるなよ」
「言ってくれるじゃねぇか。なら、俺様がコイツを使いこなしてこの店が潰れたら、ウチの店の掃除夫として働けよな」
「ああ、楽しみにしてるよ」
カイエロンは興が削がれたと感じたのか、じゃあなと呟いてどこかへ去って行った。
「親方、すいません」
「謝るなよ。元はと言えば俺が蒔いた種だからな。むしろ、お前には苦労かけてすまないと思ってる」
「そんな! 俺はここで修業させて貰って感謝してますから」
「そうか、ありがとよ。さあ、早いとこ準備を終わらせて開店するぞ」
「はい!」
俺はいくらか晴れた気持ちを胸に、素早く掃除を済ませて店に入った。そして掃除用具を片づけると、再び外へ出て掛け看板を裏返した。
『アトリエ コーラル・スパニング』開店。
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