第五章 双頭の鷹 --- 1

 気が付くと、イージェントはひとり、草原のただ中に立っていた。斜陽の光を浴びて金色に輝いている草が、風に吹かれて波のように揺れている。見覚えのない風景に首を巡らせると、後方の丘に白亜の宮――彼の宮殿が見えた。

「このような場所が王都に在ったか……」

 日が暮れる前に王宮へ帰らなければ、近衛に迷惑をかけてしまうだろう。しかし、イージェントは周囲の美しい風景を今しばらく見ていたかった。

「もう少し、もう少しだけだ」

 誰に言い訳するでもなく呟くと、イージェントは腰の高さまである草をかき分けつつ、王宮とは反対側――太陽の沈む方角へと歩いていった。

 しばらく行くと、どこからともなく水の流れる音が聞こえてきた。それも、せせらぎなどではなく、大河の流れるような音である。

「エヴァノ河か……?」

 王都の西を流れる河を思い浮かべながらさらに進んでいくと、突然、草原が切れ、石がごろごろと転がる砂地へ出た。その先には、エヴァノ河よりは河幅の狭い、しかし堂々たる河が横たわっていた。

「川辺に来るなど、子どもの頃以来だな……。余は身体が弱かったゆえあまり来れなんだが、コートミールやファンマリオには、存分に楽しんで欲しいものだ」

 幸い、レイミアが産んでくれた王子たちは、逞しすぎるほど元気だった。王都へ来るまでの経験もあり、誰に言われなくとも宮殿を抜け出しては山野で遊んで来ることだろう。それこそ近衛は胃の痛い思いをするだろうが、度重なる病で気を揉ませるよりはいいはずだ。

「――やれ、少し喉が渇いたな」

 水辺に行こうと歩き出した時、左手に桟橋のようなものが見えた。陽光を反射する水面が眩しくて目をこらすと、小さな舟が一艘、繋がれているようである。彼には珍しく悪戯心を起こして近付いていくと、桟橋に上がる階段の陰に、ひとりの男が腰を下ろしていた。その見知った顔に、イージェントは目を見開いた。

「おや、誰かと思えばゼオラではないか。おぬし、こんなところで何をしている?」

 すると、上将軍たる頼もしい従弟は、浮かない顔で立ち上がった。夜着のイージェントに対してゼオラはなぜか正装で、河面を吹き渡ってきた風がゼオラの漆黒の外套を波打つように翻らせた。

「従兄上――いえ、陛下」

 ゼオラは、イージェントが今まで見たことのないような神妙な顔をしていた。

「陛下、最後のご奉公に上がりました」

「最後の奉公? 何のことだ?」

 目を瞬かせているイージェントに、ゼオラはつらそうに唇を噛みしめた。

「王太子たちが呼んでおります。どうぞ、王宮へお戻りください」

 それを聞いて、イージェントはぽかんと口を開けると、次に大声で笑い出した。

「お、おぬし、余を王宮へ帰すことが最後の奉公とな!? なんと、余はそのように聞き分けのない王だったか?」

 目に涙が溜まるほど笑うと、イージェントはまだくつくつと震えながら、夕焼けの空を見上げた。

「――まあ、そろそろトルーゼあたりが怒り出す頃ではあろうな。ミンタムも、侍従たちに八つ当たりしておるかもしれん」

 側近たちの慌て振りを想像して笑みを引っ込めると、イージェントは再びゼオラを見た。

「さて、では王宮へ戻ろうか」

 てっきり共に帰るものと思っていたのに、ゼオラは首を振った。

「申し訳ありません。私は行けません」

「何故だ? また叔父上と喧嘩でもやらかしたのか」

「……父の怒りだけでは済まないと思います……」

 従弟の憔悴振りに、イージェントは首を傾げた。

「そんなに深刻なことか? 余では力になれぬか? おぬしは知らぬかもしれんが、これでも余はサイファエール国王なのだ」

「陛下……」

 イージェントの下手な冗談に、ゼオラはわずかに口の端をもたげた。

「陛下、私は先にあちらへ参ります」

 ゼオラが指したのは、蜃気楼のように揺らぐ対岸の黒い影だった。イージェントは溜め息を吐いた。

「ふむ……まあ、舟は一艘しかないから仕方があるまいな。一緒に乗ったのでは、重すぎて転覆しそうだ」

「どうか、早くお戻りを」

「わかった。では、また後でな」

 不思議と、儚い対岸の名も、そもそも彼が護衛も付けず独りで野を彷徨っている理由も、そしてゼオラが彼を待ち受けていた理由も、気にならなかった。

 イージェントは従弟の肩を軽く叩くと、その身を翻した。空が闇色に染まる中、残光に白く浮き上がる宮を目指して。


     ***


「父上!」

 強く呼ばれて目を開けると、視界いっぱいに愛する息子の顔が広がっていた。

「……コ、コートミールか……」

 しかし、それは声にはならず、わずかに呼気が震えただけだった。だが、相手にはそれだけで十分だったようだ。

「父上……わ、私がわかるのですか!?」

 コートミールは、隣にいた同じ顔の少年と顔を見合わせると、イージェントの腕を強く掴んできた。

「父上、私もマリオもここにいます! 母上たちもみんな……私たち、父上が目を覚ましてくれるのをずっと待ってたんですよ……!」

 寝込むことは幼い頃からの常だったが、どうやら今回は相当長かったらしい。その証拠に、彼の家族全員が枕元に集まっていた。息子たちの肩を抱き、目に涙を溜めているレイミア。病との長い闘いから生還した夫をいたわるように、髪を撫でてくれている王妃メルジア。その母を支えるように寄り添っている三人の娘たち、エウリーヤ、ダリア、そしてシャルラ。

 イージェントは微笑むと、幼い息子たちの頭を撫でてやろうとしたが、手に力が入らなかった。それでも肘を支点に何とか持ち上げると、彼の手は自分のものとは思えないほど痩せ細っていた。

「心配を……かけたな……」

 梔子色の髪を撫でてやると、コートミールは父親と同じ天色の瞳から大粒の涙をこぼした。

「いいえ、父上。父上が目を覚ましてくれたから、私はもう心配なんてしていません……!」

 この間まで自分のことを「オレ」と言っていたのに、立太子礼を終え、王太子としての自覚が出てきたのか、コートミールの「私」はすっかり板に付いていた。イージェント自身の病臥がそれをいっそう促したのもあるのだろう。幼い王子たちに、自分はなんと過酷な思いを味合わせているのだろうか。イージェントは自分が情けなかった。

「陛下、お加減はいかかです……?」

 濡らした手布で自ら夫の額を拭くメルジアに、イージェントは小さく首を振って見せた。

「気分は……悪くない……。ところで……余は、どのくらい……伏せっていた……?」

 それへ、メルジアはにこりと微笑んだ。

「先日、《秋宵の日》でしたのよ。今年はお祭りもできず、寂しゅうございました」

「それは、すまなんだな……」

 彼が倒れたのは、まだ夏も暑い盛りの頃だったはずだ。すると、ふた月余りも床に伏せっていたということか。よくぞ再び目を開くことができたものだ――自嘲して、イージェントははっとした。

「メルジア、き……訊きたいことがある……」

「宰相補佐官のことでございましょう?」

 先手を打たれ、イージェントは眉根を寄せた。

「そうだ……。だが、どうして……」

 すると、家族全員から笑声が漏れた。

「陛下。宰相補佐官はツァーレンの役所へ自ら出頭して参りました。その後、色々とございまして、今はとりあえずテイランにて刑に服しております」

「テ、テイランに……?」

「はい。つい先ほど、その報が届きまして、それを皆がそれぞれ一刻も早く陛下にご報告しようと、こうして枕元をお騒がせしてしまった次第です」

「さようであったのか……」

 イージェントは一同の顔を見回した。皆の顔には笑みが滲んでおり、彼は安堵して吐息した。

「そうか、無事であったか……」

 青年が護送隊の刑務官を惨殺し逃亡したと聞いた時は、まさに心臓を鷲掴みにされた。彼の復讐を警戒して弟に親衛隊を付けたが、無論、本意ではなかった。

 目を閉じれば、瞼の裏に浮かぶ顔がある。彼の右手となり、陰に日向に働いてくれた、親友とも言うべき忠臣、宰相ウォーレイ=サリード。

(ウォーレイ、おぬしの息子が自首したそうだ……。自ら流刑地に赴くなど、さすがおぬしの息子よの……)

 そして、ウォーレイの息子が一人だけではないことを、イージェントはまさに病み上がりのこの時も忘れてはいなかった。

「メルジア……。サイエス監獄の……シェラードを、今すぐ出してやってくれ……」

「はい、陛下」

 兄イスフェルの罪を着て、自ら白装束で国王の前に現れた少年を、イージェントは宮廷の平穏のために投獄した。少年にとって、このふた月は果てしなく長い日々であったことだろう。だが、イスフェルが再び表舞台に戻ってきたことで、事態は好転するはずだった。いや、その一端を、イージェント自身も担わなければならないのだ。

「メルジア、それからもうひとつ……」

「はい、何でございましょう?」

 まっすぐと彼を見つめる妻の瞳は、穏やかながらも切なかった。彼女も、気付いているのだ。夫の消えかかった命の灯に。

「王族会議を……所望する。ただちに……準備せよ」

「は……けれど、陛下、お身体に障ります」

「よい。今でなければ、ならぬのだ……」

 いつになく強い夫の語気に圧され、メルジアは静かに頷いた。

「御心のままに……」



 年に何度も鷹の間の扉が開いたことは、かつてない。しかも、今回、国王が招集したのは、王族だけではなかった。

 イージェントが侍従長ミンタムと侍医長エイベストスに左右を支えられて部屋へ入っていくと、環状に並んだ王族席の外周に、文武の主立った役職に就く者たちが座し、緊張の面持ちで彼の登場を待ち受けていた。彼らにしてみたら、突然国王が目覚めたことといい、謁見と呼び出された場所が通常の光の間でなかったことといい、二重の驚きだったに違いない。

「このような姿ですまぬな」

 鷹の間に夜着では父祖に対して不敬となると、侍従長らの反対を押し切って、病み上がりの身体に負担をかける正装を纏ったものの、やはりとても独りで歩くことは敵わなかった。支えられてなお、足下のおぼつかない姿が、臣下の国王快癒への期待を裏切ってしまうことを思って、イージェントは胸が痛かった。だが、それは彼の考えすぎだったようだ。

「陛下。陛下より招集がかかりますことを、我々一同、心よりお待ち申し上げておりました。なれど、まさかこのように誉れ高き場所へお招きくださるとは……光栄の極みでございます」

 イージェントが上座に着くと、近衛兵団長トルーゼの謝辞とともに、家臣たちが一斉に頭を垂れたのである。彼は少なからず安堵して、改めて室内を見回した。そして。

「――叔母上とゼオラはいかがした?」

 王族席で並んで空いている席を見付け、イージェントがミンタムに問うと、ミンタムは一瞬、言葉を詰まらせた。その隙を突いて、王叔父ラースデンが口を開く。彼にとっては自分の妻と息子のことであり、国王の御前で他人に説明させるわけにはいかなかった。

「……申し訳ありませぬ。二人とも所用で王都を離れておりますれば」

 ふた月も前から愚息の身命が不明であること、それを聞いた母親サラーナが心痛のあまり床に伏せっていること……。国王の病が治るものであるなら、その兆しが見て取れるなら、真実を話すこともできただろう。しかし、二回り以上も年下の甥たる国王の顔に紛れもない死相を見て取って、ラースデンはそれを避けた。そして、そのことを非難する者は、この場に誰一人としていなかった。

「そうですか……」

 周囲の者の心の闇を知る由もないイージェントは、小さく吐息した。上将軍たるゼオラにはぜひ臨席してもらいたかったので、無念だった。

「――ああ、そういえば、先ほどの夢にゼオラが出てきたのですよ、叔父上」

 なぜか重くなっている雰囲気を和らげようと、イージェントは本題の前に世間話を持ち出した。今やその名が明るさとは無縁のものであるとは露ほども思わずに。

「そ、れは、どのような……」

「それが、夢でもおもしろいことを言っておりましたよ」

 そこで、イージェントは、大河の桟橋でゼオラに出会ったことを語った。が、家臣たちの顔が見る間に蒼白となり、さすがのイージェントも異変に気付いて眉根を寄せた。

「――皆、いかがした……?」

「い、いえ……」

 嘘か真か、死した者は小舟で大河を渡るという。おまけにゼオラ自身が口にしたという「最後の奉公」というのが、上将軍の無事を祈る人々の希望の灯をかき消さんばかりに揺らがせた。

 皆のあまりの動揺ぶりにイージェントがさらに追及しようとした時、隣に座していたメルジアがそれを遮った。

「陛下、お身体に障りますれば、どうぞ本題の方に」

「……そうだな」

 イージェントとしては居心地の悪さを禁じ得なかったが、メルジアの強い意志を感じる眼差しを受け、言葉を呑み込んだ。そもそも、彼に許された時間は、あまりない。

「……今日、皆を呼んだのは、他でもない、余の後継者について、改めて言っておきたいことがあるからだ」

 イージェントは息を吸い込んで、吐いた。そして、言った。

「余は、もうすぐ死ぬ」

 応えたのは、ただ沈黙のみだった。誰もがその言葉に息を呑み、そして絶望したように天を仰ぎ、地を見つめる。国王の状態が悪いのは一目瞭然だが、それを「死」という言葉で本人から突きつけられるのは、もしイージェントが逆の立場なら、おそらく耐えられない。だが、彼は為政者として混乱を防ぐために、あえて己の死を見つめ、周囲に理解させなければならないのだった。

「明日を迎えることさえ、容易ではなくなった。――そうであろう、侍医長?」

「陛下……」

 非難の目、困惑の眼差しがエイベストスに集中する。それを遮るかのように、国王は言を次いだ。

「余が死んだ後は、速やかに王太子コートミールの即位の儀を執り行うように」

 そして、自分の横に座っていたコートミールをそばに呼ぶ。唇を真一文字に引き結んでやって来た息子の背にそっと手を当てると、再び一同を見回した。

「余は昔から身体が弱く、皆には本当に迷惑をかけた。迷惑ついでと言っては何だが、王太子――いや、新国王のことをよろしく頼む。まだ幼いゆえ、皆で……皆で支えてやってくれ。よろしく頼む」

「陛下……」

 これは、口頭による遺言なのだ。今際の王が国を支える者たちを鷹の間へ誘った理由――それをひしひしと感じて、誰もが跪き、そして頭を垂れた。その様子を、色褪せてなお堂々たる威厳を保つ白銀鷹旗が静かに見つめていた。



 深夜、中天に半月が不安定に浮かんでいた。

「そなたが嫁いできた日も、こんな月が出ておったな……」

 寝台に横になったまま夜空を見ていたイージェントは、ひとり枕元に寄り添っていたメルジアに目を移しながら、ぽつりと言った。

「……ええ、陛下。あれからもう二十年が経ちました」

「二十年、か……」

 それが長いのか短いのか、彼にはわからなかった。ただ、生来病がちで、夭逝を宣告されたことさえある身を思えば、長かったのだろう。

「そなたには三人もの姫を産んでもらったに、色々と嫌な思いをさせてしまったな。そして、これからも……」

「何をおっしゃるのです」

 静かにメルジアが首を振る。揺れる黒髪が一房、彼女の肩から滑り落ちた。イージェントは妻の手をそっと握りしめた。

「余は、嫁いできたのがそなただったことに、心から感謝している。余は良い友に恵まれ、良い家庭に恵まれ、本当に良い人生だった……」

「……私も、陛下の妃となれて、本当に幸せでした。レイスターリアの両親のような家庭を持てて……」

 両親を理想とするあまり、彼女が過ちを犯したこともあった。だが、すべてはイージェントを愛したゆえのことだった。そんな彼女は、イージェントの誇りでもあった。

「陛下……愛する貴方。本当に……本当に逝ってしまわれるのですか……? 私たちを――私を、残して……」

 気丈な妻の震える声に、イージェントはただ微笑んでやることしかできなかった。

「メルジア、すまぬな……。許してくれ……」

「とても寂しいです。とても寂しいですけれど、私、王妃として――王太后として、立派に生き抜いて見せますわ。私、独りではありませんもの。娘たちはもちろん、貴方が新しい友と息子たちを作ってくださったから」

「メルジア……」

 このうえ溢れる想いをどう表現していいかわからず、イージェントはメルジアを抱き寄せると、その髪に口づけした。

 翌未明、イージェントは西の地平に隠れるミーザに誘われるように、その天色の瞳を閉じた。



 サイファエール王国第十四代国王イージェント、崩御。享年五十。病弱の身ながら、稀代の宰相ウォーレイ、大将軍ドリザール、上将軍ゼオラらとともに築いた治世は、長きに渡る同一王権下にあって極めて公正なものであった。

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