あ
鏡の外の世界はとても明るかった。ダイニングだ。隣り合うキッチンから、リズミカルな包丁の音が聞こえてきて、青っぽい匂いが漂ってくる。
朝食作りに勤しんでいるのは、わたしの母親=白倉若子。「高校生と中学生の娘がいる」と赤の他人に紹介したら、よくも悪くも「ああ」っていう反応が示されること間違いなしの、なんの変哲もない中年のオバサンだ。
中年太りをしているから若干幅が広めだけど、背が低いのでそこまで大きくは感じない背中を見つめながら、わたしは彼女の呼称について考える。人間のままだったら、普段どおり「お母さん」でいいのだけど、神だと自覚したのだから、「お母さん」のままなのは不自然じゃない? と思ったのだ。鏡に映るわたしをどう呼ぶかについても悩んだし、神はネーミングに悩む宿命を背負っているのかもしれない。
神だから、他人行儀に「若子」? 「お母さん」からいきなり「若子」というのは、正直ちょっと違和感があるかも。じゃあ、「奥さん」? んー、なんか違う。いっそのこと、普段どおり「お母さん」にしておく? でも、それだと、わざわざ考える時間をとった意味がなくなっちゃう。神だから、時間を戻すとか余裕だし、気に病む必要はないのだけど、でもなあ。
結局、白倉若子は「あ」と呼ぶことにした。理由は至ってシンプル、短いからだ。
あくまでも人間の常識を厳守すると、あがなにを切っているかは位置的に見えないのだけど、衣服・肉・骨・その他諸々を透過して手元を見ると、ネギだと一目で分かる。料理に彩りと風味を添える、全体が緑色な方のネギ。
驚きなのは、あはネギを異様なほど大量に刻んでいるけど、他の作業は一切していない、ということだ。鍋でなにかを煮込んでいるとか、食材を冷蔵庫の外にスタンバイさせているとか、そんなことは全然していない。冷ややっこの薬味かな、味噌汁に入れるのかな、それとも卵焼きの具材として――って、なにも作ってないのかよ、おいぃい! みたいな。
神のわたしも、これにはちょっと驚いた。猫の額ほど、っていう表現でいいのかな。本当の本当に、そのくらいは驚いた。
さて、ネギを刻み続けるあを、わたしはどうしよう?
食べなくていい体になったから、永遠に完成しない朝食の完成を待つ必要はない。中学校へ行くのが当面の目的なのだから、ネギオバサンのことなんて放っておいて家を出る、っていうのが賢明な選択なのだろう。でも、胸に手を当てて考えてみるまでもなく、白倉若葉はあに恨みつらみがないわけでもない。
というわけで、とりあえず、
「お母さん」
あと呼ぶつもりだったのに、結局いつもどおりに呼んじゃったな、なんて呼ぶ前から早くも思いながら、呼びかけた。包丁の音がやみ、あは肩越しに振り向く。
鏡の中から出た瞬間から、ぼくは他の人間から、普通の白倉若葉に見えるようにしてある。普通っていうのは、白いドレス姿ではなく、TPOに応じたありのままの若葉ちゃん、ということ。
普段の若葉であれば、今の時間、つまり朝食を食べに一階に下りてくるときは、傍から見るとちょっとだらしないけど、家の中だし、食べ終わったらすぐに制服に着替えるからまあいいか、レベルの服を着るのだけど、今もそういう設定にしてあるから、あの目にもそう見えているはずだ。というか、全知全能のわたしに失敗なんて有り得ないから、絶対にそう見えてます。
「若葉、おはよう。今日は早いわね」
家族向けのほどよくリラックスした笑みを浮かべ、三流脚本家が書いたホームドラマに出てくる台詞みたいな言葉を吐いた。全知全能だから当然こうなるわけだけど、安心したか否かと問われれば、確実に前者だ。
安心したついでに、掛け時計の文字盤を確認。午前六時三分。うん、確かに。
「ごめんね。まだ朝ご飯できてないけど、あと五分もすれば完成するから、座って待ってて。大急ぎで作るから」
っていうか、ネギを刻んでいるだけですよね。大丈夫? 本当に五分で完成するの?
声ではない声で呼びかけると、あ自身は聞き取れなかったようだけど、ガスコンロに味噌汁入りの鍋が忽然と出現して食欲をそそる味噌の香りが漂い出し、隣には明太子とチーズが入った卵焼きが入った卵焼き器が置かれ、炊飯器がご飯の炊き上がりを報知する音を鳴らし、あ自身は納豆のパックを手にしている。演出したのはわたしとはいえ、変化が唐突で膨大だったので、驚いてしまった。
細かいことを言って恐縮なんですけど、納豆は漬物に替えてもらっていいですか? 食べられることは食べられるんだけど、そんなに好きじゃないので。できれば、着色料未使用の白い沢庵でお願いします。
心の中で呼びかけると、納豆のパックが小さな陶器に替わった。中には、輪切りにされた白い沢庵が十切れほど収容されている。ただ、一つ言わせてもらうなら、花柄の容器は沢庵に合わないので、白のシンプルな――みなまで言わないうちに無地のものに変わった。凄いね、神の力って。
あは手際よく並べるべきものを並べる。自分とわたしとわたしの姉の三人分だ。お父さんは朝が早いので、既に出勤している。お姉ちゃんはまだベッドの中だ。いつもはお姉ちゃんが先に食べるのだけど、あが言ったように、今日はわたしが目覚めるのが早かったし、神に目覚めもしたから。
そう、神。この世界の全ての決定権はわたしにある。朝食を母親と二人で食べてもいいし、お姉ちゃんが来るのを待って三人で食べてもいい。コンビニで買って食べると告げて、家で朝食をとらないのも勿論オッケー。一言で言えば、圧倒的に自由。
あはご飯を装った茶碗を運んできた。あとはお茶を注いだら食事の準備完了、という情勢だ。すかさず、味噌汁の鍋を消し去り、ヒジキと高野豆腐とニンジンとさやいんげんと大豆の煮物の鍋を出現。ご飯を定位置に置いたあはキッチンに引き返し、皿と茶碗の中間的な形状の器に五目煮を装う。自分で作っていない料理なのに、あは疑問を抱くことなく、至って真剣な表情でお玉を動かす。それが面白くて、もっと遊んでやれ、という気持ちになる。
五目煮のお次は胡瓜の酢の物だ。昨日作っておいて、冷蔵庫で冷やしてある。そう思い込んでいるから、煮物を装った器を五目煮を食卓まで運んだその足で、冷蔵庫へ。小鉢に一人分ずつ入れられたその料理を見て、「昨夜作っておいたお陰で、一品作る手間が省けて助かったわぁ」みたいな顔をあがしたので、思わず噴き出しそうになった。取り出し、食卓へ。使われている食材が胡瓜一種類なのは寂しいかな、と思ったので、運んでいる最中、器の中にカットしたワカメを加えてみる。あの目には、ワカメが器の中に忽然と出現する様子が映ったはずだけど、顔色一つ変えずに三つの小鉢を食卓に置いた。
……なにこれ。マジで面白いんだけど。
ご飯、卵焼き、味噌汁、沢庵、五目煮、酢の物、プラス箸。食卓は大混雑の様相を呈してきた。まだ出ていないお茶を置くスペースを確保するのに難儀しそうだけど、わたしの力で、既に置いてある食器のいくつかを宙に浮かせたり、サイズを縮小したりすることで解決した。
愉快な気分はまだまだ続いているので、調子に乗って料理をさらに追加する。オムレツ、オムライス、ゆで卵のサラダ、ポーチドエッグ、目玉焼き。あが運んでくるのは、ことごとく卵料理。三分の二から五分の一程度にまで縮んだ皿や箸とともに、卵好きでも辟易しそうなほど大量の黄色いおかずが並ぶという、カオス極まる卓上の有り様だ。一目で異常だと分かるけど、あは己の義務を淡々とこなしている人間の顔をして、滾々と湧き出す卵料理を黙々と運んでいる。ご飯、味噌汁、卵焼き、沢庵、お茶。あはあくまでも、そんなよくも悪くも平凡な献立を食卓に並べているつもりなのだ。
あの振る舞いは、神にとっても面白い見世物だ。お世辞でも皮肉でもなく、文字どおり面白い。だけど、でも、
「飽きてきたかな、そろそろ」
あにかけておいた平然モードを解除する。手にしていた卵豆腐の皿を、スナップえんどうの卵とじの器とミックスベジタブル入りスクランブルエッグの皿の間に捩じ込もうとしていたあは、宙に浮かんでいる器の数々、サイズが小さすぎる皿や箸、異様な数量の卵料理を目の当たりにした瞬間、うぇーっ、と叫んでその場に尻餅をついた。脚色でもなんでもなく、本当にうぇーっと叫んで。
「あああ! 宙、卵、小さい、あああ……」
極限まで見開かれた双眸、閉まる機能が壊れた口から垂れ流される「あああ……」、小刻みに振動する体。異常を目の当たりにした人間のリアクションとしては模範的だ。
「あああああああああ……」
でも、よかった。異常な状況に巻き込まれている自覚がない人間に話かけて「異常ですよ」と切り出すよりは、異常を悟った人間に話しかける方が、話はスムーズに進行するから。
「あは自分の名前でしょ」
声に反応して振り向く。「自分の名前でしょ」の「しょ」と言った時点で、あは恐怖の底を脱している。というより、一気に出口に近いところまで浮上した。自力で、ではない。「ああああ……」なんて垂れ流していた人間が、そう簡単に気持ちを切り替えられるわけがない。わたしが細工をしたのだ。
「永遠に終わらない朝食の準備中のところ、悪いけど」
とりあえず、立ってくれる?
心の中で命令を下すと、あは座り込んだ姿勢のまま一メートルくらい浮上し、宙に浮いたまま直立し、床に降り立った。きょとんとした表情。煩瑣な手続きを回避するために、異常に対して過剰に反応しない設定にしたので、空中浮遊したくらいでパニックを起こすことはない。
「あは、わたしに酷いことをしてきたよね。その謝罪してほしいんだけど」
「酷いこと? 謝罪?」
あの顔が全体的に微かに歪む。
「そう、謝罪。心当たり、あるでしょ? ありまくりでしょ?」
「……若葉。お母さん、あなたが言っていることの意味が全然分からないんだけど」
「白を切っているの? 白倉だけに」
田舎娘が八重歯を見せるように微笑んでみせる。卓上の卵料理に使われている卵という卵が一斉に、黄色い液体と化して食器から溢れた。だばー、という音に反応して振り向いた瞬間、あは横に十七等分に切断された。十七。わたしが即興で決めた、無意味な数字だ。切断されたことを視覚的に分かりやすくするために、各パーツの間は五センチほど離してあるので、あの身長は一気に、平均的な日本人プロバスケットボールプレイヤーと同程度になった。初めて見る人体の切断面はグロテスクの一言で、昨日までのわたしなら確実に気絶していたと思うけど、神なので恐怖は微塵も感じない。あ、グロテスクですね、みたいな。
「若葉! お母さんになんてことするの! 謝りなさい!」
ヒステリックな声がダイニングに響く。そうそう、これこれ。これが嫌なのだ。あ=お母さん=白倉若子は、普段は穏やかで優しいのだけど、ちょっと不愉快な目に遭うと、「えっ、どしたん?」ってこっちが引いてしまうくらいに、下品に怒りをぶちまける。
「お母さんさ、普段は娘たちのよき理解者みたいに振る舞ってるけど、わたしがちょっとでも反抗すると頭ご」
なしに叱るよね。今までは言わなかったけどさ、お母さんのその態度、凄くムカつくんだよね。
全能だから、声に出さなくても相手に伝わるということに気づいたので、心の中で言ってみる。
それと、なにかにつけてお姉ちゃんと比較するの、凄くイラつくんだけど。
わたしが六歳か七歳のとき、近所のスーパーマーケットまで母親と娘二人の三人で買い物に向かっている最中に、わたし=白倉若葉が石かなにかに躓いて、転んで、泣き出して、幸い怪我はしなかったのだけど、転んだという事実、それが悲しくて、悔しくて、痛くて、泣いて・泣いて・泣きまくったのだけど、好物のホワイトチョコレートを買ってあげるとお母さんから言われた途端にぴたりと泣きやみ、お母さんが「現金な子ねぇ」と笑い、お姉ちゃんがそれに同意する――。
記憶の底から立ち上ってくるのでも、外部からだーっと脳に流れ込んでくるのでもなく、マジシャンがわたしの頭にかかった緋色の布を取り外すと、脳はその思い出を保存していました、みたいな感じで、幼少時の些末なエピソードを思い出した。
それに触発されて、わたしの口調は滑らかになる。
お姉ちゃんはお姉ちゃん、わたしはわたしだし、お姉ちゃんはわたしよりも三つ歳上なんだから、お姉ちゃんの方が優れているのは当たり前でしょ。自分がムカついたからって、他人と比較してまでわたしのことを悪く言うなんて、最低。っていうか、母親失格?
「母親失格って、あなた、産みの親になんて口きくの!」
うーん。ほんとに三流ホームドラマの登場人物みたいな台詞しか言わないね、このオバサン。
「謝りなさい! お母さんに謝りなさい! 若葉!」
嫌です。
「謝りなさい! 若葉!」
掌同士をくっつけた両手を水平にして胸の前まで移動させ、五センチほど離すと、あを構成する十七個の肉塊と肉塊の隙間が五センチほどプラスされ、一番上のパーツが天井に達した。
「若葉!」
両手の十指を素早く握って素早く開くと、肉塊のサイズが二分の一に圧縮された。
「若葉!」
ぎゅっぎゅっぎゅっ、と結んでは開くたびに、十七個の肉塊は一律に圧縮されていき、二十五回ぎゅっとしたときには、ノミの糞くらいまで縮んだ。
「若葉!」
ぱちん!
掌をと掌を合わせると、十七個の肉塊は合体するとともに、忽然と消失。両手を離すと、砂粒サイズのあが右手掌に載っている。ある程度食べ応えが出るよう、それを一瞬でビー玉サイズに拡大させ、口の中に放り込む。噛み砕くと、全然甘くない。っていうか、むしろ物凄く不味いのだけど、原材料があの時点で美味しいわけがないので、不問に付すことにする。
「若葉!」
不味くて歪な塊=白倉若子が生涯最後の言葉を発した瞬間、破片の全てを呑み込むと、消灯したかのように声がやんだ。
はい、おしまい。
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