父親召喚

 リビング・ダイニング・キッチン。一続きになっている空間の天井から、無数の細かい粒が降ってきた。青、水色、緑、黄緑。粒は以上の四色、あるいはそれらの中間の色を淡く帯びていて、照明の光に反射して控えめに煌めく。

 粒は天井のあらゆる地点から生じ、無風の虚空を落下する粉雪を思わせる軌道で下方へ向かい、人体を含むあらゆる物体をすり抜け、痕跡を残すことなく床に吸い込まれていく。常人は視認不可能、可能になったとしても色つきの粒にしか見えないそれは、わたしの目にはディティールまで明瞭に視認できる。降る様を雪に例えたが、形状はまさしく雪の結晶だ。降雪が少なく、積雪は一年に一回あるかないかという地域に住んでいるので、春の終わりにこんなにも大量の雪もどきを見せつけられると、淡く心地良い戸惑いに胸が満たされる。


 若菜は怒りの表情を見せているが、ぶつけてこない。ぶつけようとしているのだけど、時間の流れが凄まじく遅くなったため、思いとは裏腹にぶつけるに至らないのだ。偏に、現在進行形で降っている、雪と似て非なる物体の働きによって。


 お父さん。

 ぼく=白倉若葉の父親っていう設定の中年男、白倉安蔵やすぞう


 職業は会社員で、出版社に勤務。妻・若子よりも四歳上の四十四歳。結婚したのは二十七歳のとき。一年後に長女・若菜が生まれ、その三年後に次女の若葉が生まれた。娘の名前が似通っているのは、姉妹だから意図的に似せた、ということではなくて、初子の懐妊が発覚した時点で、「生まれてくる子が女の子だったら若子の名前から、男の子だったら僕の名前から、一字をとって命名しよう」という取り決めを若子と交わしていたから。結果はというと、この世界の全存在がご存知のように、初子は女の子=若菜でした。三年後に再び妻の妊娠が判明したときには、女の子の次は男の子が欲しいという、有り触れたちっぽけな願望を、あまり口には出さなかったものの、比較的強く抱いていた。妻=白倉若子の股の穴から出てきたのはというと、この世界の全存在がご存知のように、のちに神だと自覚することになる若葉=ぼくでした。若菜に受け継がれたように、あまり本音を口に出さない人だから、あまり口には出さなかったものの、二人目も女の子だったことに落胆を覚え、残念だと感じたのは、歴とした事実だ。そもそも、二人子供を作る程度に愛し合っている二人が、双方合意の上で制定した、「女の子なら若子から一字、男の子なら安蔵から一字をとって命名する」というルール。あれは、生まれてくる子供が男の確率が二分の一なら、女の確率も二分の一という意味で、一見平等に思えるけど、実際は若子にとって不平等以外のなにものでもない。というのは、若子も安蔵も文字数は同じ二文字だから、そういう意味で平等と思いがちだけど、ちょっと待って。若子の後半の一字は、子。子というのは、人名のしっぽにくっついて「女の子らしさ」を表現する記号のようなものなので、それ単体での個性はないに等しい。なにが言いたいのかと言うと、子の一字を採用したとしても、「『若子』という名前から一字をとったんだなあ」という実感を抱きにくい。つまり、若子が使える文字は、実質的には若のみ。安蔵は安も蔵も使える――名前に使用する候補が二字あるのに、若子は一つ――若の一字しか使えない。まとめると、若子は若子という名前であるが故に、「女の子なら若子から一字、男の子なら安蔵から一字、名前に取り入れる」というルール適用下における、命名の自由度が著しく低い、ということだ。低い自由度の中で考えに考え抜かれた名前が、この世界の全存在がご存知のように、若菜と若葉。菜と葉、植物関係で統一したのは、いかにも姉妹らしくて好感が持てるけど、発音も字面も似ていて紛らわしい。自由度の低さの弊害が表れていますねって感じの、及第点には達しているかもしれないけど、満点と採点する者は少ない、そんな結果になった。じゃあ、名付けられた張本人たちはどう思ったかというと、姉・若菜は、なんといっても常識人だから、発音や字面の相似という些末なデメリットよりも、両親の想い、即ち、「愛する我が子を想って、性別が同じ親の名前から一字、あなたに託しましたよ、命の継承ですよ」的な、静かだけど熱い想いという、陳腐といえば陳腐だけど、一般的かつ常識的な、一般的かつ常識的には尊重すべきものを、常識人らしく尊重させることを優先し、そんな些細なことは全然気になりませんよ・気にしていませんよ、という態度を表向きは見せた。心の中でも、「百点満点ではないけど、名前なんてものは容易に変えられるものではないし、両親の想いが込められているものだから、細かいことを言えばキリがないし、不満があるというほどでもないかな」という感じで、殆ど気にしていなかった。若葉も、「姉妹だからって似たような名前つけないでほしいな」とか、「イマドキ、親の名前から一字もらうのって、どうなの?」とか、思春期の最初期には思ったりもしたけど、成長するともに青くさい思考から距離を置き、自分の名前に対して不平不満を抱くことはなくなった。要するに、結果オーライだったわけだけど、でも、客観的に見ればいささか前時代的な、ざっくりした言い方をするなら、おかしな制約だったのは間違いないだろう。おかしな制約の中、名前を与えられた姉妹の片親こそが、ぼく=神=白倉若葉がついさっき存在を思い出した、白倉安蔵。下の名前に使われている二つの漢字をどちらも使えるという、若子と比べれば圧倒的に強力な権利を持ちながら、生まれてきたのが二人とも女の子で、子作りを計画した当初から三人目を作る予定はなく、二人目=若葉が女の子という結果を受けても、予定を変更しようという気持ちにも、制約を破棄しようという気持ちにもならなかったため、せっかくの権利が宝の持ち腐れになってしまった、かわいそうな安蔵。ウォーキングと日曜大工という、健康的な趣味が全く功を奏していない肥満体型で、好きな食べ物はチーズを使った料理と、体型に見合った嗜好の持ち主だ。学生時代の得意科目は国語。猫好きを自称しているが、幼少時から一貫して飼育経験はない。普通車の運転免許を取得したのは二十三歳のとき。三年前に横浜に出張した際に、当時世間で流行の兆しを見せ始めていたフクロウカフェへと赴いたが、生憎定休日で、「どうせフクロウなんて、猫よりはかわいくないし、愛想も悪い」と、葡萄を食べ損ねた狐のような捨て台詞を吐き、以来なぜか、家族には内緒で一か月に一回のペースで足を運んでいた猫カフェにもぱったりと行かなくなった。一回来店ごとに一個スタンプを押してもらえ、十個溜まると次回の利用料金が半額になるカードも、猫のイラストのスタンプを六つ捺印したまま、安っぽいデザインのチョコレート色の財布の内側で半永久的な眠りに就くことになってしまった。


 そんな白倉安蔵=お父さんの存在を唐突に思い出したので、さあどうしよう、っていう話。


 若子をあんな目に遭わせて、若菜もあんな目に遭わせようとしているのだから、お父さんもセットで。そう考えるのが普通だけど、神は人間を超越するから、お父さんだけは助けてあげる――と言いたいところだけど、逆を選んだのでは、それ、人間の思考。神は人間を超越する存在だから、人間の思考も超越して、逆の逆、お父さんも処刑することに決めた。というより、地球が誕生する前から決まっていた。そんな感じだ。

 今の時間帯、安蔵は通勤途中だ。電車に揺られているのか、駅で電車を待っているのか、徒歩で移動しているか。そのいずれかだろうけど、いずれでも構わない。肝心なのは、いかにして呼び寄せるか。


 時の流れが極端に遅くなったので、時間には余裕がある。電話で連絡を入れる、という選択肢が真っ先に浮かんだ。


 安蔵の携帯電話に電話をかけて、「今どこ? 電車?」って訊いて、安蔵は肯定して、電車の中でも駅のホームでも道の上でも、安蔵という存在の現在地なんて、あらゆる意味でどうでもいいけど、「なにかあったのか」って無駄にシリアスな声で訊き返してくるから、「急用ができた」って答えると、安蔵は急用の詳細について訊き出そうとしてくるけど、あえて詳細をぼかして、あくまでも「いいから帰ってきて」って切迫感溢れる、鼻にかかったような懇願の声で繰り返せば、家庭・家族の危機にも女の頼みに弱い安蔵は、「分かった、すぐ戻る」って答えて自ら通話を終わらせて、来た道を後戻りして白倉家まで帰還する。


 でも、神だと自覚してから五千万回目になるけど、神なのに人間みたいな行動をとるってどうなの? って思う。雪もどきの賜物である、時間が流れる速度の低下を、必ずしも有効活用しなければならないわけではない。神の手にかかれば、一旦降り止ませて再び降らせることだって、赤子の手を捻るくらい容易いのだし。


 若菜の顔を改めて見返す。

 瞬間、アイデア降・臨。

 処刑される者同士、若菜に呼んでもらえばいい。


 雪もどきが忽然と消え失せ、時間の流れが回復する。若菜の両手を操り、メガホンみたいに口の横に配置させる。自分の力ではどうにもならない力に自分の体を操作されて、常識人・白倉若菜は「驚愕ッ!」って顔をしている。

 でも、驚きの声は発させてあげない。

 若菜は大きく息を吸い込み、自らの意思ではない意思に突き動かされて、大声で叫んだ。


「お父さん!」


 食卓上空の空間が、うねうね・ぐにょぐにょ、と蠢き始めた。まるで鉄板で熱せられた無数の蛇みたいに。

 若菜は大口を開けて、うねうね・ぐにょぐにょを唖然と眺めている。唖然としながらも、うねうね・ぐにょぐにょから決して目を離さない。


『な、な、なんて非常識な現象なの! でも、きっとなんらかの説明がつくはずだから、正体を見極めなければ!』


 心境を表すとすれば、そんな感じだろうか。発言権は既に返してあるのだから、言いたいことは言えばいいのに、って思うけど、彼女はそういう性格なのだ。


 二つついている瞳の一方でうねうね・ぐにょぐにょを、もう一方で若菜の顔を、それぞれ凝視する。うねうね・ぐにょぐにょと歪み・蠢いている景色が、次第にマリンブルーに染まり始めた。西の空が夕焼けに染まりゆく映像の青色バージョン早回し、みたいな変化・変色だ。

 やがてマリンブルーは、これ以上濃くなると別の色になる、というレベルの色合いに到達するとともに、変色を停止した。夕焼けなら夜へと移り変わるけど、その変化は起きず、代わりに聞こえてきたのは、ごおおおおおお、という異音。青色は空洞で、音はその奥から響いてくる。吸引力が弱い掃除機の吸引音にも似た音だ。じゃあ、空洞の外側の世界、つまりぼくや若菜がいる世界に存在するなにかが吸い込まれているかっていうと、そうじゃなくて、逆に空洞の中からなにかが迫る気配。


 なにかの正体は、神であるぼくは瞬時に把握したけど、素知らぬ顔をして出現を待ち受ける。気配の接近は若菜も感じているらしく、濃くはないけど確かな恐怖の色を滲ませて、真剣な顔つきで、うねうね・ぐにょぐにょを凝視している。

 極まったマリンブルーの空洞の内側から、艶やかな黒い物体の一端が覗いた。出来損ないの掃除機の音が停止する。ごくり、と若菜が唾を呑み込む音。嚥下された唾の塊が食道を下っていくのが確かに見えた。若菜は口を開き、ぼくの予定どおり、再度叫んだ。


「お父さん!」


 空洞から白倉安蔵が現れた。頭を上、足を下にした、直立不動の姿勢で。

 落下地点は食卓の中央。黒光りの正体である革靴の底が天板に接した瞬間、その家具は跡形もなく消滅した。白倉家の大黒柱は、三秒ほど宙に留まり、落下して床に足をつける。着地音、なし。姿勢は相変わらず直立不動で、辛うじて頭頂が空洞の外に出ている。

 安蔵を吐き出し終えると同時、空洞は消え去った。うねうね・ぐにょぐにょ以前にそこにあった食卓上空の景色が、先程まで空洞が存在していた領域を満たした。

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