姉と対峙する

 卵料理で騒がしい食卓の上を一瞬にして更地にする。あがいなくなったのも相俟って、朝らしい、すっきりした眺めになった。気持ち的には、このまま中学校へレッツゴー、って感じだけど、予定変更。


『なにかにつけてお姉ちゃんと比較するの、凄くイラつくんだけど』


 というわけで、お姉ちゃんもお母さんのところへ行ってもらいます。


 階段を下りる足音。ああ、そこから来たのね。全知だから、驚きはないのだけど、意外性は感じているっていう、とても不思議な感覚だ。

 普通に階段から下りてきたお姉ちゃんは、普通にダイニングのドアを開けて普通にわたしの視野に登場した。白倉若菜。十六歳。高校一年生。わたしと違って、早くも制服に着替えている。要するに、それがお姉ちゃんの性格だった。血が繋がった姉妹だけあって、外見はよく似ている。背が少し高い、目つきが悪いわたし、それが若菜だ。

 既にダイニングにいるわたしを見て、「へえ、珍しい」みたいな、見下し気味に意外そうな顔をする。でも、「若葉にしては早いじゃない」とか、そういう言葉をかけてくる人じゃない。神の力を使って言わせることもできるけど、別に言われたくない。


 白倉若葉は両親から、特に母親から、姉と比べられることを嫌悪していた。若菜は思ったことを一から十まで口にするキャラじゃないから、本格的な戦闘が行われることこそなかったけど、姉妹の仲は良好ではなかった。なぜなら若葉は、姉の思ったことを隠す性格にもムカついていたから。


 目先の意外な光景に気をとられて、いつもなら朝食の準備をしているはずの母親がキッチンに不在なことに、聡明な若菜には珍しく気づいていない。あと六秒で、若菜はわたしに挨拶をする。三、二、一、


「若葉、おはよう」


 感情はこもっていないけど、親しき者にも礼儀ありと憤慨されないよう、絶妙に計算された声。わたしはそれを、強いて無視する。無視されたことに対して、若菜は特にリアクションを示さずに食卓へと歩を進める。

 だけど、悲しいかな、ただ言わないだけで、なにも感じていないわけじゃない。そして、全知全能の存在だと自覚したわたしには、彼女の心の中が手にとるように分かる。


 なに無視してるの? 癪に障る子ね。私が嫌いなら、別に挨拶なんてしなくてもいいけど、そういう態度をとると自分の品位を落とすだけよ? 今はお母さんもお父さんもいないけど、私の若葉に対する評価は確実に下がりました。品位といえば、その下着七十パーセントみたいな服、朝ご飯のときに着てくるの、やめてくれない? 下着が透けて見えていて、凄く下品なんだけど。お父さん、あなたがそういうだらしない恰好をしているとき、あなたの体をじろじろ見ているのよ? あなたはそれに気づくと、「お父さん、汚い! 臭い! 変態!」みたいなことを言うけど、どう考えてもお父さんじゃなくて、そんな格好で人前に出る若葉の方が悪いから。非は明らかにあなたにあるから。今後は気をつけた方が――って、どうせ人の話なんて聞かないよね、若葉は。自己中心的な性格だから。あーあ、朝から妹の心配なんかして、馬鹿馬鹿しい。馬鹿は放っておいて、さっさと朝ご飯を食べよっと。


 とまあ、こんな感じで、わたしを自分よりも劣った人間、見下すべき存在だと認識しているわけだけど、


 でもお姉ちゃん、わたしの髪の毛が白いことも、身長はお姉ちゃんよりも高いことも、おっぱいが大きいことも、貴婦人の盛装みたいな真っ白なドレスを着ていることも、お母さんを食べたことも、わたしが神だということも、何一つ知らないよね?


 そう思うと、所詮は人間でしかないお姉ちゃんのことが哀れに思えてくる。


 ダイニングの異常に気がつく一秒前に、魔法をかけ、異常に気づけない体質に瞬時に作り替えた。だから若菜は、食卓にはなにも置かれていないのに、三人の分の朝食が用意されていると認識し、自席に着く。ご飯、沢庵、卵焼き、味噌汁、お茶。こんな場面でオリジナリティを発揮したくないし、面倒くさくもあったので、若子が本来用意していた朝食が用意されている、という設定にしておいた。

 朝食が用意されていると認識し、母親の不在を雀の涙ほども異常と思わず、朝食を食べるためにダイニングまでやって来たのだから、着席した若菜は当然、存在するはずのない箸を平然と手にする。卵焼きが入った平たい皿を少し手前に引きよせ、縁に軽く左手を添え、三口分ほどの大きさに切られた中の一切れを箸でつまむ。一口かじり、咀嚼する。口の中が空になったところで、箸を卓上に置き、湯呑みを両手で持ち、熱い緑茶を一口。元の場所に戻し、再び箸を掴む。沢庵をかじり、ご飯を一口食べ、また卵焼きを口に入れて、またご飯。

 料理の実体はない。つまりエア食事なわけだけど、食事をしている当人はあると思い込んでいるし、食感や味や満足感はきちんと覚えているので、器の持ち方・箸の操り方・口の動かし方、それら全てが驚嘆するべきリアルさだ。


 馬鹿げたことを真面目にしている人を見ると、束の間厳粛な気持ちになったあとで、その人のことを思い切り馬鹿にしてやりたくなるものだ。わたしの外見の変化に気づいていない事実を噛み締めたときと同様、心の中で大いに憐れんでもおかしくない場面だったのだけど、そんな気分にはなれなかった。若菜の箸の持ち方や動かし方が、途方もなく美麗なことに気がついたからだ。

 今日という日を境に、急にそうなったわけではない。箸を普通に扱えるようになったときから、若菜は箸の使い方が途方もなく美麗だったのだ。その事実に、今までわたしが気がつかなかっただけ。神だと自覚して、知覚を並外れて鋭敏にできるようになって、初めて気がついた。

 なんとなくしんみりしてしまったけど、だからといって、当初の方針が変わるわけではない。


 異常に気づかない設定の若菜は、ダイニングの中途半端な場所に突っ立っているわたしを無視して、わたしのことが嫌いだからではなく無視して、行儀よくエア食事を継続している。実在しない卵焼きの最初の一切れの全てが、今、胃の腑に消えた。


 お姉ちゃん。


 神だと自覚する以前の白倉若葉のつもりで声をかけようとした瞬間、若菜がわたしの顔を見た。そのときには、「食卓周辺の状況とわたしの外見を除けば、異常を正常に認識できる」という設定に切り替わっている。食事の準備ができているのに、食事をするどころか、席に着こうとしていないわたしのことを、異常だとちゃんと認識できるようになっている。存在しない箸を動かす手が止まり、存在しない味噌汁が入った存在しない椀が虚空に固定され、眉間が心持ち狭まった。

 常識人の白倉若菜は、自らが定義する「常識から外れた状態」のわたしに気がついた瞬間、軽度だけど確かな不快感に突き動かされて、わたしに一言注意しようとする。それよりも早く、


「お姉ちゃん。前々から思っていたんだけど」

「えっ?」


 若菜の顔に驚きと戸惑いの色が浮かんだ。

 若葉であれば「前から」と言うところを、あえて「前々から」という言い方をすれば、聡い若菜ならば確実に違和感を覚えて、「えっ?」とかなんとか呟いて、なにかが始まろうとしている予感を抱くだろう、という計算のもと、「前々」という言葉をわざわざ使ってみせた。

 そんなことは知る由もない白倉若菜は、予定どおり「えっ?」と聞き返し、それに対してわたしは、予定どおりの言葉を返すのだ。


「えっ、じゃねーだろ、このブス」


 そんな汚い言葉、天地が引っくり返っても、若葉が私に対して吐くはずがない。そう思い込んでいるお姉ちゃんは、案の定驚愕している。でも、天地が引っくり返ってもというのは、あくまでも神だと自覚する前の白倉若葉ならば、の話。

 そんなことも分からないお姉ちゃんは、かわいそうだな。馬鹿だな。少なくとも、馬鹿だと自力では気づけない程度には馬鹿。馬鹿だと気づかせてあげたいけど、その前に、散々馬鹿にしてやりたいな。

 そんな欲求を覚えないでもないけど、人間相手にムキになっても仕方ないし、感情的になると必然に相手も感情的になって、場がゴチャついて煩わしくなるから、その手には乗りません。神なのだから、乱れた場を一瞬で平定することも可能なのだけど、神の力を頻発するのはある意味神らしくない気もするし、神にだって面倒くさいと思うこともある。わたしは神だと自覚して間もないから、特にそうだ。

 というわけで、スマイル、スマイル。お姉ちゃんが、敬わなければいけないけど尊敬はできない立場の人間に対してよくやるような、若干作り物くささが残るけど、それ以外には取り立てて欠点のない、清潔感のある笑みをわたしは浮かべる。


「あ、ごめん。今のは単なる独り言。でね、前々から思っていたんだけど」


 言葉が口外へと送り出されるテンポは心持ち早い。勝手に唇が動いて、勝手に言の葉が流れ出すような、そんな感覚。


「お姉ちゃん、ぼくのこと、内心馬鹿にしてるでしょ。馬鹿にしてるのに口に出さないのって、馬鹿にしてるっていうことをストレートに表明するよりも、恥ずかしくて・失礼で・馬鹿げたことだと思う。そういうお姉ちゃんの態度、ハッキリ言って、凄くムカつく」


 若菜の眉間に怒気が滲む。お姉ちゃんはどちらかと言えば我慢強い方だけど、常に礼儀正しく真面目に振る舞うが故に、誰かから罵倒される機会は少ないので、悪口への耐性は存外脆弱だったりする。怒りに囚われるあまり、一人称がわたしからぼくに変わったことに気づいていない。

 で、相手がこちらの土俵に上がってきたところで、本題です。


「ぼくに謝って。ただ頭を下げて『ごめんなさい』って言うだけじゃなくて、土下座して謝って。そうしてくれたら、これまでのことは水に流して、昔みたいに仲良しでいてあげてもいいよ」


 若菜の全身が微震を開始する。常識人の彼女には、目下の人間にいきなり土下座を命じられるという不条理は、到底許容できないことだからだ。換言するなら、「私、謝らなきゃいけないことをした覚えはないよ? いきなりなにを言い出してるの? 非常識で、不条理で、非合理にも程があるでしょ」と思った、ということを意味する。

 合理とか、条理とか、常識とか、そういう思考回路がムカつくの。

 そう言い返したところで、食卓の上以外の異常に対する感度が元通りになっているのだから、「えっ、なに? 若葉、なんで私の心の中を読めているの?」という反応が示されるだけだ。繰り返しになるけど、場がゴチャつくのは避けたい。回避するための方法は無限に存在していて、無限の選択肢の中からなにを選ぶか、という局面にわたしは立たされているわけだけど、


 選択を完了するよりも先に、思い出した。

 お父さんのこと忘れている。

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