ぜんちぜんのう! 唯一神ガール

阿波野治

白倉家

完全なる真空

 ヘッドボードの上のデジタル時計を確認すると、午前五時四十三分。起床するには早すぎるし、二度寝をするとすれば寝過ごす危険がある、中途半端な時間帯だ。

 どうしようかな。

 不自然に捻じっていた上体を元に戻し、顔を天井に向け直す。一面真っ白で、シミ一つない。


 選びがたい、相反する二つの選択肢の板挟みになったわたしは、直面した不都合な現実から逃避するため、頭の中を完全なる真空にすることにした。

 頭の中を完全なる真空にした経験は一度もない。できるか不安だったけど、とにもかくにもやってみることにした。

 そうしたら、できた。頭の中が完全なる真空になった。

 瞬間、わたしは自覚する。


 わたし=全知全能の唯一神。


 掛け布団を蹴り飛ばして跳ね起きる。

「本当にわたしは神になったの?」という疑念・疑問・疑惑は一切なく、わたしはもう、わたし=神だとしか思えない。

 そっか、わたし、神だったんだ。全知なのに、今までその事実に気がつかなかったのはなんでなの、って気もするけど。

 ……なんてね。そんなわけがありません。わたしは全知全能の唯一神だから、わたし=全知全能の唯一神だということを、宇宙が誕生するよりも前から知っていました。ちょっと分からないふりをしてみただけ。いわゆるユーモアというやつです。


 問題なのは、神だと自覚したわたしと、人間・わたしとの間に、ズレのようなものがあることだろう。神としてのわたしに馴染めていない、とでも言えばいいのかな? 全能の神なのだから、馴染んでいない状態というのはそもそもおかしいのだけど、実感の上ではそんな感じだ。

 馴染む努力。ある種の実験。それも悪くない。


 ベッドから下りると、足の裏に乾いた砂を踏んだような感触が伝わった。足元には白色のカーペットが、「白は汚れが目立つから」という母親の意見を無視して選んだ敷物が、敷かれているはずなのに。

 まさかと思い、視線を落とすと、床は砂地でした――なんてことは勿論なくて、普通に白色のカーペットでした。

 全知全能の神でも、錯覚を抱くものなのだろうか?


 首を傾げ、部屋の窓に目を向ける。閉ざされていた純白のレースのカーテンが、音もなくゆっくりと左右に開いた。

 クリアになった窓外に映し出されたのは、虚無。人も物も空も色も、一切合財が存在しない。今は早朝だから、本来なら白んだ空が見えなければいけないのに。


 完全なる真空。


 全知全能とはいえ、神だと自覚したばかりのわたしに、全知全能の唯一神とはいかなる存在なのかを、簡潔に理解させるために不可欠な儀式なのだろうか? それにしても、初めて見る光景にもかかわらず、既視感を覚えるのはなぜなのだろう? このような光景を目にする機会は、今後何度となく巡ってくるのだろうか?

 疑問の答えが導き出されるよりも早く、カーテンは開くときと同様、音もなくゆっくりと閉ざされ、完全なる真空は完璧に隠蔽された。


「さて、と」


 体の向きを反転させてベッドに向き直る。

 思ったことは、二つ。わたしはもう、必ずしも眠らなくてもいい体になったのだ。そして、


「神の寝台……」


 とは言い条。白木が使用された、大きめのホームセンターの家具売り場を覗けば必ず一台は置いてあるような、特筆するべき点のないベッドに過ぎない。二年前にお父さんに買ってもらったもので、組み立てたのもお父さん。今のわたしなら、一瞬で分解・組み立て・分解・組み立て・分解したあとで、二秒以内に組み立て・分解・組み立て・分解・組み立てして、はい元通り、みたいなこともできるのだろうけど、当時はまだ神だと自覚していなかったから、できないこともたくさんあった。できないけどしたいことは、できる人に頼む必要があった。

 わたしの本質は全知全能の唯一神なのに、わたし=全知全能の唯一神だと自覚する前のわたしは、白倉若葉という人間でしかなかった。これって、要するに、どういうことなのだろう?

 わたしは紛れもなく全知全能の唯一神だというのに、分からないってどうなの? って感じだけど、今はベッドについて考えているのだから、家の中でよく見かける小さな黒い蜘蛛みたいに放っておく。


 神の寝台に必要不可欠だとわたし的に思う要素は、豪奢さ。豪奢なベッドという言葉から連想するのは、天蓋つきのベッドだけど、それだと単にお金持ちの人のベッドになってしまう。神の寝台なのだから、もうワンランク上のものにしたい。でも、悲しいかな、わたしの想像力では完成図を思い描けない。全能の神なのに、想像力が足りない。なんて奇妙な矛盾なのだろう。

 これは多分、わたし自身に「想像力が豊かになぁれ☆」って指示を与えたら解決するのだろうけど、無理にいいかな、って現時点では思う。無理にっていうか、どうでもいいっていうか。なぜならば、わたしは最早、睡眠をとらなくても生を持続できる体になった。ベッドになんて、本当の意味で興味を持てるわけがない。

 全知全能の唯一神の本質は、無関心。きっとそうだ。


 極力窓を視界に入れないように心がけながら、室内を見回す。全体的な印象は、中学一年生の女の子らしくない。ピンク色がないからだろう。少ない、ではなくて、皆無。

 白倉若葉は、男子と一緒にボール遊びをするのが好きな、ボーイッシュな女の子だった。中学一年生以下の男の子っていうのは、基本的には幼稚・単純・下品な生き物だけど、女子の前では精いっぱい賢く振る舞うし、吐く言葉もおおむね陽性。そこが彼女は好きだった。

 一対の瞳で入念に探したけど、サッカーボールはどこにも置いていない。白地にレモンイエローのラインが入った、サッカーボール。小学校の入学祝いに両親から買ってもらって、六年という歳月にすっかり古びてしまったけど、今でも大事にしている。そのサッカーボールが、厳然たる事実として、わたしの部屋に存在しない。


 存在するはずのものが存在しないのは、わたしが望んだから。それは確かだと思う。問題なのは、神であるわたしと、神だと自覚する以前のわたし、どちらが望んだことなのか、ということ。後者だとすれば、一言で言えば、「思春期だから」ということになるのだろうけど。

 思春期説を裏づけるかのように、サッカーボール以上に男子的な物品は室内には存在しない。だからといって、女の子らしい印象があるわけでもないのは、女の子らしい小物なんかが一切置かれていないからだ。女の子らしさをマイナス、男の子らしさをプラスとしたら、プラスマイナスゼロ。どちらもなく、どちらでもないから、白い部屋。そういうことみたい。


 あ、ごめん。

 訂正が一つあります。勉強机の上の、真っ白な小さい植木鉢。強いて挙げるとすれば、それが女の子っぽいかもしれない。

 水分が根こそぎ奪われた土は、植木鉢の色に限りなく近い。中央から垂直に十五センチほど伸びた鮮やかな緑色の茎の、様々な高さから様々な方向へ向かって、茎と同色の、笹の葉を少し鋭くさせたような形状の葉が生えている。

 植物を育てているから女の子らしい、植木鉢の色が白だから女の子らしい、という基準は、ステレオタイプというか、冷静に考えてみるまでもなくおかしいのだけど、とにかく、真っ白な植木鉢に植えられた植物。それが白い部屋の中で唯一の女の子らしさで、唯一だからこそ意味がある、というふうにわたしは直感した。


 じゃあ、その意味に対してどうアプローチをするの? ってことなのだけど、自問した瞬間、「そういえば、神らしいことはまだしていないな」という思いが胸に浮かんだ。

「神らしいこと」というのは、要するに、人間の価値観を基準にした場合における、超常的な力。

 ベッドが神の寝台らしくないことに不満を抱きながらも、「興味を持てない」とかなんとか言い訳してなんの手も打たなかったように、神らしいことをしていないどころか、避けている節さえある。わたしとしては、そんなつもりは毛頭ないのだけど、そう評価されても仕方ない行動をとってきたのは事実だろう。

 これまでに二兆回くらい言ってきたように、わたしは神なのだから、嘲られたら当然、怒る。あるいは、怒るふりをしたい。「神を嘲る存在は存在しない」という設定にこの世界を作り替えてもいいのだけど、わたしは神だから、そんな人間みたいに幼稚な真似はしない。むしろ嘲られた瞬間、「神ですが、なにか?」って感じで、神であることをさらっと証明してみせる。女の子よりも男の子と遊ぶことが多かった白倉若葉ちゃんは、神だと自覚する前もあとも負けん気が強いのだ。


『つべこべ言わずに、やってみなさい』


 もう一人のわたしが、流石は神! と自画自賛したくなるような、絶妙パスを蹴ってくれた。蹴られる前から、わたしはシュートを打っているし、ボールはゴールネットに突き刺さっているに等しい。


 植木鉢の土から生えた茎と葉が、どこからか聞こえてきた壮麗な琴の音とともに、にょにょにょにょにょ、と伸びてゆく。両者がともに倍の長さに達したところ成長は停止し、茎のてっぺんから、突起らしきものが水平方向に伸び始めた。大きくなるに従って、それは自身の重みで徐々に頭を垂れる。全長七センチほどに達したとき、突起は万年筆のペン先に似た形状になっていた。

 突起の前部八割ほどが白く変色していく。花のつぼみだ、と万人が読み取れる姿になると同時、綻び始めた。人間の常識から考えれば、恐るべき速さで開花は完了した。ラッパ型の純白の大きな花弁に、女性器の暗喩でありながら、どこか男性器を思わせる形状の黄色い花芯。テッポウユリだ。


 ああ、わたしって、やっぱり神なんだ。

 それは自明な事実だ。神らしいことをする前であっても、たとえ神らしいことをしようとして失敗したとしても、その事実は揺るぎない。でも、安心した。それも事実。それらを煎じて詰めたものが、テッポウユリの花が咲いた意味なのだろう。


 開花とともに琴の音色は止んだ。吸い寄せられるように、ヘッドボードの上のデジタル時計に再度目を向ける。午前六時過ぎ。そろそろ学校へ行く準備に取りかからなければならない時刻だ。

 時間なんて、神のわたしにかかれば、たこ焼きをひっくり返すみたいに簡単に巻き戻せる。そもそも、わたしは中学一年生・白倉若葉ではなく、神なのだから、中学校に登校する義務はない。ていうか、学校なら白倉家の中にありますけど? なんなら日本列島だけでも七十兆三千五百二十六億八千三万二百二十一個ありますよ? みたいな。

 わたしは神なのだから、学校へ行く必要はない。従って、登校の準備は不要。


 結論した瞬間、脳裏に男の子の顔が浮かんだ。ほんの少し女性的な雰囲気も感じられる、整った目鼻立ち。一見気弱そうだけど、しっかりとした芯を持っている、という印象の男の子の顔が。

 宮越くんだ。クラスメイトの宮越泰人たいとくん。


 わたしは宮越くんの顔を正視する。このタイミングで彼が現れた意味を探求するためだったのだけど、解は一瞬で導き出された。当たり前だ。束の間失念していたが、わたしは神なのだから。

 そして、神だからこそ。


 必ずしも登校する必要はないが、登校してはならない理由はどこにもない。現在はどこからどう解釈しても神でしかないわたしにも、人間でしかなかった時代・神だと自覚していなかった時代も確かにあった。その時代に合わせてみるのも一興、かもしれない。圧倒的に自由だからこそ、制限? 演技? 縛りプレイ? そういうのって、物凄く大事だと思う。


 というわけで、行きます、中学校。

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