1―A
まだ休み時間ということで、二階の廊下にはたくさんの生徒たちの姿がある。していることは、男子はふざけ合い、女子はお喋り。短い通学路を歩いている中で多数見かけたように、「朝、ダルすぎっしょ。マジ勘弁」みたいなオーラを醸す男女が何人もいる中で、ご苦労千万なことだと思う。朝からふざけ合ったりお喋りしたりする元気がある人だけ、朝からふざけ合ったりお喋りしたりしている、というだけの話なのだろうけど。
白倉若葉が所属する1―Aの教室は、階段を上り切ればすぐ目の前だ。視力を向上させたり透視能力を使ったりするまでもなく、開け放されたドアから教室内部の様子が見える。勿論全員の名前を言えるけど、全員が遠い他人のように感じられるのはなぜだろう。
校門を潜ってから校舎に入るまで、昇降口、階段と、人間ではできない数々ことをやってきたぼくとしては、教室に入るまでの間にも、なにか一つやっておきたい。
さて、どうしよう。
足音が聞こえてくると思ったら、ぼくがいる方に向かって女の子が走ってくる。手に握り締められているのは、どこか子供っぽいデザインの水色の財布。一階にある自動販売機に飲み物を買いに行くらしい。
殺そうかな、と思ったけど、既にノルマは達成済みだし、神だと自覚してから殺しすぎだし、たまには違うパターンも悪くない。
挨拶代わりに、その子の体をその場に固定する。「えっ?」という顔をした瞬間、十センチほど宙に浮かせる。「えっ?」が「えええっ!」になり、浮いたり浮かせたりするのが好きだなぁ、とぼくは思う。周りの人間には、財布の中の小銭を目と指で確かめているように見える、という設定にしておいたので、彼女は心置きなく「えええっ!」っていう顔をしながら浮かんでいられるし、ぼくは永遠にでも、浮いたり浮かせたりするのが好きだなぁ、と思っていられる。
でも、そんな無駄な時間の過ごし方、神はしません。
浮いたまま、水色財布の彼女は移動を開始する。彼女は「えええっ!」という顔のまま、あっという間に階段の下り口に到着し、下り始める。操られる経験が初めての彼女に配慮して、移動速度は早足で歩く程度に抑制しておいた。行き先は勿論、一階にある飲料の自動販売機。
『瞬間移動させればよくない?』
ぼくの中にいるもう一人のぼくが突っ込んできたけど、彼女は非日常的なスリルを日頃から希求していたから、こちらの移動手段の方が好ましいのだ。事実、階段を下り終わり、力による拘束から解放された彼女は、心の中で繰り返しこう呟く。
『すっご! 私、こんな力を内に秘めていたんだ! すっご!』
彼女に代わって、短い距離ではあるけどぼくが瞬間移動し、教室の前へ。ぼくの工作により、ぼくが瞬間移動したことには誰も気がつかないので、騒ぎにはならない。入室。
教室の中には二十五人の生徒たちがいる。クラス担任を除くと五人足りなくて、不在の生徒全員が男子だ。携帯電話が普及したこの時代においては、お喋りは教室の中で充分だけど、ふざけ合いは教室の外でしかできない場合もある、ということなのだろう。
「あっ、おはよー」
ドアのすぐ近く、教室の最後列にして最も廊下側の机を囲んでいた五人の女子生徒の中の一人、韮沢が声をかけてきた。積極的には殺さないけど、必要に迫れれば平然と虫を捻り潰しそうな、薄っぺらで嘘くさい笑顔。背丈とか、おっぱいとか、同年代の女子と比べると体が全体的に大きくできていて、髪の毛を金色に染めている。
見てのとおり、彼女たちは五人で一つのグループを形成している。わざわざ言うまでもなく、リーダーは韮沢だ。クラスが一個の組織だと仮定すると、彼女はボスとして君臨していて、残る四人は側近ポジションに該当する。
軽く紹介すると、サブリーダー的な立ち位置で、化粧をしっかりすると美人に見えるタイプの瀬口。お兄ちゃんが三人いて、父方の祖父が自殺している大野。小さいころから少女漫画が趣味で、最近はペディキュアに凝り出した平。特技は料理だけど、「料理が得意とか自分で言う女って、男に媚びているみたいで好きじゃない」と韮沢から言われて以来、料理の話題はあまり口にしなくなった野見山。以上四名。
一言でいえば、彼女たち四人は腰巾着&金魚の糞体質。韮沢と一緒のときは徹底的に彼女に媚びへつらい、外部の人間に対しては驕り高ぶるけど、彼女の影響が及ばない状況においては、かわいげがある普通の女子中学として振る舞う、という点で共通している。多少気が利いた言い回しが好みなら、韮沢と交わると化学反応を起こして悪と化す、とでも表現しておけばいいんじゃないかな。
なるべく少ない文字数で済ませたかったから「悪」という単語を使ったけど、所詮はそこらへんにいる女子中学生だから、悪といっても高が知れている。具体的に悪事を列挙すると、平気で人を小馬鹿にしたような言動を見せる・大人に対して反抗的な態度をとる・学業を疎かにする――言っているうちに馬鹿馬鹿しくなってきたけど、言い出した手前、仕方なしに最後まで言うと――遅刻常習犯・深夜に街を徘徊する、とまあ、この程度の悪だ。
神からすればかわいいものだけど、善良でピュアな中学生諸君にとっては巨悪に見え、萎縮を強いられる。校則違反である染髪、ただその行為をしたというだけで、自動的に畏怖の対象になる。
韮沢が髪の毛を金色に染めた。その事実から読み取れるのは、韮沢にその髪色は似合っていないということ。校則違反を平気で犯す図太い神経の持ち主だということ。以上二つ以外のなにものでもないのだけど、善良でピュアな少年少女たちは、大それた悪事を働いた巨悪を見出すのだ。
韮沢はみなから恐れられる一方、妙に無邪気で、変に馴れ馴れしいところがある。具体的に言うと、目の前の事象に一々反応する。ぼくが教室に入ってくるのを見て、ぼくとは特に親しくもないのに「あっ、おはよー」って言っちゃうところなんて、まさにその性質の表れだ。
本業とでもいうべき、他人を小馬鹿にすることに関しても、その傾向は顕著だ。ステレオタイプの虐めっ子にありがちなように、特定の人物を偏執的に攻撃することは滅多にない。反面、ちょっとでも食指が動く相手を見つけると、殆ど反射的にその人の悪口を口にする。言ってみれば、広く浅く。1―Aに所属する生徒は全員、韮沢の発言のせいで不愉快な思いをした経験があると断言していい。勿論、神だと自覚する以前のぼく=白倉若葉も例外ではない。瀬口・大野・平・野見山の四天王でさえも、取り巻きではない生徒たちと比べれば圧倒的に回数は少ないし、程度もそれほどではないけど、それでもやっぱり被害に遭っている。
でも、誰も言い返さない。言い返せないから、言い返さない。大それた悪事を働く巨悪だから、畏怖の対象だから、萎縮してしまうから、言い返せない。被害者にできることはといえば、さらなる侮蔑を回避するために、相手を刺激しないよう、弱々しい笑みを浮かべることのみ。気が強い一部の男子と、取り巻きたち四人であれば、いくらか婉曲に韮沢の横暴を非難する言葉を吐くこともあるけど、せいぜいその程度だ。
神だと自覚する前のぼく=白倉若葉は、弱々しい笑みを浮かべることしかできない一人だった。女王のように振る舞う韮沢の前に、為す術がなかった。
でもね、韮沢さん。ぼくはもはや、神なの。十二年と九か月の間、自覚してこなかったけど、自覚したの。女王の完全なる上位互換、それが現状のぼく。
えっ、分からない?
そっか。韮沢さん、人間だもんね。それは残念。
じゃあ、その罰っていう名目で、始めちゃいましょうか。
ぼくは韮沢の挨拶を無視し、教室の中に全身を移動させることを優先した。韮沢は勿論、取り巻き四人と、韮沢の声が聞こえる範囲内にいた生徒合計十一名も、一斉に僕の方を向いた。その他の生徒は呆気にとられた「へっ?」、韮沢たち五名は少し攻撃的な「あ?」という顔で。
それを合図に、教室にある二つの出入口は、開け放たれた状態ながらも、ぼくが許可した人間しか出入りできない性質を帯びた。
さあ、始まりです。
「瀬口、大野、平、野見山」
目立たない一介の女子生徒が、いきなり女王の側近たちを呼び捨てにしたので、女王は勿論、ぼくの声を聞いた生徒全員が驚きを露わにした。四人の瞳が澱んだ灰色に染まっていることに、ぼく以外は誰も気がついていない。
じゃあ、四人とも、ぼくが書いたシナリオどおりに動いちゃって。
いきなり、大野が韮沢の横面を殴り飛ばした。ぎょべっ、という衝突音がして、韮沢の上体は大きく傾き、椅子から滑り落ち、体の右側を下にして床に倒れた。殴られた箇所に右手を宛がい、顔を上げる。殴った張本人を含む四人は、全員が椅子から立ち上がり、グループのリーダーを濁った瞳で冷然と見下ろしている。
誰か一人に、ではなく、四人全員に向かって、韮沢がなにか言おうとした。瞬間、平が後頭部を蹴飛ばしたので、グループのリーダーの顔面は床に叩きつけられ、うぶぅっ、という呻き声。腕立て伏せの要領で顔を上げ、改めてなにか言おうとする。大野の右足が後頭部に力を加え、韮沢は再び、毎日掃除しているのに埃だらけの床にキスをした。大野は足を外さない。韮沢はうーうーと呻き、溺れている人間のように手足を動かすものの、重しを跳ね除けることができない。そこへ、野見山が左脇腹に蹴りを打ち込んだので、韮沢はあに濁点をつけたような声を短く発し、蹴られた部位を左手で押さえた。それを機に、暴れるのをやめたが、依然としてうーうーと呻いている。教室が静まり返っているので、苦しげな声はやけに大きく聞こえる。
四人は予定どおりのタイミングで視線を交わし合い、大野は右足をどける。瀬口と平が二人がかりで韮沢を仰向けにし、大野と野見山は夏服の袖をまくり、肩と二の腕を露出させる。作業の間、リーダーはUFOを目撃した子供のような顔をして、部下A・B・C・Dの顔を順繰りに見つめるのだけど、誰一人としてそれには取り合わない。
瀬口がぼくを見た。ぼくは右口角にあるホクロから、黒色のサインペンをにゅっと取り出し、彼女に向かって投げてやる。受け取ると、韮沢の右脚に跨るように屈み、サインペンで太ももに横線を引き始めた。韮沢の唇が蠢いたけど、声は発されない。でも、ぼくにはちゃんと聞こえた。
『えっ、ちょっと、なに、なんなの、えっ、ちょっと待って、待って、ほんとお願い、いきなりそんな、乱暴、ちょっと、四人とも、ねえ、なんで、なんで、ちょっと、どうして、ねえ、ちょっと、ねえ』
横線は太ももを一周し、書き始めに接続した。瀬口はペンを平に渡し、平は韮沢の左太ももに、瀬口と同様に線を引いた。ペンは、今度は野見山にパスされ、彼女は左腕の肩と肘の中間に線を引く。最後に順番が回ってきた大野は、右腕の野見山と同じ部分に線を描き、手にしたものを投げ捨てた。サインペンは床に着地する寸前、跡形もなく消失する。
『えっ、なにこれ、なんの儀式なの、ねえ、ちょっと、ねえ、なんなの、怖いんだけど、マジでなんなの、意味が、えっ、ちょっと、ねえ、ちょっと、なんなのこれ……』
リーダーの雄弁な沈黙を無視して、四人は視線を交わし合う。四つの右手が、サインペンで引かれた黒線に同時に触れる。線よりも下の部分がほろりと外れ、韮沢の体は胴体・右腕・左腕・右脚・左脚の五つのパーツに分割された。切断は磨き上げられた大理石のように滑らかで、一ミリも出血しない。
「あああっ! 腕ぇ! 脚ぃ! 私の手足ぃいいいっ!」
四人は一人一本ずつ四肢を掴むと、投げ捨てるように机の上に置き、一斉に韮沢の体を押さえつけた。四つの顔はそれぞれ、自らが切り離した四肢の先端に向いている。
四人は口を同時に開いた。舌が猫科の動物のようにざらついている。
彼女たちは一斉に、自らの目の前にある傷口を舐め始めた。
「あああっ! 痛い! 熱い! 気落ち悪い! あああああああっ!」
絞められる鳥が断末魔に上げるような悲鳴。怒涛のように襲ってくる複雑な、自らにとってはことごとく好ましからざる感覚・感情から逃れようともがくけど、四人がかりで押さえつけられたのでは為す術がない。
「さて、と」
悲鳴をBGMに教室内を見回す。二十一人の男子女子は、ある者は着席し、ある者は立って、一様に呼吸と瞬き以外の運動を自粛している。おしなべて表情は硬く、顔色はよくない。今となっては、全員がぼくに注目している。固唾を呑んで、ぼくの一挙手一投足を見守っている。神=ぼくが決めたからじゃなくて、脅威に自力で気がつき、自らの意思で全身に緊張を漲らせている。
四人が韮沢に対して頑張っている間、のんびりと昼寝をしているつもりはない。だからといって、時間の流れを加速させたり、過程をすっ飛ばしたりして、今すぐ結果を眼前に出現させるのは味気ない。
ぼくの眼差しは、窓際の席に着いた男子生徒へと注がれる。
宮越泰人くん。細い眉を八の字に歪め、大いなる不安を表明している。
宮越くん。彼と一対一になる機会を持ちたいけど、
「あああ! 痛いぃ! 痛いよおっ! ああああああ!」
韮沢がうるさい。ひたすらやかましい。
予定を変更して、先に邪魔者を処理しようかな? それとも……。
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