晩春ギャクサツショウ

 空気が震える微かな音が聞こえた。上方からだ。二十人のうちの十二人が、反射的に視線を天井に向けたのを確認してから、残る八人のうちの五人とともに顔を大きく持ち上げる。

 蜻蛉だ。天井に極めて近い空を、時計回りに巨大な円を描くように旋回している。

 体はエメラルド色。透明な翅の中央に黒く細いラインが横に引かれていて、長さは握り拳を三つ横に並べたほど。蜻蛉という昆虫に接した経験は数えるほどしかないけど、イメージする一般的な蜻蛉よりも、少なくとも一回り以上は体が大きい。サイズと比較すれば、羽音はむしろ小さすぎる気もする。

 飛んでいる一匹に気をとられて気づくのが遅れたけど、蜻蛉は全部で三匹いた。天井の一隅に張りついているのが一匹。ぼくが入ってきた方ではないドアのすぐ上にもう一匹。


 ぼくの視線に尻を押されたとでもいうように、まず前者の一匹が、二匹に遅れをとるまいとするかのように後者の一匹が、天井あるいは壁を離れて飛び回り始めた。二匹とも、既に飛んでいた一匹と同様、天井のすぐ下を。前者は左右と奥行きを大きく使うように八の字に、後者は反時計回りに。

 微かだった音も、三匹同時に奏でると存在感はかなりのものだ。昆虫の羽音特有の不気味さも相俟って、精神の安定を保てなくなったのだろう、押し殺したような女子の悲鳴が聞こえた。それにワンテンポ遅れて、別の女子も短い叫び声を上げる。

 三匹は時折ぶつかりそうになるが、衝突はしない。ニアミス直後は少々軌道が乱れるものの、すぐに時計回り・反時計回り・八の字に復帰する。三匹の高度は、徐々にだけど着実に下降している。二十人は一様に怯えていて、女子の中には手をとり合っている者もいる。


 でも、宮越くんは大丈夫。ぼくは神だからハッキリと分かる。


 傍にあった椅子に腰を下ろす。机の上に置かれた韮沢のパーツの中から、右脚を手にとる。想像していたよりも軽い。無駄毛は処理してあるので、手触りはつるつる・すべすべだ。色白なのも好感が持てる。

 試しに上下に振ってみると、透き通った鈴の音がした。膝に、親指と人差し指で作った輪くらいの丸い穴が開き、そこからなにかが床に落ちた。紙を小さく畳んだものだ。拾い上げて開くと、朱色のペンで「大吉」と書いてある。恋愛運・金銭運・健康運――ありとあらゆる種類の運が列挙されていて、どれも最高だと太鼓判を押してある。

 やっぱり宮越くんに不利益は及ばないみたい。ありがとう、神様。

 まあ、ぼくのことなんだけど。


 どこか演技じみた女子の絶叫が響いた。ぼくはおみくじに目を落としていたけど、反時計回りに飛んでいた一匹が急降下し、声を上げた女子の左斜め後方、男子Aの頭にとまったのがハッキリと見えた。

 蜻蛉にとまられたのを機に、男子生徒は白く染まり始め、五秒後には旋毛から上履きの先まで真っ白になった。全身に網目状の亀裂が走り、柔らかなクッキーのように崩落する。蜻蛉も同じく、白色に染まったのちに床に墜落した。

 残った十九人は弾かれたように逃げ惑い始めた。このころになると、韮沢の呻く声も大分弱くなっていたので、十九人の絶叫・悲鳴が教室内を埋め尽くす形となった。

 ぼくは韮沢の右脚を粘土のようにこね、自由自在に変形させながら、逃げ回る宮越くんを鑑賞する。どうせ殺されても死なないんだから、ゆっくり椅子に座っていればいいのに。それをテレパシーで伝えないあたり、サディストだなあ、って思う。


「開かないっ! 開かないよ、窓ぉおおおっ!」


 掃き出し窓を開けて逃げようとした眼鏡の学級委員長・関谷くんが、普段の沈着冷静ぶりからは想像もできない、裏返った叫び声を上げた。それに導かれたかのように、蜻蛉の一匹が彼の頭にとまる。一人と一匹は白く脆いクッキーになり、崩れ、床に白く小さな山を築いた。

 十八名となった一同は、狂乱の度合いを一段高めて、縦横無尽に狭い空間内を奔走する。廊下へと逃げようとしないのは、関谷くんの前例を踏まえて、蜻蛉の犠牲になることを恐れたからか。ぼくに助けを求めないのは、神を畏れているからか。


「ひゃおあ! むちょれりべばっ!」


 目の前の机に蜻蛉がとまったのを見て、女子生徒の一人が腰を抜かした。小村さん。休み時間はいつも読書をしていて、よく言えば大人しい、悪く言えば暗い子。だけど、ついさっき彼女が発した声は、国語の授業のときに、先生から指名されて文章を朗読する際の声と比べると、格段に大きかった。ポテンシャルがあるのなら発揮すればいいのにって思うけど、その機会は二度と巡ってこないので、どうでもいいです。

 残量が少ないマヨネーズを絞ったような音が聞こえ、悪臭。あーあ、と思うぼくの両手では、韮沢の右脚はイースター島のモアイ像そっくりにこね上がっている。蜻蛉が飛び立ち、小村さんの胸にとまる。雄だから、ローティーンの少女の胸の感触を、制服越しでも構わないから、死ぬ前に一度味わっておきたかったのかもしれない。白色、クッキー、崩壊。これで残りは十七名。


 クラスメイトは死んだけど、ひとまず脅威は去ったということで、緊迫した空気が僅かながら和らいだ。嘲笑うかのように、実際に誰かを嘲るように笑いながら、誰かが教室に入ってきた。


「あっ、先生」


 今朝校門の前で、登校する生徒たちに向かって挨拶をしていた、若いとも中年ともつかない男性教師・中崎先生だ。


「やあ、久しぶりだね」


 と、ぼくに向かって中崎先生。声は柔らかいけど目は据わっている。


「仕事って、朝の挨拶のことだったの? てっきり、今日の仕事が終わるまでかと」

「早く始めたかったからね」


 後ろ手に隠し持っていたものを胸の前に出した。人間の生首だ。どこか子供っぽいデザインの、水色の財布を口にくわえた女の子の頭部。

 中崎先生はゴミをポイ捨てするように、手にしたものを前方に向かって捨てる。生首はボールのように転がり、教卓に当たって停止する。口から財布がこぼれ、溢れ出した小銭が音を奏でる。飲み物を買う前に殺されたのかな?


「よーし、暴れるぞー」


 中崎先生は小走りで生徒たちに近づく。走るでもなく歩くでもなく小走りで、特定の生徒ではなく「生徒たち」に、だったので、警戒心を抱かせることなく接近に成功した。槍投げ選手を思わせるポーズをとると、右手首から先がレイピアの刃と化す。


「ろうんっおっ!」


 全く意味のない言葉を吐くとともに、鋭利な右手が目にも留まらぬ速さで突き出され、目の前にいた男子生徒の首を見事に貫通した。体内を通ったにもかかわらず、刃には血は一滴も付着していない。

 レイピアが引き抜かれ、支えを失った体が俯せに床に倒れる。まだまだ殺すぞぉ、というふうに中崎先生は右肩を回す。そのときには、右手は人間の右手に戻っている。

 恐怖に耐え切れず、生徒の一人が絶叫した。皮肉にもそれが合図となり、殺人者は再び動き出した。


「飲み物がほしいなぁ」


 騒がしい教室の中にあって、ぼくの口からこぼれた声はまるで存在感がなかった。

 飲み物。自力で、一瞬で用意することもできるけど、どうしよう? 小さなモアイ像は、表面を撫でるたびに灰色・卵色・鶯色・紺碧と色を変えるので、点滅しているみたいだ。


 中崎先生の右手が斧になる。モーションに入り、サイドスローで女子生徒の首を狙い打つ。切断。首は床と水平に飛んで教室後部の壁に激突、弾け、肉片と血がどす黒い花模様を描いた。登校途中に打ち上げ花火の音を聞いたことを思い出し、ぼくは懐かしい気持ちになる。

 肉の花が開いたのに呼応するかのように、首の切り口からオニユリの花が咲いた。オレンジ色の花弁に無数の黒い斑点が散った、一目見ただけで命名の由来がなんとなく呑み込めるような、グロテスクな花。百合の花なら、若葉の自室にもあったテッポウユリとか、白系統がいいのだけど、中崎先生は放任すると決めてある。首なし死体は、花が咲いた途端に横倒しになり、せっかく咲いたオニユリも台無しになった気がした。


 中崎先生は呵々大笑する。楽しくて・楽しくて仕方ないという現在の率直な心境を、笑いという言語で自己主張したかのようだ。笑い続けながら、右手を日本刀に変形させ、手当たり次第に生徒に斬りつける。切れ味が異様に鋭くて、金属以外は木綿豆腐のように容易く斬れるので、切断された机や椅子や人体の切れ端が次々と床に落ちる。ギアを一段上げたような猛攻に、一人が刺殺され、一人が斬り殺され、一人が左脚の膝から下をすっぱりと斬られて床に崩れ落ちた。

 ただ凶器を振り回して無差別に人を襲うだけでも、楽しい。加えて、金属以外はなんでも斬ることができ、様々な形状の武器に瞬時に変更可能だから、楽しくて仕方がない。要するにそういうことなのだろうけど、感情と力に溺れるあまり、攻めは次第に雑になっている。猛攻を開始して、最初の二人までは一撃で殺したけど、あとは最高でも大怪我止まり。そのうちの一人が出血多量で死んだけど、それだけだ。

 中崎先生は、自分は神だと思っているみたいだけど、その認識は間違っている。ぼくが唯一神である以上、この世界にぼく以外の神が存在するなんて有り得ない。一時的な神ですらない、神もどき。勘違いしちゃうところが人間の限界かな、と神のぼくは思う。分かり切ったことだから、悲しみも怒りも落胆もないけど。


「若葉ちゃん!」


 聞き覚えのある声。中崎先生以外はクラスメイトなのだから当たり前なのだけど、その声からその呼び方をされた記憶がない。

 半ば這うようにしてぼくに近づいてくる女子生徒がいる。花山さんだ。クラスメイトの中では親しくしていた部類に入り、休み時間になるたびに無駄話をする仲だった。あくまで相対的・消極的に仲がいいということであって、日曜日に一緒に遊ぶとか、そういうレベルの「仲がいい」ではなかったのだけど。

 中学一年生・白倉若葉は、友達と呼べる関係の人間を持たなかった。小学校までは男子とよく一緒に遊んでいたのだけど、中学生になって以来、すっかり孤独が板についた。花山さんを筆頭に、クラスメイトの中で仲良くしている人は何人かいたのだから、孤独という表現は大げさかもしれない。でも、若葉本人の実感としてはそうだった。


「若葉ちゃん、助けて!」


 気持ちを最大限伝えるためにボディタッチしたいのだけど、畏れ多くて触れられない、というふうに、伸ばした両手の指先をぼくの両脚寸前で停止させ、「必死」の二文字を貼りつけた顔でぼくを見つめながらの哀願。


「はなちゃん、どうしたの?」


 ぼく自身は一度も使ったことがない、彼女の友達は頻繁に使っている呼び方で花山さんに呼びかける。畏れ多き神からフレンドリーに話しかけられて、表情が明らかに和らいだ。


「あのね、若葉ちゃん。あの、その……」

「なに? ちゃんと聞くから、落ち着いて話して」

「た、助けて……!」

「助ける? 誰から?」

「中崎先生に決まってるでしょ! 右手がいろんな武器になるし、平気でみんなを殺すし、狂ってるよぉ……!」


 涙が溢れ出す。粒の一つ一つが、瞳から離れた瞬間、表面に水色の絵の具を薄く塗りつけたような半透明の玉へと変わり、床に積もっていく。生きたいという一念に囚われているはなちゃん=花山さんは、凡庸な己から分泌された美しいものに全く気がついていない。


「助けてって言われても、無理だよ。平凡な女子中学生でしかないぼくに、狂った殺人鬼の暴走を止められるわけがないでしょ」


 冷ややかにはねつけると、花山さんの顔が暗雲に包まれた。


「現に女子は勿論、男子だって為す術もなく殺されているし。でも、みんなで力を合わせればなんとかなるかもしれないから、生き残りたいんだったら団結して立ち向かえばいんじゃないかな。はなちゃん、ファイトっ」

「ち、違うよぉ!」


 神に異を唱える恐怖から、声は震えを帯びていた。しかし、機嫌を損ねることはなく、罰も下されないと分かると、危機を乗り越えた高揚感に乗って早口に言葉を並べ始めた。


「そうじゃないよ! 中崎先生を操っているのは若葉ちゃんでしょう? だったら、若葉ちゃんがとめてよ! これ以上殺さないようにって、中崎先生に命令してよ! お願いだから……!」

「ふぅん。あくまでも他力本願ってわけね」

「だって、若葉ちゃんしかとめるの無理だし! だから、お願い! とめてくれるならなんでもするからっ!」

「そこまで言うなら、助けてあげてもいいけど」


 晴れ間が覗いたのを見計らい、


「でも花山さんは、韮沢と一緒にぼくを散々馬鹿にしたよね」


 故意に声を低めて、ずばり言う。晴れ間はあっという間に隠れ、ショックから涙はとまる。顔が醜いだけに、足元に薄く積もった球の淡い水色が震えるほど美しい。


「このクラス、花山さんもよく知っているとおり、韮沢の顔色を窺いながら生きていかなきゃいけないところがあるよね。だから、韮沢との会話に巻き込まれたら、意見や感情や考え方にズレがあったとしても、韮沢の意見や感情や考え方に合わせなくちゃいけない。韮沢ってすぐに人の悪口を言うから、不本意でも他人を悪く言わなきゃいけないことも数え切れないくらいある。花山さんも例外ではなくて、悪口の対象にはぼくもいた。韮沢は性格が悪いから、ぼくと花山さんの仲がそれなりにいいことを知っていて、わざと、花山さんにぼくの悪口を言うように仕向けた。そうだよね?」


 花山さんの体が震え始めた。その表現で恐怖を表すの、遅くない? 忘れていたの? ま、どうでもいいけど。


「言わされた割に、花山さんは言いたい放題だったよね、ぼくの悪口。友達がいないから、お弁当一緒に食べてあげないと一人ぼっちで食べることになってかわいそう、とか。あと、小学生のときは男子とばかり遊んでいたとか、そういうことも言っていたよね。モテないくせに男子とばかり仲良くしていた的な、ぼくを小馬鹿にするニュアンスで。ぼくは女の子にしては活動的な方だったから、女の子よりも男の子と遊ぶ方が性に合っていただけなのに、それを悪意に解釈するって――お前、マジで性格悪いよな。そのくせ、韮沢みたいにあからさまに『私は歪んだ性格ですよ』って表明することは絶対にないし、傘下には入らないくせにボス猿には従順だし。ある意味、韮沢よりも質が悪いっていうか」


 震えが激しくなる。人間の震え方としては不自然なほど激しく、震えているのは世界の方なのでは、という気さえする。誰かがたった今、中崎先生に命を奪われたらしく、断末魔の絶叫が聞こえた。


「お前のことなんて助けたくないから、自力でどうにかして。ほら、戦ってこいよ。しっし」

「いやぁっ! そんなぁ……!」


 花山さんの両手の指先がぼくの腕に触れた。瞬間、腐った果物が崩壊するように、ずるん、と花山さんの肉が剥け落ち、脱ぎ捨てた衣類のように汚らしく床に広がった。唯一残った脳味噌が、どこか寂しげに宙に浮かんでいる。

 弄んでいたモアイ像を机の上に置く。フリーになった右手で脳味噌をむんずと鷲掴みすると、花山さんが「あっ」と声を漏らした幻聴が聞こえた。朝練をしていた野球部員たちをリスペクトして、往年の大投手っぽいダイナミックな投球フォームで教卓に向かって投げる。卓上に、紫色の水溶液が湛えられた硝子製の水槽が忽然と出現し、脳味噌は液体に入水。ゆっくりと沈み、なにも敷かれていない底に落ち着いた。

 脳味噌が信号をぼくの脳に直接送りつけてくる。


『若葉ちゃん、「助けて」っていう私の願いを聞き入れて、脳味噌だけの姿にしてくれたのね。この姿なら、肉をまとっている場合とは違って、あと五百年は生きられるわ。ありがとう!』

「どうしたしまして。でも、もう二度と話しかけてこないでね。お前の声、気持ち悪いから」


 脳味噌は聴覚がないので、神の存在を全く無視して、神は偉大だとかなんとか、分かり切ったことをしつこく喋り続けている。

 やれやれ。

 信号を遮断する。これで花山さんは、今後五百年間、ひとりぼっちで生きていかなければならなくなった。

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