鏡の中の世界
目の前に姿見が出現した。呼んでもいないのに、脈絡なく。
鏡に映るわたしの姿は、わたしがイメージしている現実のわたしと寸分違わない。十二歳の女の子だということを考慮しても、低い背丈。耳が隠れる程度の黒髪。薄い唇。右口角のホクロ。全体的に起伏に乏しい体つき。白地に水色の水玉模様のパジャマは、二年前から寝間着として使っているものだ。日々成長する体に遅れをとって、今では少し窮屈で、七百余日という歳月に白色がうっすらと汚れている。
率直な感想を一言で言うと、ちっとも神らしくない。もっと神に相応しい恰好があったんじゃないの? もう少し頑張ってよ。そう苦言を呈したくなる。ベッドもそうだったけど、「神らしく」という観点から見れば、全然駄目だ。
ついでに言えば、登校するのに相応しくない恰好でもある。中学校へ行くと決めたからには、中学校が指定した制服に着替えなければいけない。神なのに、なんで人間が定めたルールに従わなくちゃいけないの? と思わないでもないけど、中学生は中学校へ行くっていう、人間が定めたルールに自らの意思で従うことにしたのだから、まあしょうがないよね、っていう気分にすぐになった。
制服に着替えようとして、「あっ、わたしは全能の神なんだから、わざわざ着替えに行かなくても、神の力を使って制服に交換すればいいのですね」と気がつく。気がついた次の瞬間には、わたしは純白のドレスをまとっている。貴婦人の盛装という雰囲気の、裾が長い、ワンピースタイプのドレスを。
「……うん」
何度も何度も頷いて、感心している事実を鏡の中の自分にも示す。裾の長さ、純潔を象徴する色――今までにあまり着たことがないタイプの服だ。
少しでも似合うようにしようと、髪の毛を真っ白にした上で胸まで伸ばして、毛先をナチュラルな感じにウェーブさせておく。おっぱいを膨らませると――うん、一気に大人っぽくなった。Gカップくらいかな? ポイントは、胸元を開けて谷間が見えるようにはしないこと。ワンピースはタイトなので、下品な小細工を施さなくても充分にセクシーさを演出できる。装身具の類は、よほど上手に選ばないとオバサンくさくなるので、パス。全能の神なのだから、コーディネートに失敗するはずはない。ジャラジャラと馬鹿みたいにアクセサリーをつけるのは好きじゃない、というのが本当のところなのだろう。「オバサンくさくなる」って短絡的に断罪しちゃうところが、いかにも「十二歳・白倉若葉ちゃんの思考回路! ドンッ!」って感じで、我ながら微笑ましい。
それから、両脚を延長して、腰にくびれを追加すると、スタイルは見違えるほどよくなった。白のハイソックスと裸足、どちらにするか少し迷ったけど、後者を選択する。うん、完璧。
鏡の中のわたしは、小首を傾げ、ほんの少し目を細め、口角を引き上げて唇の形を限りなく三日月に近づけた。
「どう? お気に召した?」
『うん、ばっちり』
「わっ、喋った」
いないいないばあで顔を出したときの表情とポーズをとり、驚きを表現してみせる。鏡の中のわたしは、わざとらしく頬を膨らませて不満を表明した。
『喋った、じゃないでしょ。自分から話しかけといて、そのリアクション、わざとらしくて吐き気がするんだけど』
「ごめん、ごめん。ちょっと言ってみただけ」
『まったく、傲慢なんだから』
鏡の中のわたしは、わたしと比べて声を幼く作っている。せっかく外見が同じなんだから声も合わせてよ、と思わないでもない。大人っぽい服装・体型・髪型に変更しただけに、中学一年生相応の顔立ちが少し幼い印象もあるけど、頬を膨らませた表情がかわいかったので、そのままでいいや、っていう気分になった。
「鏡の中のわたし」だと長いから、この機会にニックネームも決めておこう。鏡の中だから――。
「ねえねえ、名前なんだけど、ミラとグラース、どっちがいい? ミラはmirror、グラースはglassで、どちらも――」
『グラース? サリンジャー? グラースは苗字でしょう?』
「うん、それは知ってる」
『神だからね』
「そう、神だから。もう忘れちゃったけど、『バナナフィッシュにうってつけの日』の主人公って、なんで自殺したんだっけ?」
『従軍経験に起因する神経衰弱、と一般的には解釈されているわね』
「……ふうん」
シーモア・グラース――see more glass――もっと鏡を見て……。
「ところでミラちゃん。ミラちゃんは実質的にわたしだから、言われなくても分かっていると思うけど」
『中学校へ行くんでしょ。あなたがその台詞を口にするのも分かってた』
「あっ、そっか。全知だから予知能力が使えるんだね」
『全知全能の唯一神なのに、そんなことも分からないの? ちょっと情けなくない?』
「神だと自覚して間もないから、ちょっとしっくりこなくて」
『でも、茶番だと分かっていてあえてやっている、という側面もあるんでしょう?』
「うん、確かにそれもある。だって、もう一人のわたしとの対話だよ? 楽しくないはずがないじゃない」
『それはともかく、わたしに言いたいことがあるんでしょう?』
「あっ、そうだね」
ミラちゃんって呼び名、気に入ってくれた? ……って、そうじゃない。神であるわたしが決めた名前に、文句があるわけがない。実際、二回口にした「ミラちゃん」は見事にスルーだった。言いたいことは呼び名のこと、ではなくて、
「ミラちゃんが読みとったように、わたし、今から中学校へ行こうと思っているのね。今はこんな恰好しているし、神だと自覚したけど、一応中学生でもあるわけだし、もうそろそろ家を出なきゃだし」
ミラちゃんは心持ち眉をひそめた表情で、何度も小さく頷く。
「せっかくだし、二人で一緒に行かない? 気が置けない人と話をしながら登校するのって、凄く楽しいから。でもミラちゃんは、『お断りする。わたしは鏡の中のみで生存を許された存在だから』って答えるよね?」
『お断りする。わたしは鏡の中のみで生存を許された存在だから』
「あっ、見事的中。凄いね、神って」
『……調子が狂うからやめてくれない?』
「ごめん、ごめん。一緒に登校するのが嫌なら、鏡の中に遊びに行っていい?」
『それ、本気で言ってるの?』
「うん。遊びに行く気満々。でも、学校に行くのをやめもしない」
あえて言葉を切る。そうすることで、ミラちゃんは勝手にわたしの心を読み、話を続けてくれる。
『鏡の中の世界経由で学校まで行く、ってことね。どこへ繋げるの?』
「分かっているでしょ?」
と微笑みかけると、
「ああ、そこね」
と頷く。以心伝心がとても心地いい。ミラちゃんはわたしに背を向け、鏡の中を遠ざかっていく。あとを追って、ずぶぶぶぶ、と、わたしも鏡の中へ。
全てが白木で作られた、幅が狭い螺旋階段が下へ、下へと続いている。それ以外は闇だ。神にとっては、定められたルートを無視することも容易いけど、せっかく道を作ってくれたのだから、十段ほど先を歩くミラちゃんについていく。胸より少し低い位置にある手すりに右手を載せて、滑らせるようにしながら。
階段を降り始めた途端、コオロギの鳴き声が微かに聞こえてきた。りぃー、りぃー、りぃー。聞く者に不快感を催させる余地のない、懐かしい音色。
ここ三・四年ですっかり開発が進み、今ではすっかり「閑静な住宅地」っていう月並みなフレーズがお似合いな地域になってしまったけど、小学校低学年のころくらいまでは、白倉家周辺には自然が溢れていた。ボーイッシュな若葉ちゃんは、男の子たちとよく虫とりをして遊んだ。季節が来れば、虫たちがやかましい音量で音楽を奏でた。人間・白倉若葉の記憶が、神のわたしがいる世界で再現されている――なんだか変な気分だ。
子供のころは、コオロギやキリギリスやスズムシなどの秋の虫だけではなくて、夏のセミなんかもそうだけど、鳴き声を聴き取ったとしても、肝心の虫がどこで鳴いているかが分からない、ということが何度もあった。でも今は、神だと自覚した今となっては、居場所が明確に把握できる。コオロギが鳴いているのは、暗黒の只中。闇色の虚空の至るところに、あたかも星のように重力を超越して浮かび、頼りない翅を彼らなりに懸命に震わせている。
分からないふりはできるけど、本当の意味で分からないことはない存在になっちゃったんだなぁ。
神らしくもなく、センチメンタルな気分になってしまう。
『大人しいね』
心の中を読んだミラちゃんが、ぶっきらぼうな、それが逆に「あっ、わたしのことを気遣ってくれているんだな」と思わせる口吻で、声をかけてきた。
「うん、考え事をしていたから」
『「神になっちゃった」じゃなくて、「神だと自覚した」だと思うけどね、正確には』
「訂正ありがとう。心の中が分かるし、分かってくれるから、ミラちゃんとの会話、凄く楽しいよ」
ミラちゃんは振り向かないし、立ち止まらない。わたしも右に同じだ。ぐるぐる、りぃーりぃー。ぐるぐる、りぃーりぃー。単調で、ささやかで、美しいBGMを聴きながら、下へ、下へ。ぐるぐる、りぃーりぃー。
「わたし、まだ馴染んでいないから――あっ、おっぱいの大きなお姉さんの体に、ってことじゃないよ?」
『分かってる』
「それと、どう言えばいいのかな。世界の組み替え方のコツ? それもまだ掴めていないっていうか、掴み切れていないっていうか」
『全能なんだから、表現としてはおかしいよね』
「うん。でも、実感としてはそんな感じだから。鏡の中にまた来るから、そのときはもっと楽しいことをして遊ぼうね。約束だよ」
『あなたは神なんだから、約束しなくても実現するでしょう』
「うん、そうだね」
『あなたが隠しているから訊くけど、具体的にいつ?』
「んー、そうだねぇ。だいたい、四千億二千七万年後くらいかな」
全知全能の唯一神にかかれば、友達と明日遊ぶ約束をするみたいなものだ。
いきなり、目の前にドアが出現した。なんの変哲もない木製のドアが、わたしのすぐ目の前に。わたしとミラちゃんと間に障壁ができた形だ。
わたしの右手はひとりでドアノブを掴む。回そうという意志はないのだけど、回す。ドアが出現するずっとずっと前、わたしが神だと自覚するよりも前から、「神だと自覚した白倉若葉は、鏡の中の世界の螺旋階段を下りている最中、目の前にドアが現れた場合、ドアノブを回してそれを開く」と明記された台本が存在していて、そのとおりの行動をとった、そんな感じだ。
ドアが開かれ、コオロギが鳴くのをやめ、眩い光がわたしを包んだ。
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