第四章 波間に揺れる想い --- 10

 所在不明のアイオール一行がマクバの役所へ戻ってきたのは、すっかり夜が更けてからのことだった。アイオールをはじめ、バファロイたちもなぜか疲弊しきった様子で、帰りを今か今かと待ちかまえていたラスティンとアリオスが、思わず無言になるほどだった。

「来ただろうな?」

 不機嫌そうなアイオールに、ジリストンが深く頷く。

「今は地下牢においでです」

 それを聞いたアイオールは舌打ちした。

「その辺でくつろいでいればいいものを」

「そういうわけにはいきますまい」

「私はくたくたなんだ。わざわざ階段を下りろというのか」

 不平を鳴らしつつも、そのまま地下牢へと案内させる。一行がぞろぞろと暗い階段を下りていくと、一番奥に小さな明かりが見えた。セフィアーナの持つ手燈だった。

「何で一番奥に……」

 アイオールが溜め息を吐いた時、「ご安心ください」と、殿しんがりで声が上がった。

「び、びっくりしたぁ……!」

 いつの間にやって来たのか、最後尾だと思っていたラスティンの後ろに、マクバの役所の長官が立っていたのだ。

「今、他に囚人はおりませんので」

「……それは結構なことだな」

 なぜか論点がずれていた。アイオールは後ろのバファロイに首を竦めて見せると、奥に向かって歩き出した。やがて見えてきた少女の顔は、いかにも不満を抱えていそうな風だった。そして。

 アイオールの愛すべき従弟は、奥の壁を背もたれに腰を下ろしていた。松明の真下にいるため、逆光で顔が見えない。アイオールが口を開こうとした瞬間、相手の方から声が投げつけられた。

「焦げ臭い。やはりおまえか、アイオール」

 怒りが滲み出ている声音に、アイオールはにやりと笑った。

「露台での話だと、なかなかひどい目に遭ったようだな。アスフィール」

 途端、牢の扉が跳ねるように開き、イスフェルがアイオールに飛びかかった。

「馬鹿な真似をしやがって……!!」

 イスフェルの拳は油断していたアイオールの左頬にまともに入り、アイオールは吹っ飛んで真後ろの壁に叩きつけられてしまった。誰もが唖然とする中、またしてもイスフェルは意外な行動に出た。再び牢に入ると、自ら鍵を掛けて奥へ引っ込んでしまったのである。

「ア、アスフィール、おまえ、この野郎……!」

 バファロイたちに助けられ、ようやく立ち上がったアイオールだが、頑強な錠に阻まれて反撃も叶わず、その場で地団駄を踏んだ。

「長官! 何で囚人が自分の牢の鍵を持ってるんだ!」

 怒り心頭のアイオールに、長官はしどろもどろに答えた。

「も、申し訳ありませぬ。私の部屋へお通ししようとしたのですが、ご自分で牢へ行くと鍵を持って行かれまして、そのまま……」

「阿呆か!!」

 思わず、叫んだアイオールだった。こうなると、おかしいのは周りの人間たちである。アイオールの怒りの残響が消えぬうちに、今度はアリオスの派手な笑い声が響き渡った。

「こりゃ傑作だな!」

 アリオスのように馬鹿笑いしないまでも、マラナスたち兄弟は勿論、無表情のジリストンまでが口の端に浮かべた笑みを隠すのに躍起になっていた。

「でも、何が何だかさっぱりわからないんだけど?」

 目に涙を溜めながら笑っていたラスティンのとぼけた発言に、ついにアイオールまでが笑い出した。冗談にも笑えないのはイスフェルである。

「笑っている場合か! ラスティン、監獄に火を付けたのは、この馬鹿なのさっ」

 ラスティンは、イスフェルが感情も露わに怒っているのを初めて見た。しかし、今はそのことより、その内容に「はあっ!?」と素っ頓狂な声を上げる。その反対側で、セフィアーナはひとり、得心の溜め息を吐いていた。ジリストンがアイオールたちの行き先を言えなかったわけである。

「馬鹿とは何だ。愛する従弟を助けて何が悪い。あの監獄のことはいいのさ。どのみち、護岸工事で別の場所へ移設される予定らしいからな。そうだろう、長官?」

「は、はいっ」

 二度とアイオールの怒りを買いたくない長官は、何度も頷いて見せた。だが、そんな理由でイスフェルの怒りが収まるはずもない。

「そういう問題じゃないだろうが!」

 例え取り壊される予定でも、建造物に放火するなど重罪である。入居者が処刑待ちや監獄送りの大罪人ばかりだからといって、陰謀の犠牲に焼き殺していいはずはないし、その救出や消火に必死に当たった刑務官たちにもしものことがあれば、どう責任を取るつもりなのか。そして、何より、ズシュールの次期領主がそんなことをしたと知れれば、領地没収の憂き目は免れない。

 しかし、アイオールはフンと鼻を鳴らすと、おもしろくなさそうに言った。

「私にとってはそういう問題だ」

 そして、懐から一通の書状を取り出す。それは、イスフェルがセフィアーナへ託した、アイオールへの手紙だった。

「何だ、これは。おまえ、ふざけるにもほどがあるぞ」

「どこがふざけているというんだっ」

 万感の想いを込めてしたためたものを無下に言われ、イスフェルは手中の鍵を握りしめた。

(もう一度殴らないとわからないのか、この馬鹿は!)

 だが、アイオールにはアイオールの言い分があるらしかった。

「『どこが』だと? 何が『申し訳ない』だ! 謝る前に、なぜ最初からテイランへ、私や父を頼って来なかった?」

「オレは、何としても自分の無実を晴らさなければならないんだっ。テイランへ行くということは、まさに母親の裾子スカートの後ろへ隠れるということ。卑怯者の烙印を押された者が何を叫ぼうと、誰も耳を貸してはくれないだろうが!」

「確かにそうだが、自首すればすぐに無実が晴れるわけではないだろう。再びアンザ送りになるにしても王都へ召喚されるにしても、チストンの二の舞になることは目に見えている。次に襲撃された時、おまえは一体どこへ逃げるつもりだ? そもそも、逃げる暇があればいいがな」

「そっ、れは……」

 往路で黒檻車の車軸が折れたのは、護送隊の足を止め、兵力を分散させるための、敵の作戦だったのだ。イスフェルへ、間接的に睡眠薬入りの食事まで盛って。確かにシールズは、追捕隊の長として王都への安全な護送を約束してくれたが、先だってのようなことにならない保証はどこにもない。暗殺者を名乗るだけあって、相手の戦闘能力は並外れていた。ユーセットを、オーエンを失ったように、追捕隊の者たちをまたみすみす失ってしまうかもしれないのだ。

「おまえ……自分の価値を見くびるなよ!」

 アイオールの低い叱責が、牢の中に響き渡った。

「ついでに、この私のこともだ。私がおまえを助けたのは、おまえが従弟だという理由だけではない。確かにそれは一番大きな理由だが、おまえが逃げ回っていた間に、この国の状況は一変した。おまえの存在は、これから王都でのし上がろうとしている者にとっては脅威となるんだ。何といってもおまえは、その者が犯した罪の生き証人なのだからな」

 聖クパロ河へ飛び込んだ時は、再三の襲撃に首を傾げたイスフェルだったが、確かに敵とすれば、再び公に現れた「生き証人」を看過するわけにはいかない。先の暗殺者がツァーレンの地にいたなら、必ずイスフェルに死の触手を伸ばしてきたはずだ。アイオールは、それからイスフェルを救い、その価値をいっそう高めるために、放火という非常な手段を取ったのだ。

「おまえを、テイランへ連れて行く」

 言い切る従兄を、イスフェルは睨み付けた。

「……オレを匿うということがどういうことか、わかっているのか?」

「匿う? バカ言え。忠義の徒で知られるズシュールがそんなことをするものか」

「忠義の徒」が公の建物に放火するはずはなかったが、それを今、指摘する者は誰もいなかった。アイオールは、なぜか長官を皆の中心に引き出した。

「いいか、よく聞け。筋書きはこうだ」

 そうして後日、長官が正式な文書でテイランへ報告したことには、《秋宵の日》前日の日没直後、対岸の監獄で火事が発生しているとの報告を受けた。救援部隊を編成しようかとしている時、当の監獄に収監されているはずのイスフェル=サリードが這々の体で保護を求めて来、事情聴取の結果、監獄が襲撃され、その犯人に生命を狙われたという。次に襲撃に遭った時、マクバの役所にはそれに耐える場所がなく、被害を最小限に食い止めるためにも、当該の囚人を速やかにテイランへ護送することとした、と。

「伯父上に何の断りもなく……」

 唸るイスフェルに、アイオールは太い眉を困ったように寄せた。

「手段はともかく、結果は褒めてくれるだろうよ。父とて、これ以上、叔母上から大切なものを失わせたくはないはずだ。――叔母上も、テイランへ帰ってくればいいものを……」

 聞けば、イスフェルの母ルシエンは、弟シェラードの指示で、妹エンリルとともにサリード家の領地サンエルトルへ下ったという。

「……母には母の誇りがあるのだ」

 今のイスフェルには、遠く離れた母の想いがよくわかった。そんな目に遭わせた愚息のことを、恨んでいないだろうことも。

「とにかく、テイランへは明日、夜明けを待たず出発する。みんな、もう休め」

 言うなり踵を返し、アイオールは役所本棟へ戻り始めた。ジリストンに促され、セフィアーナたちもそれに従う。行きかけて、ラスティンは牢の中の青年に声をかけた。

「こんなこと言ったら怒るかもしれないけど、オレはまたイスフェルに会えて嬉しいよ。じゃ、おやすみ」

 姉のためだけではない。少年は単純にイスフェルのことが好きだった。共に旅をするうち、彼からいろいろなことを教わった。カイルとはまた違った、人生の師の一人として、イスフェルを尊敬していたのだった。

 だが、やはりイスフェルの胸中は複雑だった。王都へ帰るはずだったものが、真逆のテイランへ行くことになってしまったのだ。放火までしたアイオールのことを思うと、今さら否やを唱えることはできない。恐れるのは、自分がテイランへ行くことで、愛する彼の地まで騒乱に巻き込んでしまうのではないかということだった。

(ズシュールが巻き込まれないはずはないが、オレが実際にいるのといないのとで、状況は随分変わるはずだ……)

 誰もいなくなった地下牢の中で、イスフェルは石の寝台にひっくり返った。考えなければならないことは山のようにあった。テイラン行きのこと、シールズのこと、王都のこと、ゼオラのこと……。だが、疲労が激しすぎて集中できなかった。多少乾いたものの、ところどころで肌に張り付く囚人服が、彼の不快感をいっそう煽った。

(くそっ。何が『もう休め』だっ。アイオールの奴め、疲れすぎてかえって眠れるか!)

 長きに渡る逃亡生活で体力も限界だというのに、夜の河口を一モワルも泳がされた。自分でもよく溺死しなかったものだと感心するほどである。イスフェルが憤懣を溜め息に変えて大きく吐き出した時、地下牢の入り口で人の話し声がした。続いて靴音がひとつ、響いてくる。

「……何の用だ」

 手燈と酒瓶を持って再び現れた従兄を、イスフェルは横になったまま睨みつけた。

「そう言うな。どうせ眠れないのだろう?」

 忌々しくも言い当てられて、イスフェルはゆっくりと身体を起こした。身体が冷えてきたらしく、骨がみしみしと軋んだ。

「せめて一杯ぐらい付き合え」

 アイオールは葡萄酒の瓶を鉄格子の間から差し入れると、自分も栓を抜いて呷った。囚人が酒など口にできるはずはなかったが、イスフェルは酒瓶を受け取るだけ受け取った。

「よく無事だったな」

 鉄格子を背もたれに、アイオールが呟くように言う。それがチストン以来のことを指していることは察したが、イスフェルは再びこの夜のことを持ち出した。

「最後の最後で死ぬところだ。まったく、無茶をしやがって。監獄の方はどうなったんだ? 少なくとも露台の刑務官は死んだのだろう?」

「バカを言え。あれは当て身を喰らわせただけだ。怪我人は多少いるだろうが、重傷者や死人はいない。我々は放火魔ではないんだ。火と煙の回りの計算くらいちゃんとしている。それより問題は、おまえが河に飛び込んだ後だった」

 腹立たしそうに吐息するアイオールに、イスフェルは眉根を寄せた。

「何だ」

「逃げた刑務官が使った足場を使って、おまえの追捕隊の責任者をしているシールズという者が上ってきてな。それを巻くのに時間がかかった。オレまで河に飛び込む羽目になって……」

 アイオールはぶつぶつと言いつのったが、イスフェルは最後まで聞こうとはしなかった。

「シールズが!?」

 ようやく寝台を降りてきたイスフェルを、アイオールは怪訝そうに見遣った。

「知っているのか?」

「知っているも何も……」

 そこで、イスフェルはシールズと王都行きを約束していたことを語った。それを聞いたアイオールは脱力したようだった。

「味方に引き込める男だったか。ちっ……」

 だが、あの場にいたのがズシュール領主の息子たる自分であることを決して知られてはならないことに変わりはない。

「まぁいい。おまえがテイランへ行ったと聞けば、奴もきっと追いかけて来るだろう」

「オレがここにいることを、ツァーレンにはもう知らせたのか?」

「バカ言え。知らせるのは明日になってからだ」

 イスフェルの所在を早々に報告したのでは、本当にツァーレンに暗殺者が潜伏していた場合、毒喰らわば皿までとばかりに、今度はマクバが襲撃されるかもしれない。せめて翌日なら、ツァーレンへの義理も果たすことになるだろう。

「ちょうど知り合いの船がこっちへ来ていてな。さっきもここまで送ってもらったのだ。シールズがしつこかったから、本当に運が良かった。明日はその船でテイランへ帰る。陸を行くよりは、その方が安全だろう」

「ああ、そうだな……」

 イスフェルは、手の中で酒瓶を転がした。シールズは、イスフェルとの約束を守るために、火の中へ飛び込んできてくれたのだろう。そんな彼に黙ってテイランへ行くことが心苦しかった。

「どうした?」

 心配そうなアイオールの前で、イスフェルは伸びた髪を掻きむしった。

「どうしたもこうしたも……」

 何から考えていいのか、わからなかった。それを考えると、目眩がしそうだった。しかし、神経が高ぶっていて、倒れることもできない。

「……おまえ、さっき、オレに『ひどい目に遭ったな』と言ったな」

「ああ」

「ひどい目に遭ったのは、オレじゃない」

 イスフェルは、手を止めた。瓶の口から漏れ出た葡萄酒が、まるで血のように手のひらを濡らしていく。

「ユーセットが、……死んだ」

 瞬間、アイオールの表情が凍り付いた。

「な、に……?」

「オレを暗殺者から守るために、チストンで……」

 ガシャン、と鉄格子の音が廊下に響いた。アイオールが、頭をもたれかけたのだ。

「……あいつが死んだのは、私のせいかもしれんな」

「何を言って……」

「おまえが王都で拘束された後、私はあいつを手紙でなじったのだ。そばにいながら何をやっていたのだ、と――」

 アイオールは、ユーセットとはイスフェルの側近という間柄以外に、ある女性を奪い合った仲でもあり、その性格についてはよく知っていた。自尊心の強い彼のことだ。その後、イスフェルのために躍起になって動いたことは、想像に難くない。

「おまえにはつらいことだろうが、あいつや私からしたら、おまえのために死ねるのなら本望だ」

「ばっ!!」

 イスフェルは酒瓶を放り出すと、鉄格子越しにアイオールの襟元を掴んだ。瓶の口から流れ出す酒のように、イスフェルは感情を爆発させた。

「二度と……二度とそんなことを言うな!!」

 もう二度と、あんな想いはしたくなかった。大切な人間を自分のために殺すなど、二度と。

「本当に……よく無事だったな」

 突っ伏してしまったイスフェルの頭を、幼い日、テイランで過ごした日々のように、アイオールの手が撫でた。ユーセットを弔うように、優しく、優しく……。

「……ところで、なぜ襲撃者が私だとわかった?」

「わからいでか……」

 イスフェルはのろのろと起き上がると、頬を濡らすものを腕で拭った。

「セフィにおまえが来ていると聞いたからだ」

 単純な答えを失念していた。「ああ……」とアイオールは酒を呷ったが、既に瓶の中は空だった。

「あの娘……《太陽神の巫女》なんだそうだな」

「もう、聞いたのか」

 聞いていながら、さっさとツァーレンを出立せず、自分の救出のために奔走していたのかと思うと、イスフェルは複雑だった。

「まったく、世の中にはどうしてこうも厄介事が多いのか」

「アイオール、彼女のことをくれぐれも頼んだぞ」

 立ち上がり、手燈を拾い上げたアイオールを追いかけるように、イスフェルも立ち上がった。

「彼女がいなかったら……本当にオレはここにはいなかった」

 鉄格子を掴み、今までにアイオールが見たこともないような顔をして、イスフェルは言った。何某かの衝撃が、アイオールの心を突く。しかし、彼はただ深く頷いただけで、地下牢を出た。その後、夜風に当たりながら回廊を歩いていると、本棟の方からセフィアーナが歩いてくるのが見えた。噂をすれば、である。彼女の後ろには、しっかりとダイアスが付いていた。

「こんなところで何をしている?」

 むやみに夜中に歩き回るなと注意したのは先夜のことである。明朝、早いことも告げてある。何より、先ほどから胸中に渦巻いている感情が、思わず声をぶっきらぼうにしてしまった。それに面食らったようで、少女は少し視線を泳がせた。

「あの、イスフェルにこれを持って行こうと思いまして……」

 彼女の手の中にあったのは、薄手の毛布だった。

「さっき、服を着替えてもらえなかったから……。あのままじゃ、いくら何でも風邪を引いてしまいます」

「……そうだな」

 妙な沈黙が、二人の間に流れた。セフィアーナの後ろでダイアスが戸惑っているのを見て、アイオールはようやく口を開いた。

「きみに、ひとつ貸しができたようだ」

「貸し……?」

 目を瞬かせている少女に、アイオールは静かに告げた。

「アスフィールは、きみのおかげでここまで来れた、と」

 思えば、イスフェルのためを思い、彼に関する一切をアイオールに言わなかった彼女のことだ。監獄から立ち上る炎に、相当気を揉んだことだろう。

「そんなこと……」

「何か、礼をしなくてはな。何でも言ってくれ」

 しかし、セフィアーナは首を横に振った。

「そんな、やめてください、アイオール様。もう十分にしていただいています」

「それは、アスフィールとの約束があるからだ」

「でしたら、今夜のことで、貸しはなしということにしてください。イスフェルを連れ出してくださって、本当にありがとうございました」

 ツァーレンの宿でイスフェルと別れた時、セフィアーナはその身がもがれるようで、本当につらかった。いくら汚名を晴らすためとはいえ、茨の道を独りで行こうとするイスフェルを止められないことが、止めないまでも一緒に行ってやれないことが、本当に悔しかった。確かにアイオールの選んだ手段は褒められたものではないが、とにかくイスフェルを守ってくれたことには変わりない。

「セフィアーナ」

 食い下がろうとするアイオールを、セフィアーナは制した。

「私はこれでも聖職者の端くれです。見返りのために何かを為すわけではありません。それに、アイオール様もご存じなのでしょう? イスフェルの夢を……。イスフェルは私なんかがいなくても、必ずツァーレンに辿り着いていたはずです。お父様やユーセット殿のこと……それから、王子様たちとのことがある限り、イスフェルは決してその足を止めたりなんかしません。違いますか?」

 この少女の言が、アイオールのもやもやとした感情の正体を知らしめた。セフィアーナは、自分たちと共に、イスフェルの夢を魂を追求する者だったのだ。そんな彼女が、イスフェルを幼い頃から知る自分ではなく彼女が、窮地のイスフェルのそばにずっと付き添っていたことが、羨ましく、悔しかったのだ。――有り体に言えば、嫉妬だった。

(二十四にもなって、なんとも子どもじみたことを……)

 アイオールは呆れたが、わかってしまえば感情の制御もしやすい。

「……相変わらず頑固だな。しかし、気に入った」

「え?」

 困惑顔のセフィアーナに、アイオールはにやっと笑って言った。

「やはり、礼をせずにはいられないな」

「アイオール様!」

「いつでもいい。気が変わったら言ってくれ。では、明日の朝」

 手をひらひらとさせながら、アイオールはセフィアーナの横をすり抜けた。アスフィールの奴、初めてにしてはいい女に目を付けたな――そう思いながら。



 翌朝、まだ日が昇らず、河上に白い霧が立ち込めている頃、一行はマクバの役所を出立した。静かに、といきたいところだったが、姉とは違って早起きが苦手なラスティンが寝ぼけてアグラスの尾を踏んだうえ、役所の外階段を転げ落ち、早々にテイラン側の顰蹙を買うこととなった。

「くれぐれも私たちがここにいたことを外に漏らさないように」

 アイオールはそう長官に言い置くと、港の方へ馬を進めていった。それに従いながら、ラスティンは隣に馬を立てていたイスフェルに尋ねた。彼の顔にできたばかりの擦り傷が痛々しかった。

「ねえ、イスフェル。街道はあっちじゃないの?」

「ああ、テイランへは船で行くらしい」

 囚人の護送は檻車が通常だが、檻車は目立つ上、機動性もなく、そもそもアイオールがイスフェルにそんな扱いをするはずもなかった。

「船!? やった! オレ、船って初めて!」

 はしゃぐ少年の姿を見て、イスフェルはまた王子たちのことを思い出した。鷹巣下りの折り、ラディスの港でコートミールとファンマリオを肩車した日のことは、決して忘れない。その記念の品を、彼は今もしっかりと首から下げていた。一度は亡くしかけた、その大切なものを――。

 イスフェルがボロドン貝の首飾りを握りしめた時、前方からひとりの少年が駆けてきた。水夫の格好をした彼は先頭を行くドーレスの前で立ち止まると、「あっちでお頭が待ってます」と前方を指し示した。そのまま港へ入り、停泊している船の横を通ってある帆船の前まで来た時、上方から声が降ってきた。

「なにチンタラやってんだ! 早くしねぇと、潮を逃しちまうだろうが!」

 見上げて見付けた意外な顔に、イスフェルは目を丸くした。

「グ、グレイン!?」

「よぉ、アスフィール。半年前はオレたちが罪人。今はあんた。人生、ほんっと何が起こるかわかんねぇなあ」

 そう言ってにやっと笑ったのは、頭部に赤い布を巻いた青年だった。頬骨の高い顔はよく日焼けして、白い歯が浮き上がっているように見える。綻びた袖からは引き締まった腕が伸び、その先の手の中では方位磁石のようなものを弄んでいた。

「グレイン、口が過ぎるぞ。早く乗せてくれ」

「人間だけならともかく馬もだなんて、こりゃ礼をはずんでいただかないと割に合わないぜ」

「この船をやったのが誰だったか、おまえの頭はもう忘れたのか」

「なんせバカなもんでね」

 アイオールとグレインなる青年のやり取りを聞きながら、アリオスはイスフェルの耳元にそっと囁いた。大声で言わなかったのは、彼なりに配慮した結果らしい。

「なんだありゃ? おまえの知り合いはヘンなのばっかりだな」

 これにはイスフェルも苦笑するしかなかった。

「悪かったな。グレインはもともと海賊なんだ。半年前、レイスターリアで揉め事を起こしてな。その時、たまたまオレが居合わせて……」

 それは、イスフェルが王都の使節団とともに隣国へ遊学していた時の話だった。彼の接待に当たってくれたレイスターリアの要人を、グレインが誘拐したのだ。その解決に当たったイスフェルの為人を気に入り、グレインは結局、要人を解放してくれた。しかし、帰国するにあたって、グレインの逆恨みを憂慮したレイスターリア政府の度重なる要請で、イスフェルは使節団とは別れ、ユーセットと二人、陸路を行くことになってしまったのだ。

(――ということは、グレインがいなかったら、セフィと出会うこともなかったのだな……)

 そんなことを考えていると、そのセフィアーナをグレインが見付けた。

「おっ。むさくるしい男ばっかりかと思ったら、とんでもない美人を発見! おい、おまえたちは後だ。先に彼女を乗せろ」

 グレインは甲板と波止場の間に渡した板を上りかけていたマラナスたちを押し戻すと、セフィアーナの手を強引に掴み、そのまま引っ張っていってしまった。

「グレインの奴、浮気なんかして、ジーナにバレたら半殺しにされるぞ」

 笑いながらイスフェルのもとへやって来たアイオールは、イスフェルが王都へ戻った後、グレインの才を買って、彼に新しい船と海運の仕事を与えたことを語った。

「――しかし、おまえにも、あのくらいの強引さがあってもいいのではないか?」

 昨晩についてのジリストンの報告だと、イスフェルは相当、セフィアーナに心を許しているらしい。役所の門の前で倒れ、中に運び込まれた時も、ジリストンや長官の言うことには一切耳を貸さなかったのに、セフィアーナの言うことだけは聞いていた、と。

「何の話だ?」

 眉根を寄せるイスフェルを「さぁなー」とはぐらかすと、アイオールは先に乗船していった。二人のやり取りを聞いていたアリオスとラスティンがにやつく中、ひとり居心地の悪さを感じたイスフェルがむくれながら甲板に上がると、舳先でグレインがやたらとセフィアーナに話しかけているのが見えた。囚人としてはすぐ貨物室にでも籠もりたいところだが、セフィアーナと一瞬、目が合い、彼女が困っているふうだったので、イスフェルは仕方なくそちらへ足を向けた。

「グレイン、出航の準備はいいのか? 船長はおまえなのだろう?」

「なに、オレ様がいちいち言わなくても――」

 しかし、グレインが言い終わらぬうちに、後部甲板の方でひどい物音と悲鳴が上がった。狼に驚いた水夫が横静索から足を踏み外して落ちたのだが、彼らのいるところからそれは見えなかった。

「ったく、何やってんだ。セフィ、また後でな」

 言うと、グレインは足を踏み鳴らしながら、二人のもとを去っていった。

「見ての通り、悪い奴じゃないんだ」

 イスフェルが肩を竦めると、セフィアーナは小さく笑った。

「船のことを色々と説明してくれたんだけど、あんまり喋るのが速いから……」

「船乗りがのんびりしてたら、波に呑まれてしまうよ」

「それもそうね」

 くすくすと笑って、少女は手すりに手を掛けた。背後でグレインの出航を告げる声が聞こえたが、二人はそのままそこに留まっていた。朝の冷たい風が、セフィアーナの蜜蝋色の髪を海にたなびかせる。そこから垣間見える横顔になぜか憂いの色が見え、イスフェルは首を傾げた。

「セフィ、どうかしたのか?」

 すると、セフィアーナは驚いたように彼を見て、それから再び海に視線を戻した。

「今日……《秋宵の日》でしょ」

「――ああ……」

 自分のことばかりで失念していた。イスフェルにも夢があるように、セフィアーナにも夢がある。彼女は神官になりたいのだ。《太陽神の巫女》は、その階段の最初の一段に過ぎない。しかし、それを全うできなかったことを、彼女の責任ばかりでないとはいえ、悔い、そして憂えているのだろう。

「セフィ」

 翳りのある表情で自分を見上げてきた少女に、イスフェルは優しく微笑んだ

「テイランにも神殿はある。きみが育った孤児院のような場所も。きっときみの力が必要な場所だ」

「イスフェル……」

 ちょうどその時、東の海に朝日が昇り始めた。その光のゆえか、瑠璃色の瞳が輝く。

「ありがとう、イスフェル」

 そして、少女はある歌を口ずさんだ。自分たちがつらい時もその道を照らし続けてくれた神のために、そしてテイランで新しい生活を始める自分たちのために、その歌、《称陽歌》を――。


【 第四章 了 】

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