宮越くん

「宮越くん」


 抑制した声で呼びかける。彼の名前を口にするのも随分久しぶりだと、呼びかけたあとで気がついた。全知全能の唯一神と白倉若葉を同一の存在と見なすなら、の話だけど。

 死体が散乱し、水槽の中で脳味噌が生存する教室の中、唯一無傷の宮越くんは、怯えの色に染まった眼差しをぼくに向けた。ひぃ、と声を漏らしたり、肩を跳ねさせたりしなかったのは、恐怖に対して免疫を持っているから、ではなくて、ぼくが彼に魔法をかけたから。

 ぼくと彼との中間地点の床に、巨大な白い茸を生やす。楕円形の扁平な笠の直径は成人男性の肩幅よりも一回り広く、軸の長さは椅子の脚と同程度。


「どうぞ、座って」


 一拍の間があり、宮越くんは動いた。ぼくから逃げるのではなく、近づいてくる。顔が強張っているせいで、悲壮な決意のもとに自らの命運を賭した決断をしたような、そんなふうに見えた。

 茸の前まで来た。一貫してぼくに注がれていた眼差しが、真っ白な笠に落ちる。躊躇いに起因する二秒ほどの間があり、腰掛ける。いかにも弾力がありそうに歪んだ茸を見て、いつの日か白倉若子が献立の一品として出した、炒め物に使われたエリンギの歯応えが彷彿と甦った。

 ぼくは宮越くんに真っ直ぐに歩み寄り、目の前で膝をつく。

 神が、人間の前に跪いた。

 展開次第では際限なく膨張しそうな、静謐で崇高な高揚感を自覚しながら、ちょうど顔の高さにある彼の股間を直視する。一瞬微動したのは、見つめられているという緊張感がもたらす半ば不可抗力な身体的反応に過ぎないのだけど、服の内側に潜むものが眼差しに過敏に反応したように見えて、多義的な微笑が口角に滲んだ。

 顔を上げる。双方の視線が引き合った結果だというように目が合い、顔に表れている怯えの色が濃度を増した。それでいて背けないのは、ぼくが与えた力によるところが大きいのだけど、百パーセントそれが理由ではなくて、宮越くんの芯の強さも一因。きっとそうだ。


「宮越くん」


 右手を左膝に置く。物理的な付加は極力かけないようにしたのだけど、触れた部分を起点にして、宮越くんの体の強張りが増した。


「ぼくがどうしてこんなことをしたのか、分かる?」


 男の子らしく、アダムの林檎が丸く浮かんだ喉が蠢いた。握り締めた両の拳を、太ももの股間に近い位置に置くという姿勢。さっき見つめられた箇所を守ろうという欲求が無意識に働いた結果だろう。


 返事はない。

 それでいて「分からない」と明言しない事実が、彼の本心を如実に物語っていた。

 座って。

 その要求に従った時点で、言葉を発する余力がないはずはないではないか。


 閉ざされていた上下の唇の間に、不意に隙間が生じた。日々リップクリームを塗布することを怠っていない結果のような、適度に潤った薄い二枚の肉が、蛹を抜け出たばかりの羽虫の羽ばたきのように弱々しく震える。女性的で被虐的な動きだ。欲望が蠢いたが、先回りをして拒絶の意思を示すかのように、


「昔みたいに、白倉さんと仲良くなくなったから」


 酷く遠慮がちな物言いではあったけど、声は少しも震えていなかった。


「白倉さんとは、小学校のころはよく遊んだけど、中学校になってからは全然遊ばなくなった。せっかくクラスが同じになったのに、一緒に遊ぶどころか、休み時間に話すらしなくなって、それで白倉さんは……」


 力なんて使っていない。でも彼が口にした言葉は、ほぼ満点だった。加えて、人間から見れば存分に神らしく振る舞っているのに、白倉さんと呼んでくれたことが、一応人間として扱ってくれたことが、素直に嬉しくて、言葉が切れるや否や首を縦に振った。

 凄いね。正解だよ。本当に凄いね、宮越くんは。


 女子よりも男子の方が圧倒的に多かったぼくの遊び相手の中で、ぼくと最も遊ぶ機会が多かったグループに宮越くんは属していた。直接会話を交わした機会はそれほど多くなかったと思う。ぼくの中で、宮越泰人という男子の存在感は、はっきり言ってあまり大きくはなかった。

 だけど、ある日ふと、他の男子たちとはなにかが違うことに気がついた。

 宮越くんは、他の誰よりも確実に、ぼくの近くにいる。

 女子のぼくとも気が合う、一緒に遊ぶのに適した相手。そんな説明だけでは、ぼくと宮越くんの関係は充分に言い表せないと感じた。

 当時のぼくに、宮越くんと他の男子たちとの差異について、言葉で説明する能力はなかった。でも、気のせいではなくて、他の男子とは違うと確信していた。特別な存在。なにがどう特別なのかは言語化できないけど、そう認識していた。

 それなのに、


「遊ばなくなった、話さなくなった……」


 込み上げてきたものを心から完全に切り離して、ぼくは話を繋げる。そんな離れ業も、いとも容易くできる存在になってしまった。


「宮越くんと同じ立場の男子なら、クラスに他にも二・三人いたよね。これからあなたも、彼らと同じ目に遭うと思う?」

「……分からない。でも、生かしたっていうか、一対一になる機会を作ったっていうことは、ぼくになにか伝えたいことがある、ということだよね」


 ああ、宮越くん。あなたはなんて聡明なの。前代未聞の惨劇の直後、未曽有の恐怖の中、大した力は貸していないにもかかわらず、真実の一つに簡単に気がつくなんて。あなたは否定するだろうけど、それはとても凄いことなんだよ。神であるぼくが言うんだから、間違いない。

 そして、そんな宮越くんだからこそ、


「正確に言うと、尋ねたいこと、だけどね。ぼくが宮越くんになにを尋ねたいか、分かる?」

「分かるけど――分からないよ」

「分かっているんだったら、勿体ぶらないで、言ってよ」

「どうして遊ばなくなって、話もしなくなったかについて、でしょ。でも――やっぱり、分からないよ」

「分からないって、なにが?」

「俺だけが生き残った意味が。なんで俺が、他のみんなじゃなくて俺が――全然分からないよ」


 それを言わせるの? 神であるぼくの口から言わせちゃうの?

 ……そうだよね。宮越くんはただの人間。他者の心の中は、読もうと思っても読めない。


「そう。じゃあ、ぼくが宮越くんの疑問に答えたら、宮越くんはぼくの質問に答える。それでいい?」


 沈黙。数分の時間なんて一秒にも感じない、不滅の存在であるぼくにとっても、長く感じられる類の沈黙だ。

 根負けしたように目を逸らし、でもすぐに再び視線を合わせ、頷いた。

 茸の椅子が忽然と消失し、宮越くんは尻餅をつく。ぼくは彼を押し倒し、覆い被さる。両脚で右脚を挟んで逃げられなくして、両の掌で顔を挟んでぼくの顔を直視させる。宮越くんの瞳にぼくの顔が映っている。白髪の神ではなく、黒髪の白倉若葉が。


「ぼくが宮越くんを――ううん、泰人って呼ばせて。ぼくが泰人を生き残らせたのは」


 故意に間を置く。緊迫した無風がぼくたちの間を吹き抜け、ごくり、と宮越くんの喉が鳴る。


「泰人のことが好きだから」


 なにものにも覆われていない性器を、大股を開いて公衆の面前に晒すような核爆弾級の羞恥を殺して、口をめいっぱい開ける。のどちんこを見られているのだと思うと、太ももに押しつけている股間に水が滲んだ気がした。泰人は真似をするように自らも口を大きく開いてみせたけど、ぼくが無意識に力を使ったのか、自主的に開いたのか――もう、なにもかも分からない。

 淫靡に舌を突き出す。泰人は出さない。舌先から銀色の唾液が滴り、長々と尾を引きながら、脇目も振らずに彼の口内へと向かう。一定の長さに達した瞬間に途切れ、落下。口内のさらに奥へと吸い込まれ、唇が閉じ合わされ、音を立てて喉が蠢く。頬が紅色に染まり、泰人はぼくから目を逸らした。顔を自由に動かせたなら顔自体を背けていた、というふうな逸らし方だった。独立した生き物のように股間が隆起し、ぼくは太ももに熱を感じる。


 ……ああ。


 ずっと泰人とこうしていたい。くっつき合って、永遠に。時々、泰人はぼくの頭をよしよしってする。背中をさする。お尻に掌を這わせて稜線を確かめる。勿論、ぼくもお返しをするけど、泰人の方が先に始めるんじゃなきゃ駄目だ。絶対に、ではないけど、そうあってほしい。唾液を贈り返してくれたなら、それだけでぼくは性的絶頂に達してしまいそうだ。ぼくが贈ったものが既に胃の腑に消えてしまっていたとしても、泰人の口内で新たに生成した唾液なら、贈り返したと見なそう。確かめ合い、交換する。なんて幸福な時間なのだろう。それが永遠に続くというのだから、最上の幸福だ。

 最上の幸福。そんな既存の言葉では賄えないほどの、幸福。

 適当な呼称が存在しないなら、相応しい言葉を二人で一緒に考えよう。時間は永遠にあるのだから、きっとしっくり来る答えを見つけられるはずだ。曲がりなりにも、ぼくは全知全能の唯一神なのだから、絶対に大丈夫。

 だから、ねえ、


「泰人」


 目は合わせてくれないけど、顔は真っ赤だけど、お構いなしに言葉をかける。娼婦のような、処女のような、どっちつかずの声で。


「ぼくの質問に答える前に、気持ちを聞かせて。ぼくと一緒に――」


 ぼくの意思とは無関係に、ぼくの体の上下が逆さまになった。温もりが離れる。目で追うと、視界に映ったのは泰人の股間で、隆起してはいなかった。

 視線を上げると、彼はぼくから最も遠い場所――教室の窓際に佇み、唇を真一文字に結んでいた。顔から怯えの色は抜けていないけど、大いなる存在に毅然と立ち向かおうという、凛とした意志が感じられる。

 ぼくはふと、今現在のぼくの姿勢が、人間の胎児が子宮内にいるときのそれに酷似していることに気がつく。

 白倉若子の胎内にいたころも、ぼくは神だったのだろうか?

 その考えを頭の中から追い出すのと、現在のポーズから抜け出すのと。二つの目的を達成するべく、上体を起こした瞬間、


「嫌だ」


 ぼくが存在する世界が揺らいだ。ぼくは片手を床につく。


「白倉さんと一緒だなんて、死んでもごめんだ。だって、白倉さんは人を殺した。俺以外のクラスメイトを、担任の増本先生を、一人残らず」


 凄まじい圧力を体に感じる。――立ち上がれない。神の力を行使しても、ということではないみたいだけど、でも、これは……。


「その中には、俺の友達もいたんだぞ。小学校のときからずっと仲良くしている友達が。白倉さんが教室に入ってくるまで、普通に話をしていたし。昨夜観たテレビとか、今週末に遊ぶ約束とか、普段も交わしているような世間話を。それなのに、なんでこんな……」


 ぼくは? ねえ泰人、ぼくは? あなたが言った「小学校のときからずっと仲良くしている友達」の中に、ぼくは含まれているの?

 不意に目が合った。次の瞬間、信じられないことが起きた。


「含まれていないよ。白倉さんは怒るかもしれないけど、俺は君を友達だとは思っていない」


 通じた! テレパシーなんて使っていないのに、通じた!

 泰人が神だから? いや、そんなはずはない。唯一神は文字どおり唯一の存在。二柱同時に存在するなんて、有り得ない。

 泰人は神じゃない。

 ということは、つまり、即ち、要するに、


「小学生の途中までは楽しく遊べていたけど、途中から楽しめなくなった。白倉さんが悪いわけじゃないし、俺に非があるわけでもない。俺たちの心が変化しただけだ。いつから白倉さんを、遊び相手としてじゃなくて女の子として意識し始めて――心の底から楽しめなくなったのはそれからだった。白倉さんのことが好きになったとか、嫌いになったとかじゃなくて、白倉さんと一緒に過ごす時間を心の底から楽しめなくなった。勿論、世の中の男女の友人全てに当てはまる法則ではないんだろうけど、俺と白倉さんの場合は当てはまった。それだけの話だよ」


 要する、ぼくは、


「俺が白倉さんと話さなくなった、遊ばなくなった理由は、以上だよ」


 混乱して、言動が単純化しているんだ。特になんの訓練も積んでいない、ごく普通の人間にでも、次の発言や行動が先読みできるくらいに。

 言動が単純化するほど混乱するというのは、つまり、即ち、要するに、


『白倉さんのことが好きになったとか、嫌いになったとかじゃなくて』


 ああ、ああああああ……。


『泰人、酷いよ。あんなに仲良くしていたのに、急にそんな突き放すようなことを言ったりして』


 思いを口にしたところで、無意味だ。彼の想いは完結していて揺らぐ余地がないし、大いなる存在に毅然と立ち向かう意志を確立している。言葉では、人間が発明した道具なんかでは、彼の心は動かせない。

 この局面、普通なら絶望感に襲われるのが定石だけど、ぼくは人間ではなくて神だ。

 ぼくに残された唯一の方法、それは、

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