千本松中学校

校舎へ足を踏み入れる

 灰色といえばいいのか、白色といえばいいのか。元々そんな色だったのか、時の経過が変色させたのか。どうとでも解釈できるし、どうにも解釈しようがない色合いの外壁の、三階建ての校舎が前方に見える。

 その色を表す名前が存在しないなら、神であるぼくが命名すればいい。外壁がその色である理由が不明なら、神であるぼくが後付けすればいい。

 色の名前は、じょめあぼじょりっこしへあえま。外壁がじょめあぼじょりっこしへあえま色である理由は、アメリカ合衆国に初めて輸入されたタヌキが想像妊娠をしたから。

 ま、そんな感じでいいんじゃないかな。


 校門を潜った瞬間、銃声が聞こえた。間近からではないものの、発生場所が中学校の敷地内なのは確からしい。

 乾いた音は断続的に鳴っている。どうやら生徒が校門を潜るたびに発生しているようだ。なるほど、銃は必ずしも、生命を奪うために発砲されるものではない。

 八歩ほど歩いたところで振り返る。銃声。校門を潜ったばかりの男子生徒が、ぼくが足を止めて校門の外を見ているのを訝しく思い、自身も立ち止まって肩越しに後方を確認した。連鎖して、次から次へと生徒たちが立ち止まり・振り返ったら面白いな、なんて思ったけど、思っただけ。十五人に一人くらいの割合でぼくの真似をするけど、残りの十四人は後方には一切注意を払わない。

 生徒たちの入門は途切れる気配がない。銃声はまだまだ響き続け、中崎先生はまだまだつまらない業務に励まなければならないようだ。


 アメリカ合衆国に初めて輸入されたタヌキが想像妊娠をしたので外壁がじょめあぼじょりっこしへあえま色をしている校舎へ、校舎へ向かう一群を構成する生徒Aと化して、紛れもない神であるぼくは向かう。

 校舎までの地面は、引き続きアスファルトに覆われていて、一本道と比較すると凹凸が目立つ。発生する砂埃の分量は道のときよりも多いけど、人体の間際を通過しても金色には光らない。住む地域が違えば、肌の色が同じでも使用する言語が異なるように、両者は似て非なる存在なのだろう。

 道の左側は、若葉が神だと自覚する以前は、何種類もの植物と休憩用の木製ベンチで構成された空間だった。でも今は、道との境目に、三階建ての建物に相当する背丈のココヤシの樹が狭い感覚で林立し、半ば壁と化しているので、その向こう側に広がる空間の詳細は定かではない。頂から放射状に生えた、鳥類の羽を思わせる葉の生え際には、実が何個も生っていて、丸みを帯びた褐色の表面は艶やかだ。今にも殻が甲虫の外翅のように開き、薄翅を広げて飛び立っていきそうな気がする。


 右手に広がっているグラウンドでは、野球部員たちが練習に汗を流している。聞こえてくるのは、もっぱら掛け声。部員たちは一様に坊主頭で、同じユニフォームを着て、グラウンドの外縁を沿うようにランニングに励んでいる。体格も顔も声も、みんな同じに見える。ピッチャーやキャッチャーやセンターといった、ポジションの概念は彼らにはなくて、みな一様に野球部員というポジションを専任している、という印象だ。

 それにしても、サッカー部や陸上部やその他諸々の部に所属する部員たちがグラウンドを利用していないのは、なぜなのだろう?


『それは、彼らが野球部だからさ。それとも、アメリカ合衆国に初めて輸入されたタヌキが想像妊娠をしたから、と言った方が分かりやすいかな』


 ランニングに忙しい野球部員に代わって、グラウンドの片隅、鼠色に汚れて忘れられている野球ボールが、負け惜しみを言うような口振りで答えた。

 ……なるほどね。


 校門を潜ってから、まだ神らしいことをしていないな。

 ふとそう思ったのは、グラウンドから視線を切った直後のこと。


 前方三メートルの地点に、色黒で大柄な男子生徒が一人で歩いている。運動系の部活をやっているっぽい見た目だけど、実際はそうではないみたいだ。物凄くだるそうに歩いている。

 こいつでいいや。

 足元にいきなり穴を作る。男子生徒は、右足を今まさに地面につけようとした瞬間の体勢のまま落ちていった。穴が出現したタイミングが唐突だったので、落ちたというよりも吸い込まれたかのようだ。底は設定していないので、男子生徒は次第に衰弱しながら、命尽きるまで落ち続けるしかない。助かる唯一の方法は、ぼくの気が変わることだけど、断言します。そんなことは絶対にあり得ません。


 いきなりできた穴にいきなり落ちたので、落下の瞬間を目撃した生徒たちの間でざわめきが共有された。ただし、目撃者の中の六人の男子女子が現場に駆けつけたときには、既に穴は塞がり、穴があった場所には穴があった形跡は影も形もない。一様に困惑の色を顔に浮かべた六人は、その場にしゃがむか、あるいは少し離れた場所に佇むかした上で、穴があった場所を手で撫でたり、凝視したりする。


「えっ、嘘。さっき男子が……」「穴に落ちて……えっ? なんで?」「落ちたよね。落ちた、落ちた」「でも、穴ないし」「えっ、そんなの、有り得ないんだけど」「警察……」「消えた?」「気のせいっていうか、でも、だって……」「あれぇ?」「ちょっと、なに? なに?」「怖くない?」「絶対落ちたって!」「はぁ?」


 困惑が長引くにつれて、恐怖の念が蕁麻疹のようにぶつぶつと沸き立ち、困惑は混乱へと移行していく。それらの感情は、引き寄せられるかのように六人のもとに集結した他の生徒たちに伝播・伝染。六人と他の生徒の境界は徐々にファジーになり、殆ど一個の存在となって、困惑し、恐怖し、混乱した。校舎へ向かう生徒たちの中にも、輪に加わりこそしないももの、彼らに注目する者が何人もいる。

 いつの間にか銃声はやんでいる。校門を潜る生徒は途切れない。どうやら、男子生徒が落下したのが契機らしい。鳴り止みはしたが、それを超える迫力をもって場が騒がしくなったため、緊迫感は却って増した。


 同じ学校の仲間が穴に落ちたくらいで集まっちゃって、中学生って無邪気だなぁ。彼らが狼狽えている間も、男子生徒は穴の内側を落下し続けているんだなぁ。

 呑気な気持ちでいるのは、ぼくくらいのものだ。


 集団の横を通り過ぎる際、一群の最も外側に佇んでいる女子生徒の背中にタッチし、真っ白な一羽のウサギに変えた。言うまでもなく、穴への落下→『不思議な国のアリス』のウサギ、という連想だ。誰もが落下騒ぎに気をとられていて、一人の女子生徒の変身には気づかない。

 白ウサギは、きょとんとした顔で眼前の景色を十秒ほど凝視して、それから移動を開始した。ウサギらしく跳ねながら、野球部員たちの掛け声が絶えないグラウンドへと。


「あっ、ウサギ」


 やがて穴があった場所を囲む生徒たちの一人が、長い耳を持つ愛らしい小動物の存在に気がつき、声を上げた。決して大きな音量ではなかったけど、率直で素朴な驚きがこもったその声は、緊迫した空気の中で増幅され、集団の中の大多数の注目を発言者へと移行させた。さらにその生徒の視線を辿った結果、問題の小動物の姿を認め、どよめき。


「なにあれ」「ウサギだよ、ウサギ」「なんでいるの?」「かわいー」「危ないよ、そっち行ったら」「学校にウサギ小屋なんてあったっけ?」

 ありません。

「グラウンドへ行ったウサギは、どうなるの?」

 あっ、いい質問――と思ったら、ぼくの自問だった。

 では、自答させていただきます。知りません。知っているけど、どうでもいいので、知らないということでいいです。


 校舎の出入口の半分ほどを防ぐ形で、合計三名の男子生徒がうんこ座りで談笑に耽っている。神が口にするのはなんとなく相応しくないな、心の中だとしても相応しくないな、と思いながらも心の中で口にすると、いわゆる不良生徒というやつだ。

 ああ、あなたたちは、ぼくに排除されるだけの存在としてこの世界に配置されたのね。

 限りなく悲しみに近いけど、悲しみとは明確に異なる感情と、形だけの同情を覚えながら、自らの右腕の肘から先を純白の扇子に変形させ、三人に向かって扇ぐ。三人は「わー」という単純な声を発しながら吹き飛ばされ、横方向への移動距離が長くなるに従って風に乗って上昇し、「わー」の八秒後には青空に浮かぶひよこ豆の一粒になり、やがて見えなくなった。騒がれると面倒くさいので、周りの人間からは、三人は三枚の木の葉に見えるっていう設定にしておく。


「かわいそうに」


 全く感情がこもっていない声で呟き、校舎内に足を踏み入れる。


 昇降口も生徒でいっぱいだ。下駄箱は縦も横もぎゅうぎゅう詰めに設置されていて、一定以上の人数が同時に履き替えを行えないので、朝夕の登下校ラッシュ時には決まって渋滞が発生するのだ。

 裸足のぼくには無関係だけど、せっかくの昇降口、ただ通り過ぎるだけでは勿体ない。人通りの邪魔にならない場所に佇み、勿体ないという気持ちを解消し得るものを探す。


 靴箱の扉に今まさに手をかけた男子生徒がいる。寺田テツキくんとも、穴に落ちた色黒男子とも、さっき吹き飛ばした三人組とも違うタイプ。ポジションとしては、カースト最上位グループと次点グループの中間。抱いているのは、上昇志向ではなく、イマドキの若者らしい安定志向。どちらかのグループに腰を落ち着けたいのだけど、どちらにも染まり切れなくて、結果的に二方面に気をつかっているので、傍から見た限りでは充実した中学生活を送っているように見えるけど、実際にはカースト下位グループよりも苦労している、そんな男の子だ。名前は、ニシ・カズユキくん。

 そのニシくんが、今、下駄箱の扉を開けた。

 入っていたのは、上履きではなくて、オレンジ色の炎。

 炎はニシくんの右腕を伝い、あっという間に全身に燃え広がった。


「あぢあああっ!」


 炎をまとったニシくんは床にそっくり返り、半分潰された虫の物真似でもするようにのた打ち回る。昇降口の現在の混雑ぶりを考えると、炎に包まれていることを差し引いても迷惑な動きだ。

 でも、ぼくが咄嗟に世界のルールを改変しておいたので、実際はぼくが定めた一点から半径二メートルという、極めて狭い範囲しかニシくんは移動できない。さらに言うと、周りの人間からは、突っ立って髪の毛をいじっているように見えるようにしてある。だから、いくら転がろうが、悲鳴を上げようが、誰も積極的にニシくんには注目しない。偶然視界に入ることはあるかもしれないけど、「ああ、髪の毛を触っているんだね。寝癖が中々直らないんだね」と思って、それでおしまいだ。

 そして、炎は全然熱くない。

 さあ、いつまで結び直し続けるのかな?


「おあああ! うあああ!」


 感じてもいない苦痛に絶叫するけど、他の生徒たちは当然、靴紐を結び直している生徒になんて目もくれない。ニシくんに周囲の反応に気を配る心の余裕があったなら、きっとこの世界に絶望していただろう。

 ゴロゴロし始めて三分くらい経って、ニシくんは不意に気がつく。

 あれっ、この炎、熱くないぞ。


 ニシくんは炎に包まれたまま、床を両手で押すようにして立ち上がる。自らの体を見下ろし、制服が燃えていない事実を把握する。試みに、右手で左腕の炎を払ってみる。オレンジの形が大きく崩れたけど、体にまとわりついたままだ。

 炎に襲われたせいで失念していた、まだ上履きに履き替えていない事実を、ニシくんは思い出す。炎に包まれているという異常事態なのに、靴を履き替えている場合なのだろうか? 最低限の常識を持った人間として、ニシくんは葛藤する。このときの彼は、炎に包まれている生徒がいるにもかかわらず、誰も騒がないのはなぜかという疑問は、一瞬たりとも抱かない。

 下駄箱の扉が目に留まる。葛藤する程度に心に余裕はあるものの、依然として気が動転しているので、閉めていないのに扉が閉まっている事実を怪訝には思わない。


 扉を開ければ、体の炎は元いた場所に戻るはずだ……。炎は熱くないし、物を燃やす性質を持たないから、俺は安全に上履きを取り出し、脱いだ下履きを中に入れることができる……。放課後になっても炎が俺につきまとっているようなら、担任の中崎先生に相談すればいい……。中崎先生、授業は糞つまんないけど、生徒の相談にはそれなりに親身になって対応してくれるからな……。


 ポジティブにそう思考し、結論したニシくんは、この世界のありとあらゆる不条理を受け入れるかのように、やけに力強く一つ頷き、再び扉を開けた瞬間、

 一本の黄金の矢が下駄箱の中から飛び出し、ニシくんの心臓を貫き、彼は十四歳の短い生涯を終えたのでした。


 ニシくんは死体になっても、周りの人間からは「髪の毛を触っている、生きているニシくん」にしか見えない。

 でも、存在自体を感知できなくなるわけではないから、いつまでも一点に佇み、髪の毛をいじり続けているニシくんの異常性に感づき、声をかける人間がいずれ現れるはずだ。だけどニシくんは、というよりニシくんの幻は、髪をいじるだけが能のアンドロイドに等しい存在だから、注意なんて当然無視。注意した方は当然、無視されたことに憤る。口調を厳しくしてニシくんに注意を重ねるけど、それも無視される。人が喋っているのに喋っている人間の方を見ないし、なんだこいつは、となる。

 その人は早々に堪忍袋の緒が切れて、声を荒らげてニシくんの肩をむんずと掴む。自らの方に向き直らせるために掴んだわけだけど、振り向かされるまでもなく、ニシくんは自分からその人へと体を向ける。そして、一欠片の邪念も含まれていない瞳でその人の顔を見つめながら、こう主張するのだ。


「神は実在します」


 最後の仕上げに、ニシくんはその人に抱きつく。ソフトクリームが融ける様子を早回ししたかのように二人は融け、人肉色の水溜りが現場に残される。

 髪をいじっていただけに、神。

 ……なーんてね。

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