第九章 血塗られた途へ --- 4

  杯を片手に、ホレスティアが言った。

 『オレは狙った獲物を仕留められなかったことは一度もない』

  ケルストレスの嘲笑う声は、千里の彼方までも響き渡った。

 『私の獲物は万の大軍。おまえにこれが仕留められるか?』

  万里の彼方までも響き渡ったのは、カーラズの声。

 『そんなのは朝飯前だ。オレの炎をもってすれば』

  三聖官せいがんの愚かな闘いは、夜の帳さえ切って落とした。


    (テイルハーサ《聖典》「シャーレーンの章」「フォーディンの章」)



「――そして、野山を黒こげにした三聖官せいがんは、翌朝、シャーレーンによって太陽神の前に引きずり出されたというわけです」

 夕刻、剣舞祭の行われるハウルフォース広場に設けられた王族の天幕で、カレサスから火宵祭の成り立ちを聞いていたコートミールは、その結末に口を大きく開けて笑った。

「なんだかクイルとサウスを怒るクレスティナみたいだ。でも火宵祭って、ケンカが始まりのお祭りなんだな!」

「もともとは……まあ、そうです」

 コートミールの無邪気な様子を見ると、クレスティナが実際に『近衛のシャーレーン』と異名を取っていることは知らないのだろう。カレサスはそのことを告げるべきか否か逡巡し、結局口にするのをやめた。いずれ身をもって知る日が来るだろう。

(……しかし、喧嘩の祭、か。ゼオラ殿下は兵士たちの間でケルストレスの化身と崇められているというし、今夜の剣舞祭、ただでは済まないだろうな……)

 ゼオラが何事も大きくしなければ気が済まないさがであることは、最早サイファエール中の人間の知るところである。既に王子たちは巻き込まれてしまった。そして天下の宰相親子も。次に餌食となるのが誰か、カレサスのみならず王都中の人間が興味のあるところだろう。

「――それでたくさん火が灯してあるんだな。でも、水桶がたくさん置いてあるのは何で?」

 王宮から大神殿前の広場まで、道という道に篝火が焚かれているのを、コートミールは馬車の上から見た。しかし、その光を受けて水面を輝かせている水桶の数も、相当なものだったのだ。見える範囲でサウスに篝火の数を数えてもらい、自分は水桶の数を数えると、水桶は篝火の数の五倍もあった。

「三聖官の喧嘩で一番迷惑したのは誰だと思われますか?」

 カレサスの問いに、コートミールは左右に身体を揺らせた。

「えっとお……野原にいた動物たち? 兎とか鹿とか……」

「ああ……ふふ、そうですね。一番迷惑したのは、きっと住処を失った彼らでしょうね。では、二番目は?」

「二番目? うーんと……わからないよ。もう。カレサス、すぐ問題にするんだから。いったい誰さ?」

 ふくれっ面で膝を抱える王子を見て、カレサスはいっそう口元を綻ばせた。筆頭侍従を命ぜられた時はどうなることかと思ったが、ひと月もすると王子たちも懐いてくれ、それなりになるものだ。

「ふふふ。フォーディンですよ、ミール様。水の聖官の」

「あっ、そっかあ! カーラズの火を消さないといけないもんね!」

「そうです。夜の闇には炎しか見えませんが、実はあの水こそ、今宵の主役なのかもしれません」

 その時、コートミールの横でずっと黙っていたファンマリオが、小さな唸り声を上げた。

「マリオ様、大丈夫ですか?」

 心配顔のサウスが後方から覗き込むと、少年は顔を歪めながら、釣り上げられてしまった魚のように口をぱくぱくとさせた。

「マリオ、しっかりしろよ。オレが付いてるぞ!」

 コートミールの励ましに目では頷いてみせるものの、その口からは声が発せられない。困惑したカレサスが立ち上がった時、天幕内を仕切る布が揺れ、イスフェルが入ってきた。その後方には、相変わらずユーセットとセディスの姿も見える。

「これは、イスフェル殿」

 王都最大の祭とあって、今夜は誰もが着飾っている。その中にあって、イスフェルの姿は群を抜いていた。サイファエール剣舞の発祥地がデラス砦ということで、辺境の兵士たちの格好を模した服装は、しかししっかりとしたあつらえで、宰相家の嫡男という身をやつすものではない。薄布で織られた肩掛けは、青年が好んで用いる蒼色で、篝火に光っているところを見ると、硝子細工が散りばめてあるのだろう。額には必須の紫水晶の額輪が飾られ、藍玉の瞳とともに相対する人間を見つめている。

「……やはり今宵の主役は貴方ですね、『冬のフォーディン』殿」

 クレスティナのように、イスフェルもまた聖官名の付いた異名を持っていたが、彼の場合、それはあまり名誉なものではなかった。

「何の話です?」

 カレサスが口にした唐突な内容にイスフェルが目を瞬かせた時、コートミールが歓声を上げて彼に突進した。

「イスフェル!」

「ミール様、いよいよですね」

 王子になって初めての務めだというのに、背負わされた期待は最初からあまりにも大きなものだった。しかし、二人は厳しい稽古に時には泣きながらもよく耐えた。今日はその成果を見せつける日である。

 もうひとりの主役も励まそうと視線を転じたイスフェルだったが、ファンマリオの様子はコートミールと正反対のものだった。

「――マリオ様、いかがなさったのです?」

 ファンマリオは、長椅子の上で具合が悪そうに縮こまっていた。

「朝から演舞のことでずっと緊張なさっていて……」

「ずっと何も食べてないんだ」

 コートミールとクイルが心配そうな表情で青年を見上げる。無理に食べさせようともしたが、ファンマリオが頑として口を開かなかったのだ。

「……それはいけませんね」

 イスフェルはそばの円卓から果物の乗った皿を取ると、その中の甜瓜メロンを、持っていた短剣で食べやすい大きさに切り分けた。それを見ていたセディスが怪訝そうに眉根を寄せる。

「……おい、イスフェル。その剣――」

「ああ」

「ああって……」

「王子殿下のためなら、喜んで果物用にもするさ」

 その短剣は、成人の日、両親から贈られたものだった。そしてそれは、今宵、披露する親子舞で使用するものでもある。

「カーラズは果物が好きだというし、特に嫌われることもないだろう。どのみち出場者の剣は、演舞の前に祭壇で浄められる」

 言って、小さく角切りにした甜瓜をファンマリオに差し出すと、少年はためらうようにイスフェルの顔を見た。その瞳が「どうしても食べなきゃダメ?」と訴えている。イスフェルが小さく頷きを返した時、横合いから手が伸び、その一欠片はあっという間にコートミールの口内に消えた。

「んっ、甘い! マリオ、早く食べてみろよ。おいしいぞ、これ!」

 イスフェルが自分のために切ってくれた甜瓜を容易に奪われて、ファンマリオは瞬間的に頬を膨らませた。

「もう、ミールってば! それボクのだよっ」

 これ以上取られまいと兄に背を向けて皿をかばった途端、少年の腹の虫が盛大に鳴いた。青年に笑われて赤面したファンマリオは、何とかごまかそうと甜瓜に手を伸ばし、ひと思いに口に放り込んだ。すると、瑞々しい甘さがはらわたに染み渡っていった。

「イスフェル、ありがと……」

「いいえ」

 本来、それは侍従の仕事である。サウスはイスフェルが持っていた皿を慌てて引き受けると、引き続きファンマリオに食事を取らせた。その横で、クイルは感動したようにイスフェルを見つめ、カレサスはやはり自分はまだまだだと反省するのだった。

「失礼します。イスフェル殿、弟君がいらっしゃっておりますが」

 侍従の声に振り向くと、部屋の入口に久しぶりに顔を見る人物が立っていた。

「シェラード」

 イスフェルが立ち上がると、侍従に促されたシェラードがおずおずと部屋の中へ入ってきた。その後ろから、同じように王立学院の制服を纏った少年たちがふたり続く。王族の天幕に王立学院生が何の許可もなく入れるわけがない。尋ねると、天幕前で偶然出くわしたゼオラに、「邪魔だから早く入れ」と押し込まれたらしい。

「兄上、父上とちゃんと稽古なさったのでしょうね」

 まるで尋問するような物言いだったが、無論、シェラードの口元には笑みがある。

「昨日な」

「昨日だけ!? 私や母上に恥をかかせないで下さいよ」

「こーいつ!」

 弟に拳骨を当てる真似をしながら、イスフェルはふと先日の国王との会話を思い出していた。久しぶりの再会だったが、成人の日同様、いや、それ以前とも同様に、シェラードは彼のことを慕ってくれている。

(シェラードを失う日など、きっと来ない。オレはそう信じる)

 強く念じた時、コートミールがふたりの間に立った。

「こにょひとがイシュフェルにょおちょーちょ!?」

 頬袋にいっぱい果物を詰めた少年に、宰相家の兄弟たちは思わず吹き出した。

「ええ、シェラードといいます」

「この服……前、サウスとクイルが着てたのと同じだね」

 水色の服を不思議そうに摘んできたファンマリオに、シェラードは膝を折って説明した。

「これは王立学院の制服です」

「オーリツガクイン?」

「友だちを作って、勉強したり、体を鍛えたり、遊んだりするところです。十二歳になられたら、おふたりも行かれるといいでしょう」

 友だちが作れると聞いて、コートミールが飛び跳ねた。

「うん、行く行く! なっ! マリオ!」

「うん!」

 まだ完全に緊張から解かれていなかったが、それでもファンマリオの顔色は、先程と比べるとかなり良くなっていた。

「サウスさん、クイルさん、お久しぶりです」

 シェラードは立ち上がると、今度は双子侍従に向かって会釈した。彼らが在学時、兄イスフェルに付きまとっていたことを、シェラードは勿論、知っている。弟ということで、教室まで顔を見に来られたことがあるのだ。最初は迷惑に思ったが、兄の友人たちがひどい目に遭っているのを目の当たりにしてからは、進んで挨拶するようになっていた。

「お二人が王宮に行かれた後、例の人たち、戦々恐々としていましたよ」

「フン。サウスの髪をこんなにしたんだ。いつか思い知らせてやる」

 強い口調で眉根を寄せるクイルに、学院生たちは軽く息み、視線を交わし合った。その様子を見て、イスフェルは小首を傾げた。

「クイル」

 呼ばれて顔を上げたクイルは、尊敬すべき青年の瞳がわずかに細められているのを見て、すぐに己の不用意な発言を認めた。王子の侍従となった彼らの軽口が、時に思わぬ事態を招いてしまう危険性があることは、カレサスからも常に注意されていることだった。

「……すみません」

 どうも空気が重くなってしまったので、話題を変えようと、シェラードは兄を振り返った。

「兄上、どうして私も侍従に推薦してくださらなかったのです? 鷹巣下りも後になって知らされるし……私の立場がないではないですか」

 左右の友人たちに気まずそうに視線を巡らせるシェラードに、イスフェルより早く、ユーセットが口を開いた。

「何を馬鹿なことを。おまえが侍従になったら、将来、誰が一族を取りまとめるんだ」

「それはそうですけど……」

 三代前に世襲となった宰相職を戴いてから、宰相家では多忙な長男に代わり、次男が一族を取りまとめる習わしとなっていた。長男が宰相家の国王なら、次男が宰相というわけである。ウォーレイにも弟がいたが、彼は三年前の落馬事故で他界したので、現在はその息子が曾祖父の故郷サンエルトルの町でその任を担っていた。シェラードはいずれ従兄からその仕事を引き継ぐのだ。

「悪かった。おまえがそばにいてくれたら、もっと心強かったのだろうな」

 イスフェルが素直に詫びて弟の肩に手を乗せると、シェラードはそれだけで気が済んだようで、しかめていた顔に笑みを浮かべた。

「父上にはお会いしたのか?」

「いえ。父上は今、陛下のおそばにいらっしゃるので――」

 天幕の奥へ視線を向けると、布越しに父ウォーレイが国王や侍従長、そして近衛兵団長らと談笑しているのが見えた。兄弟が心を熱くしながらその光景を眺めていると、ふいに父が顔をこちらに向けた。その軽く挙げられた右手に、シェラードは元気よく頭を下げた。

「……この間、陛下からおまえは元気かと尋ねられたぞ。後で御挨拶に行け。きっと喜んでくださる」

「ほっほんとうですか!?」

 シェラードは興奮したように頬を紅潮させると、もう一度、国王を見た。『国王の影』と名高い父と、鳴り物入りで王宮に入った兄。二人は彼の自慢だったが、まったく劣等感を抱かせないわけでもなかった。そんな彼を、まさか国王が気遣ってくれていたとは!

「おい、シェラード、そろそろ……」

 開会の時刻が近付き、周囲が慌ただしくなってきたのを感じた友人たちに促され、シェラードは兄たちに挨拶をして天幕を出ると、学院生の招待席へと向かった。しかし、無論、口元に浮かぶ笑みを抑えることはできなかった。同じように興奮した友人たちと「一緒に挨拶に行こう!」と盛り上がっていたため、前方をよく見ていなかったシェラードは、演舞台の周囲に設けられた観覧席の階段を降りてきた祭礼官と、すれ違いざまぶつかってしまった。

「これは失礼を致しました」

 いくら宰相家の次男とはいえ、まだ王立学院に在籍する身である。丁寧に無礼を詫びると、シェラードは再び意気揚々と歩き出した。――だから彼は気付かなかった。その祭礼官がしばらく彼の去りゆく姿を見ていたことに。そして、観覧席の上方を振り返り、カウリス家の次男トールイドと遠巻きに視線を合わせたことに。

 その瞳に何の意志も浮かべていない祭礼官は、そのまま祭壇の袖へと消えていった。

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