ぼくのおっぱいを食べない?

 みんなからは平凡な女子中学生にしか見えていない、実際には白髪・白いドレス・スタイル抜群・裸足のぼくは、神らしくもなく普通に道を進む。

 神だとしても、必ずしも神らしく振る舞う必要はない。神らしく振る舞うか否かを決める権利は神にある。さらに言うと、ここで言った「神らしい」は、人間の基準からすれば、ということに過ぎない。神の振る舞いは全て、自動的に神らしいと言えるのだ。


 放課後を迎えるまで過ごす場所へと向かう生徒たちを形容するなら――簡潔に表すのは神らしいけど、あえて神らしくない簡潔さで表すなら――色々だ。携帯電話にイヤホンを繋いで音楽を聞いている人、数人の仲間と群れを形成して談笑している人、きびきびと早足で歩いて道を進む人。平凡だけど個性はちゃんとあって、まるで「僕たち人間は、溢れんばかりの多様性と可能性を有していますよ」とアピールしているみたいだ。靴底が路面を踏み締めるたびに、存在しないと見なしても差し支えないほどごく薄く積もった砂が煙となって立ち上り、人体や人体を覆う衣服の間近を通過するたびに淡い琥珀色の煌めきを放っている。

 平凡で多様な学生たちも、ぼくの現在の本当の姿を認識した瞬間、少なくとも数秒間は、一様にぼくに注目せざるを得ない。でも、平凡な女子中学生に化けている現在は、誰も注目しない。仕方ないとはいえ、なんとなく物足りなくもある。


 校門までの所要時間は、あと二分といったところ。

 せっかくの、神だと自覚して初めて歩く通学路なのだ。記念に一回、神じゃないとできないことをしよう。


 たまたま右隣を歩いていた、男子生徒の肩を指先でちょんちょんとつつく。

 互いの足が同時に止まり、男子生徒は顔をぼくに向けた。驚きに包まれている。突然肩に触られた驚きに、相手が顔見知りではなかった戸惑い、女子にボディタッチされた喜びが混じった、多義的な表情だ。

 男子生徒は中背痩せ型。その年齢の男子にしては髪の毛は長めで、パッとしない目鼻立ちをしている。ただでさえそんな造形なのに、驚きの感情のせいで変形しているから、凄く不細工だ。肉体と衣服と靴以外に所持しているのは、学校指定の鞄のみ。神なのにこんな言葉を使うのは気が進まないけど、この言葉が明らかに最も正確だから思い切って使っちゃうと、平凡な男子中学生というやつだ。

 名前は寺田テツキ。彼の体や衣服や持ち物のどこにも彼の名前は記載されていないけど、神の力を行使してその事実を把握した。三人家族で、趣味はソーシャルゲーム。好きな食べ物はしょうゆラーメンで、好きな色は青。四歳になる雌の柴犬・ドリスを飼っている。生涯で一番の自慢は、中一のときに実施された学力テストで、一度だけ三十位以内に入ったこと。一位でも、何回もでもなくて、三十位以内に一度だけ。いかにも平凡を印象づけるために作られたエピソードって感じだ。ニックネームは、保育園のころから一貫して、テっちゃん。


「ねえねえ、ちょっと君」


 いくら相手が平凡でも、一人称わたしの有り触れた女子中学生・白倉若葉だったら、こんなにも簡単には話しかけられていないだろうな、と思いながら、神であるぼくはテっちゃんに話しかけた。


「……えっと」


「ねえねえ、ちょっと君」から先の言葉がないので、テっちゃん=寺田テツキくんは困惑している。普通なら「なにか用?」的な言葉を返す場面だけど、沈黙している。見知らぬ女子から唐突に話しかけられた理由が気になって・気になって仕方なくて、ちらちらとぼくの顔色を窺うのだけど、正視はできない、という状況だ。かわいそうに、テっちゃんは異性と話をするのが苦手なのだ。


 現在、ぼくとテっちゃんは、透明で極めて薄い膜に覆われている。膜の外部からは、内側のあらゆる存在は勿論、膜自体の存在も感知できない。一方で、膜の内側からは外の様子を普通に見ることができる代わりに、膜の外に出るのは不可能。唯一の例外は膜の製作者=神=ぼくで、膜の内外を自由に行き来できるし、膜の外側からでも内側の様子を把握できる。つまり、膜の内側でどんな非現実的な現象が起きたとしても、大騒ぎするのはテっちゃんだけ。

 思う存分遊べる環境が整っているわけだけど、でも、ぼくの目的は学校へ行くことだ。本格的に力を使うなら登校後に、という思いもある。

 というわけで、


「いきなりだけど」


 あと四秒秒で「なに?」と、勇気を振り絞って声を発する予定のところを申し訳ないな、という思いはあったけど、こちらの気分を優先させる。だって、テっちゃんは人間で、ぼくは神だから。


「ぼくの恰好、どう思う?」


 外見フィルター、解除。

 平凡な女子中学生が、童顔のセクシーなお姉さんに変わったのを見て、ああっ、という声がテっちゃんの口からこぼれた。巨大隕石が衝突したみたいな衝撃が走ったと推察されるのだけど、それでも「ああっ」だけで済んだのは、ぼくの胸がAカップからGカップに瞬時に進化したから。分かりやすくいえば、隕石衝突後に大津波が押し寄せた、ということ。


「えっ、あっ、おっ、えっ、うっ、おっ、おっ、おっ……」


 テっちゃんは頬を熟した林檎みたいに色づかせて、ぼくのおっぱいと顔を交互に見る。柔和な表情で頷くと、顔全体を安堵の色に染め、Gカップおっぱいに視線を戻した。人が変わったような図々しさでまじまじと見つめる。股間が緩やかに、一方的に膨張していっているのが、見ずとも、触らずとも、ありありと分かる。

 初心な反応がかわいくない、といえば嘘になる。一方で、かわいいとか、そんなポジティブな感情は無関係に、テっちゃんと一緒にいる時間をさっさと終わらせたい、と思っているぼくがいる。


「テっちゃん、ぼくのおっぱい、触りたい?」


 えっ、っていう感じの顔になるテっちゃん。この「えっ」は、ぼくがテっちゃんって言ったことに対しての「えっ」。つまり、初めて見る顔なのに、制服にも鞄にも寺田テツキという名前は書いていないのに、この子はなんで俺の名前を知っているんだ? っていう、抱いて当然の疑問を抱いた故の「えっ」なのだけど、でもその疑問は、一瞬にして頭の中から飛び去ってしまう。

 入れ替わりに飛来したのは、「ぼくのおっぱい、触りたい?」という、さっきぼくが発したばかりの言葉。おっぱい、おっぱい、おっぱい、おっぱい――そのことしか考えられなくなる。

 顔見知りではない女子からテっちゃんと呼ばれたことの「えっ」から、「えっ? 揉ませてくれるの? おっぱい、マジで揉ませてくれんの? えっ? えっ? それ、マジで言ってんの?」という意味での「えっ」に表情を変更し、テっちゃんはぼくの顔を直視した。視線の先に待ち構えていたのは、おっぱいを熟視することを容認したときそっくりな、穏やかな微笑。再びGカップに視線を落とし、ごくり、と喉を鳴らす。

 じゃあ、遠慮なく、

 とはならない。周囲に目を向け、現在道を無数の学生が歩いている現実を我が目で確かめた彼は、膜の存在を認知できないので必然に、「いやいや、こんなシチュエーションでおっぱいを揉むなんて、とてもとても……」という顔になる。だけど、心と体は別個の生物だから、またもやおっぱいガン見。意を決して、おっぱいに触れるべく手を伸ばそうとするのだけど、実際には右手も左手もピクリともしない。女の子の目を見て話すのが苦手なテっちゃんは、女の子に触れるのが苦手でもあるのだ。


「ほら、早く」


 その言葉が引き金となり、テっちゃんの右手はぼくの意思によって動き出す。予定どおりの軌道――おっぱいに近づく軌道だ。

 動かしているつもりはないのに勝手に動くので、えっえっえっ、みたいな顔で戸惑っているうちに、右手はぼくの左胸をむんずと鷲掴みした。二秒遅れて、現状を認識、体温上昇・動悸・性器の膨張。おっぱい童貞の模範みたいなリアクションだ。

 テっちゃんは神の力の犬となって、可能な限り素早く力強く右腕を手前に引いた。ぷつん、という微かな音が立ち、ぼくの左胸はテっちゃんの右手とともにテっちゃんの胸の前まで移動した。簡潔に言うと、左おっぱいが胸部からもぎとられた。

 テっちゃんはなによりも先に、おっぱいがとれた事実を認識する。次の瞬間、隣のGカップが健在な分、やけに寂しく感じられる、Gカップの片割れがあったスペースに、ぼぎゅん! という音とともに新・左おっぱいが生えた。


「そんなに好きなら――」


 テっちゃんの右腕が病的に震え出した。腕の持ち主の意思を無視した振動だ。右肩から先の支配権を失ったテっちゃんは、おっぱい全般のことを完全に忘れるほど、途轍もなく嫌な予感を抱いた。

 次の瞬間、


「ユー、食べちゃいなよ」


 右手が猛然と持ち主の顔へと近づき、がぼん! と左おっぱいがテっちゃんの口に捩じ込まれた。半開きの口に半ばつかえたけど、右手がお構いなしにぐいぐい押し込むので、柔らかなおっぱいはぐいぐい口内に押し込まれていく。苦しげなテっちゃんの呻き声。

 でも、無理です。テっちゃんは押し込まれるおっぱいをどうにかすることはできないし、ぼくは押し込まれるおっぱいをどうにかするつもりは毛頭ないのだから。


 ねえ、おっぱい触りたかったんでしょ? 触るどころか、キスしているのに、どうして嬉しそうな顔をしないの?

 今のぼくは、そんな冷ややかでサディスティックな心境だ。あのね、テっちゃん。あなたの運命はね、もう確定しているの。


 がぼん! と捩じ込まれてから、数えていなかったから分からないけど、とにかく何秒かが経って、とうとうおっぱい全体がテっちゃんの口内に収まった。同時に、操られていた右腕が自由を取り戻す。完全なる自由だったにもかかわらず、おっぱいが押し込まれている間、文字どおりぶらぶらしていただけの左手の存在に、遅まきながらテっちゃんは気がつく。両の手を動員して、口内を満たすものを取り出しそうとするけど、ぴっちりと填まっていて目的を果たせない。紅潮した顔と、皮膚という皮膚から分泌され・垂れ落ちる汗と、くぐもった声で、苦しみを表現している。

 でも、テっちゃん、余裕あるよね? うーうーうーって言えているっていうことは、まだ余裕がある。そうだよね?


 特に合図もなにもなく、口内の左おっぱいが膨張を開始した。あっという間に気道が防がれ、うーうーうーがやむ。両手はゾンビのように中途半端に前方に突き出され、見るからに病的って感じで震えている。

 それでも膨張は止まらない。膨れ、膨れ、膨れ、顎関節が外れる音。それでも膨れ、膨れ、膨れ――。


 ばぎょべんっ!


 テっちゃんの上顎から上が、両頬の肉を勢いよく引きちぎりながら炊飯器の蓋のように開き、開いた勢いで頭部から外れて後方へ飛んでいった。膜の内側に当たり、頭頂部を下にして持ち主の足元に転がる。

 一方の下顎から下は、小さく震えながらも直立したままだ。邪魔な上顎から上が取り外されたので、口腔の様子がよく分かる。あ、舌って意外とおっきいんだね、みたいな。前歯は磨きすぎてうっすらと透けていて、付け根に微かに乳白色の歯垢が残存しているのも分かる。


「さて、と」


 場面と場面を繋ぐためだけにこの世界に存在する言葉を呟き、膜の外に出る。

 膜は解除しない。膜の内側は、外側とは違う法則が流れるようにしてあるから、テっちゃんこと寺田テツキくんの遺体は、永遠に現状維持。腐ることも、姿勢を変えることもない。永久的に、下顎から下の体は小さく震えながら直立し続け、上顎から上は自らの足元に凝然と留まり続けるのだ。膜の外側から内側にはぼく以外誰も干渉できないから、マジのマジでそのまま。この世界に数少ない、おっぱいを丸ごと口に含んだ男として、いつまでも・いつまでも、膜の内側で存在し続けるのです。


 校門の前では、若いとも中年とも分類しかねる男性教師が、学び舎の敷地に入っていく生徒たちに一々挨拶の言葉を投げかけている。仕事だから仕方なくという雰囲気を漂わせないように、という努力の気配は窺えるのだけど、「朝からつまんねー仕事させやがって」という思いがばっちり顔に出ている。顔にはなんとなく見覚えがあって、名前は全く知らなかったけど、今知った。中崎良彦先生。


「おはよー」


 校門を潜るぼくに向かって、中崎先生が声をかけてきた。そのタイミングで潜ったのがたまたまぼく一人だったから、ぼく一人に声をかける形になっただけなのだろうけど、目の前を通ったぼくの正体は神だと見抜き、何食わぬ顔を装って敬意を表明したような、そんな気もした。

 高慢な独裁者だって、誰かから称賛されれば「うむ」と頷いてみせる。それと同じように、ぼくは中崎先生に宛てて返信を送る。


「いえーい、神でーす。今朝はもう四人殺したよ。先生も殺さない?」

「殺すよ。当然殺す。でも、仕事が終わって、そのときも殺したい気分だったらね」


 しゃんとした佇まい、気怠そうな表情で、中崎先生は答えた。

 九十九・九パーセント、ぼくの力で言わせた台詞なのだけど、その事実に目を瞑って言わせてもらえば、


 他の大多数の人間とは違い、少しは期待できそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る