一家全滅

「お父さん、今までぼくに、散々セクハラまがいのことをしてきたよね」


 現在の安蔵は、「若葉の一人称は『ぼく』だと認識している」という設定だから、ぼくが自分のことをぼくと言っても困惑しない。急に現れた妻が急に爆発したことや、自分や若菜が驚愕しているのに若葉が驚愕していないことの方に気を奪われたから、ではなくて。


「単なる肉親でしかないくせに、恋人みたいに気安く頭ポンポンとか、『最近太ってきたんじゃないか?』なんて言いながら、お腹とか脇腹を触るとか。あと、干してある洗濯物をじーっと見ていたこともあったよね。お父さんには、ぼくの下着とお姉ちゃんの下着の区別はつかないかもしれないけど、あのときお父さんが見ていた白いショーツ、あれ、ぼくのだから。じろじろ見てるの、バレバレだからね。あの場で問い質していたら、『庭を眺めていただけ』とか、そういう拙劣な言い訳を口にしたんだろうけど、通用しないから。ぼくは神なんだから、通用するわけがない」


 そう、神。娘の下着をじろじろ見るような変態のオタマジャクシから、神は生まれたの。せいぜい誇りなさい、白倉安蔵。自分自身ではなく、自らが生成した白濁液を。


「お風呂には入ってこなかったけど、ドアの前でちょっと足を止めて、中の気配を窺っていたことが何回かあったよね。お風呂上りにリビングにテレビを観たりなんかしていると、特に用もないのにでしゃばってきて、ぼくや他の家族と無駄話をするふりをしながらぼくのパジャマ姿をじろじろ眺めるとか、そんなことも何回もあった。ぼくはお姉ちゃんと違って、セクハラ紛いの行為をされたときの対応はかわいげがあるし、寛大でもあったけど、嫌がっていないわけじゃないからね。それを勘違いして、調子に乗って……。いい加減にしろって感じ」


 台詞? まだまだありますが、なにか?


「あと、くちゃくちゃ音を立てて食べるのが嫌。こういうのって多分、っていうか確実に、一生矯正不可能だよね。あと、食べる繋がりでいえば、食事を初めてから終わるまでが早すぎでしょ、いくらなんでも。終戦直後、食糧難の時代に生まれた父親の影響とかなんとか、事あるごとに言い訳してるけど、おじいちゃん、食べる速度は普通だったから。むしろ、毎日三回食事ができることに感謝して、噛み締めるようにゆっくり食べてたから。歳をとって、ものを呑み込む力が衰えてからは特に。がつがつくちゃくちゃぺちゃぺちゃ、アホみたいに音を立てて食いやがって。きったねぇんだよ。犬かよ、お前。おいオッサン、聞いてんのか」


 安蔵はノーリアクションだけど、話を聞いていることが手にとるように分かる。だから、平気で話を続けちゃう。


「あと、外から帰ってきたら、靴くらいちゃんと揃えろ。それから、他人の意見に対して『いや』って否定から入る癖、不愉快以外のなにものでもないからやめろ。それと、電話で話すときの声がうるさい。もう一つ食事関連でいえば、箸とか茶碗とかは静かに卓上に置け。あと、家を出るのが一番早いんだから、ゴミ袋の一つくらい集積場まで持っていけ。白倉家で力仕事に最も相応しい体格と体力の持ち主なのは、お前だろうが。時間をとられるわけじゃないんだし、それくらい手伝えよ。家事は女の仕事って、お前の価値観は大正時代基準か? 大した稼ぎじゃないんだから、仕事以外の労働もしろよ、ウスノロ」


 台詞が一通り終わったところで、安蔵へと右掌をかざし、


「どぐぼわぁん」


 ぼく以外の誰にも聞こえない声を発すると、安蔵の右腕が肩口から消滅した。物理的な力を内あるいは外から加えられたことによって消し飛ばされたのではなく、消滅という現象が起きた結果の消滅。当該部位のみ不可視になったとか、別空間に転移したとかではないから、切断面からは当然、血潮が流出。激烈な痛みが安蔵を襲う。


「おおおえあうおああいおうえあお……」


 ア行だけで呻き、左手で傷口を押さえようとしたけど、五本の中の一番長い指=中指が、右腕の切断面=傷口に接触する寸前、右腕と同様、左腕も肩口からすっぱりと消滅する。いきなりの消失・痛み、からの、いきなりの消滅・痛み。その結果の、痛みに接触可能なツールの喪失。痛いやら訳が分からないやらで、安蔵はもはや呻吟する以外にない。


「うおあおえいうおおう……」


 なんでア行だけで呻くんだろうな、滑稽だな、永遠に眺めていたいな。

 なんて呑気なことを言っている場合じゃない。ぼくはテンポよく安蔵を処刑したいのだ。


 安蔵の両脚が付け根から消滅。四肢を失った体は宙に浮いた状態となり、このまま浮かべておくのも面白いかな、なんて思ったけど、やっぱり却下、俯せに床に倒れる。頭をぼくに向ける形だ。虚空の低い位置からとはいえ、床に落下した影響だと主張するように、四か所の傷口から溢れる出血量は急に増し、だばばばばばー、って感じで、フローリングの床の上を広がっていく。出血の勢いの割に、広がる速度が緩慢だ。それでいて、放っておけば際限なく広がっていきそうな、あらゆる意味での粘り強さ、みたいなものを感じる。


 安蔵の体が縦に二等分になる。切断された瞬間は滑らかだった切断面が途端に崩れ、内臓や血が体外へと流出する。生を維持するために必要不可欠な器官がことごとく真っ二つにされて、普通なら即死だけど、安蔵は死なない。普通の人間では決して味わうことができない未曽有の痛みに、眼球を突出させられるだけ突出させ、二つに分かれた体を仲良く震わせている。


 安蔵の左半身が忽然と消失した。置いてきぼりにされた右半身は、両脚が健在だったときの安蔵が直立した場合の鳩尾のあたりまで浮上すると、その場で縦方向に回転を始めた。初めは四秒で一回転だったのが、一回転するごとに徐々に速度を上げていき、二十五周する頃には一秒で四回転するようになった。

 あおあうえあ、とかなんとか言っていたのは五周目の途中までで、以降は無言での回転だ。一回転ごとに変化しているのは体型もそうで、鼻や耳や頭や腹や股間といった、出っ張った部分が次第に削れて、あるいは引っ込んで、もしくは均されて、全身から凹凸が減少していく。


 回転終了。


 安蔵は今や、ラグビーボールそのものの形状、ラグビーボールよりも一回り大きな物体となって、宙に浮かんでいる。顔も首も胴体も区別がつかないけど、耳と目はちゃんと一つずつついている。回転前は二等分にされていた鼻と口は、今では一個の小さな鼻と口だ。ただし、鼻孔は一個しかない。お得意の呆然ともまた違う、きょとんとでも形容するのがぴったりの表情で、ぼくを見つめている。


 愛想よく微笑み返すと、ラグビーボールの上方から安蔵が生えた。身長約十センチ。一糸まとわぬ姿で、突き出た腹とか、濃いめの体毛なんかが妙にリアルだ。フラミンゴのように一本足で直立し、腕を組むというポーズをとっている。上下の唇はぴったりと合わさり、無表情。客観的に見れば、思わず笑ってしまうような光景、ということになるのだろうけど、実際はそんなことは全然なくて、触れれば弾かれそうな雄々しい生命力を感じる。

 どむん、という音がして、ラグビーボールがほんの少し小さくなった。どむん、どむん、どむん。一回どむんが聞こえるたびに、安蔵の体積が着実に減っていく。どむんの音源は小さな安蔵みたいだけど、彼は腕組み・一本足の姿勢のまま、身じろぎ一つしていない。ただし、どむん一回につき、肥えた腹が生き物のように波打っている。小さくて分かりにくいけど、一回波打つたびに、腹の突出の度合いが微妙に緩和されていっているように見える。どむん、どむん、どむん。


 ああああああ、という、譫言のような呻き声が口から漏れ始めた。ミニ安蔵ではなく、ラグビーボールと化した安蔵の口からだ。あああとどむんによる、息ぴったりの合唱。体が小さくなるのに比例して口も小さくなるから、あああの音量は次第に低下し、あっという間にどむんが優勢になる。ラグビーボールのサイズが、どむんが始まる直前と比べて半分以下になったときには、どむんというメインの音にあああというノイズが混じる、という状態になった。醜く突き出ていた腹も、少しで出ているかな、程度に落ち着いている。

 やがて、ラグビーボールは拳大になった。


 どむむんっ!

 一際ボリュームが大きいどむんとともに、ラグビーボールは消滅。宙に孤立した、すっきりとしたお腹回りの安蔵は、無表情のまま、ぼくに向かって右手の親指をぐっと突き立てた。それを合図に全身が見る見る薄れていき、最後のどむんから六秒後には跡形もなく消え去った。ラグビーボールの形になった安蔵と、小さな安蔵がいた場所には、特筆するべき点のない虚空が広がっている。


「あああああああああ……」


 また、あああ。今度あの羅列を発声したのは、白倉若菜。上体を約四十五度、奇しくも安蔵が爆発に驚いて反射的に引いた上体の角度と同じだけ上体を傾けて、両腕を真っ直ぐに伸ばして両手を床に突き、直角に膝を曲げた両脚を肩幅に開いた、という姿勢。顔面と唇の色は白色に近く、全身は震度三って感じの震え方をしている。股間の下に広がっている、直径三十センチほどの臭い水溜りは、言うまでもなく尿だ。


 恐怖している。それって、つまり、


 若菜は驚くべきことに、若子登場から安蔵処刑までの僅か数秒間で、目の前で起きている一連の超常現象を紛れもない現実だと認め、現象を引き起こしたのはぼく=妹=白倉若葉だと理解し、普通なら発狂するところを持ち堪え、「あああああああああ……」という譫言を垂れ流すだけに留めているのだ。

 あの常識人の若菜が、この非現実的な力を。

 誰がなんと言おうと、これは凄いことだ。そして、ぼくの胸を支配する感動は、嘘偽りなんかじゃない。


 目を合わせると、顔を占めている恐怖の色が爆発的に濃くなり、蛇口をキュッと閉めたように「あああ……」が途切れ、肩が大きく跳ね上がった。肩が取り外し可能だったとしたら、月まで飛んでいっていたかもしれない。


 若菜、あなたは凄い人間です。心の底から凄いと思えた人間は、神だと自覚してからはあなたが初めてです。ご褒美に、


「速やかに処刑してあげるね」


 宇宙史上最高の笑顔。少し開いた唇の隙間から右手の親指と人差し指を突っ込み、前歯の一本を引き抜く。新たな歯が直ちに完全な状態で生え、引き抜いた前歯は二本の指の間で直径一・五センチの闇色の鉛玉に変形する。指を離すと、玉は宙に固定されている。

 右手の親指の腹と中指の爪をくっつけ、人差し指と小指を獣の耳のようにピンと立て、薬指を中途半端に斜めに突き出す。それを鉛玉の前まで持っていく。


 一方の若菜は、ぼくが口にした「処刑」の意味を七十パーセントくらいしか呑み込めていない顔をしている。両親に続いて自分が殺されることを、百パーセント信じ切れていない。凄いのは確かだけど、所詮は人間の中での話、というわけだ。


 それじゃあ、


「ばいばい」


 中指で鉛玉を弾く。闇色の球体は虚空を切り裂いて一直線に若菜の顔面へと突き進み、眉間に直撃。ぼぅおっ、という声が口内から押し出され、鉛玉は後頭部から体内を抜け、住宅の壁を突き破って外へ飛び出し、ここではないどこかを目指して飛んでいった。若菜は「あ・あ・あ」という、「ああああああ……」と似て非なる声を微かに漏らしていたけど、三秒後にぷつりと発声をやめ、背中から床に倒れた。

 間を置かずに、命を喪失した肉体が虹色に輝き始めた。そうかと思うと、同色の無数のビー玉へと変形・分裂、遺体があった場所を中心点にして四方八方に緩やかに転がっていく。気を利かせて、ビー玉の元の姿が排泄した尿、並びに床の埃は瞬時に完璧に取り払ったので、穢れることはない。見る角度によって微妙に色や輝き方が変化するそれらは、神の目から見ても美しい。

 やがて全ての玉が運動を停止した。ダイニングをキャンバスにした一幅の絵、といったところだろうか。タイトルをつけるなら、

 一家全滅。


「さて」


 元は姉だった無数のビー玉に背を向ける。ビー玉は美しいけど、ぼくが見たいものは他にもある。


「行くぜ、中学」

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