第九章 血塗られた途へ --- 5

 神が西の地平に完全に姿を消した。それに合わせて、四人の祭礼官たちが太鼓を同時に打ち鳴らし、集った千人の口を封じる。別の四人の祭礼官がゆっくりと演舞台の四隅に歩み寄り、灯火に火を入れた。

 再び太鼓が大きく鳴り響く。辺りは夕闇と沈黙で満たされた。

 ふと、どこからか刃鳴りの音が聞こえてきた。やがて、言い争うような声がそれに重なる。

「――エアル、このウスノロめ! 金貨がもらえなかったのはおまえのせいだぞ!」

「なんだと! シードが余計な欲を出すからさ!」

「だまれっ! 兄に向かってなんて言いぐさだ!」

「何が兄だ。都合のいい時だけ兄貴面しやがって!」

 しばらくの沈黙。そして、

「今日こそ決着を付けてやる!!」

 険悪に和する声が響いたかと思うと、演舞台の下からふたつの小さな人影が飛び出してきた。それぞれ、東と西から演舞台に駆け上がる。

「せいやっ!」

 演舞台上で勇ましく剣を構え対峙したのは、今や王宮の人気者コートミールとファンマリオだった。王子たちの姿に、この日初めての歓声が上がる。

「王子たちの演舞が初っぱなで良かったな」

 ファンマリオの緊張振りを思いやって、ユーセットが吐息する。イスフェルは小さく笑って頷いた。

 彼らの席は王族たちの貴賓席のすぐ下にある。そのため、見晴らしは非常に良く、演舞者たちの生き生きとした表情がよく見えた。

 王子たちの演舞は、寸劇仕立てになっていた。デラス砦のそばに住む仲の悪い兄弟が、敵の襲来を受けて戦ううちに互いを認め合っていくという、いかにも誰かが好みそうなものだった。

「やあっ!」

 雄叫びとともにファンマリオが剣を突き出す。それを、コートミールは鍔で受け止めると、身体をひねって受け流した。と、今度はコートミールが風を切る。

 わっと観客席が沸いたのは、ファンマリオが手放しで後転を決めた時だった。つい先日まで手を着かなければできなかった技を、少年は見事やってのけた。続いてコートミールも負けじと片手に剣を持ったまま側転した。彼の場合、テフラ村にいた時からそういったことをよくやっていたので、軸のぶれのない、美しい回転だった。

「おっと、ここで悪役の御登場だ」

 山岳民の民族衣装を纏い、荒々しく演舞台に上がったのは、言わずと知れたゼオラだった。この剣舞の演出家でもある。

 イスフェルが後方の通路に視線を走らせると、今は空いている王子たちの席の下で、クレスティナが呆れたような表情で演舞台を見つめているのが見えた。

 イスフェルは何度か王子たちの稽古を見に行ったのだが、彼の記憶が正しければ、蛮族たるゼオラは、一度は兄弟を打ち負かすものの、二度目には敗走していたはずである。しかし今、兄弟たちの攻撃は既に五度に及んでいた。

「ゼオラ殿下、王子たちを相手に本番で遊ばずとも……」

「あの楽しそうな顔! だが、見ろ。ミール様の表情……マズいぞ」

 ユーセットの言葉に視線を移すと、ゼオラが台本に反してなかなか退場しないので、コートミールが半ば本気で目を吊り上げていた。その反対側で、ファンマリオがこちらは肩で大きく息をしている。

 ふいにコートミールが構えていた剣を下ろした。怪訝そうなゼオラに向かって、剣ではなく人差し指を突きつける。

「おじ上、卑怯だぞ!」

 瞬間、観客席の人々の目が点になり、その中でクレスティナはひとり、天を仰いだ。王子たちにとっては初めての大きな公務であり、そのために稽古をがんばってきたというのに、これではすべて水の泡である。神聖な雰囲気など疾うになく、ゼオラのにやついた表情に観客席がざわめき始める。

「『おじ上』? おじ上とは誰のことだ?」

 飄々と言い返されて、コートミールはますます顔に血を上らせた。

「オレたちがおじ上にかなうわけないじゃないか!」

「情けない! それでも男か!」

「嘘つき! それでも男か!」

 演舞台で始まった不毛な口げんかに、貴賓席では三王女たちの笑い声が響き渡った。しかし、愚息の好き勝手な様に、ラースデンだけは不機嫌そうに顔をしかめている。

 兄と王従弟が言い争っている間に、ファンマリオは周囲に視線を走らせた。剣ではとてもゼオラに太刀打ちできない。それに、コートミールはともかく、彼自身はこれ以上剣舞を続ける体力を持ち合わせていなかった。

(何かないかなあ……)

 そして、あるものが少年の目に留まった。



 風の流れが変わった。

 ふと、ゼオラの鼻先を、妙な臭いが掠めていった。続いて、なにやらパチパチという音が耳に入る。

(まさか――)

 ゆっくりと振り返ったゼオラの目に映ったのは、灯火を持って笑っているファンマリオの姿だった。

「おじ上、水桶、あっちにあるからね。フォーディンに火を消してもらってね」

 視線を落とすと、炎は既に舌でなめるようにゼオラの衣装を焦がしつつあった。

「マッ、マリオ、貴様!!」

 世にも珍しい光景だった。ひとで遊ぶのはゼオラの十八番のはずである。それが御年八歳の少年に手を返され、今度は彼自身が掌の上で踊る羽目になってしまったのだ。文字通り尻に火がついた状態で。

「殿下!」

 気を利かせた近衛兵たちが水桶を運んできた。それに飛び込もうと演舞台の端を蹴った瞬間、

「演舞台を下りたから、おじ上の負けだね」

 コートミールの冷たい一言がゼオラを水桶の中へと突き落とす。

「おぬしら! 恩を仇で返すか!!」

 しかし、誰ひとりとして、彼に同情する者はいなかった。同情どころか、観客席は今や爆笑の渦であった。

 こうして、主催者に相応しい剣舞祭が幕を開けた。



 貴賓席とは反対側に設けられた祭壇の上には、三聖官せいがんへの供物が所狭しと載っていた。ゼオラは形式張った行為を嫌うが、こういうところはひどく気前が良いのだった。そこへ祭礼官たちが剣舞祭の出場者たちの剣を並べていく。しかし、最初の剣舞が喜劇だったせいか、剣を置かれると同時に紹介される出場者たちには、あまり緊張感は見受けられなかった。

 宰相親子が列の最後尾に付いた時、イスフェルの肩が隣人とぶつかった。

「失礼――」

 顔を上げると、そこに立っていたのはカウリス家の嫡男エルドレンだった。

 武に秀でた彼は、政治的な事情はともかく、個人的にはゼオラの為人を気に入っている。それは剣舞祭出場の理由のひとつでもあった。そして、最大の理由は――。

「サリード家の舞を楽しみにしていますよ」

 彼はそう言って不敵な笑みを浮かべると、祭礼官の名乗りに合わせて腕を掲げた。

「……ありがとうございます」

 周囲に幾度となく言われた言葉だったが、彼に言われるとどこか嫌悪感を覚える。内心で面持ちを硬くしながら、イスフェルは短剣を祭礼官に預けた。

 一方、貴賓席では、ゼオラが焦げて襤褸ぼろ布と化した衣装を脱ぎ捨て、王子たちの新人侍従を呼びつけていた。

「さては、おぬしらだな。王子たちに余計な知恵を付けたのは」

「め、滅相もございません!」

 言いがかりを付けられて、サウスとクイルは慌てた。いくら悪戯好きな彼らでも、人に火を着けたことはない。

「おぬしが子ども相手に馬鹿をするからだ」

 父ラースデンに睨まれ、ゼオラはいきり立った。

「父上はもっと人生を楽しまれてはいかがですか。あの後、劇的な展開になるはずだったものを……」

 未だに懲りていないゼオラに、誰もが呆れ返った。

「皆の者、そろそろ始まるようだぞ」

 国王の期待のこもった声に演舞台へ視線を戻すと、最初の演舞者が台上に姿を見せていた。どこか頼りなげな青年は、王都駐屯部隊に所属して二年目だという。彼は貴賓席に向かって敬意を払い、剣を水平にかざした――はずだったが、その手の中には何もなかった。観客がざわめく中、青年の舞が始まる。しかし、それは確かに剣舞だった。何も持っていないはずの彼が腕を振るう度、空気が割れ、人々に剣の軌跡を錯覚させた。

 その後の出場者たちも、この日のために鍛錬してきた舞を惜しげなく披露し、オレンズたち祭礼官の剣舞へかける想いは、まずまず報われたのだった。



 天上を星々が埋め尽くし、祭もいよいよ大詰めを迎えた。

「いくら祭だからって、あの装飾は悪趣味だったな」

 友人の言葉に、シェラードは大きく頷いて見せた。

 先刻行われたエルドレンの剣舞は、舞は非の打ち所がないほど完璧だったが、持っていた剣が若者たちの顔を歪ませた。篝火に映えるようにとでも思ったのか、彼の剣には剣先から数個の真珠が幾筋も吊られてあったのだ。

「そんなことより、次、いよいよおまえの兄上たちだぞ」

 興奮を滲み出している友人の声に、シェラードははっとして唾を飲み込んだ。自分がともに舞えないことは残念だが、きっと素晴らしい剣舞を見せてくれるはずだ。

 ふいに場内が暗くなった。祭礼官たちが篝火を幕の外に遠ざけたのである。演舞台の灯火も消され、新月のこの夜――もし月の聖官せいがんミーザが夜の見回りをしていたら、三聖官の愚かな争いは早々に咎められていただろう――、辺りは闇で満たされた。何も見えなくなってしまった人々が、星々の明かりだけを頼りに目を凝らせた時、太鼓がひとつ、音高く打ち鳴らされた。刹那、切り取られた闇の一部が宙を舞い、銀の線を走らせる。

 人々がどよめきの声を上げた。銀の線が走った部分の闇がさらに切り取られ、その内から炎を生み出したのである。それは、一瞬のうちに演舞台の四隅に放たれ、沈黙していた灯火を再び燃え上がらせた。さらに、落ちた火の粉が周囲を巡る溝の油に引火する。

 炎の方形陣の中に、漆黒を纏った男たちの姿が浮かび上がった。対角線上に二ピクトほどの間隔を空け、互い違いの方向を向いて身を立たせている――宰相家の父子ウォーレイとイスフェルだった。観客席から一斉に歓声が上がる。

「……あやつら、時の王子よりも目立ちおって」

 貴賓席で、ゼオラが悔しそうに呟いた。その横で、双子たちは身を乗り出し、一心に演舞台を見つめている。親子とも、先刻までの貴族らしい出で立ちから打って変わり、漆黒の外套に銀糸で縫い取りをした漆黒の衣装を身に纏っていた。同時に翻った外套の裏地は、炎を鏡に映したような緋色だった。

 ウォーレイとイスフェルの剣舞は唯一、短剣を使用しているため、他の組と比べて間合いが狭い。その動きはあまりにも激しく危険で、すぐに人々の心を魅了した。

 二段の突きの後、一瞬で短剣を逆手に持ち替えたイスフェルが、拳を繰り出すかのようにウォーレイに迫る。しかし、ウォーレイはそれよりも一瞬早く、イスフェルの懐に入り込み、剣を突き出した。普通なら避けられない攻撃を、イスフェルは稽古の甲斐あって、身体を右に転じ、危機を免れる。

 目まぐるしい攻勢のあとの静寂。そしていっそう激しさを増していく舞。場内に緊張の糸が張り巡らされる。

 演舞台上のイスフェルでさえ、自分たちの舞の完成度におののいているくらいだった。しかし、その油断が彼の息を詰まらせた。父がわずかに均衡を崩したため、すれすれの場所を通っていた剣先に、父の喉元がさらされたのである。

(しま……ッ)

 しかし、聞こえてきたのは意外にも金属音だった。ウォーレイが中央に突き立てられていた遊剣で阻止したのだ。思わず、どっと汗をかく。そんな息子を見て、ウォーレイがふっと笑みを浮かべた。

「……祭の最後に、陛下が公表なさる」

 それはあまりにも小さな声だったが、周囲の歓声に消されることなく、青年の耳に達した。イスフェルは藍玉の瞳を見開いた。

『王弟殿下を、海の上将軍に――』

 自分の進言が、現実のものとなる。おずおずと父を見返すと、彼は少年のように笑った。

「もう、待つのはやめだ」

 父の言葉に、イスフェルは満面の笑みを浮かべ、遊剣を薙ぎ払った。

 ……互いの手首に互いの短剣を当て、軽く引く。傷口から生命の水を滴らせながら、二人の剣舞は終演を迎えた。



 それは、まるでときの声のような歓声だった。観客席の人々は両手を高く上げ、それを痛いほど打ち鳴らした。警備と装飾のために盾を持っていた近衛兵たちは、それを割れんばかりに打ち鳴らした。剣舞祭に出場した剣士たちは、持っていた剣を天上に突き上げ、隣人の物と打ち鳴らした。

 周囲の熱狂は、演舞を終えたばかりのイスフェルをいっそう興奮の高みへ押し上げた。敬愛する父と剣舞ができたこと。それが三聖官せいがんも認めてくれるであろう最高の出来であったこと。そして、父たちの夢が再び走り出したこと――。

 歓声に応えていた腕を下ろすと、青年はひとたび深呼吸した。胸に押し寄せる思いを落ち着かせ、父を振り返る。それに気付いたウォーレイが、微笑みとともに歩み寄り、彼を抱きしめてくれた。歓声が地響きへと変わる。宰相家古今の英雄は、この瞬間、金剛石よりも硬き絆を得たのだった。

「父上……」

 思わず、視界が滲む。

(――オレは、なんて恵まれているのだろう……)

 温かい家庭と、頼もしい友人たち。彼らと共有できる夢。夢を実現できる場。当たり前のように思っていたものが、いかに得難く尊いものであるか、この数か月の間で、青年は身をもって理解した。それを得られたのは、彼自身の努力もあったかもしれないが、それは大した力ではない。

「――神よ、感謝します……」

 そう小さく呟いた彼の双肩に突如、重い力がのしかかった。



 持っていた扇で口元を隠すと、ルアンダはそっとほくそ笑んだ。隣で弾かれたように立ち上がり、しかしそのまま立ち竦んでいる夫をちらりと見遣り、再び演舞台へ視線を戻す。そこでは、英雄気取りで手を振っていた宰相補佐官が顔面を蒼白にしつつあった。

「ち……ちうえ……?」

 突然、倒れ込んできた父を、イスフェルは最初、よろけたのだと思った。五十に迫る年齢で激しい舞をし、おまけに後転などの大技まで披露したのだ。足がもつれても当然である。しかし、父は彼の腕の中で身じろぎひとつしなかった。

「父上? ちちう――」

 突如、冷たいものがイスフェルの背筋を走り抜けた。

 ついさっきまで紅潮していた頬がどす黒く変色しているのはなぜか。剣を取り落とした手が妙に突っ張っているのはなぜか――。

(――まさか……!)

 イスフェルが父の手を取ろうとした時、突然、ウォーレイの身体が痙攣した。まるで全身が心臓となったように、激しく跳ねる。均衡を崩し、青年が演舞台に尻餅を着いた拍子に、ウォーレイは口から泡を吹き、そのまま仰向けに倒れ込んだ。

「父上!!」

 遠目にも父の様子がおかしいとわかったのだろう。国王の御前ということも忘れ、観客席を飛び出したシェラードが、炎の壁を越えてウォーレイの身体に取り縋る。

「父上!? 父上!?」

 しかし、父は何の反応も示さなかった。シェラードの揺さぶりに、ウォーレイの腹の上に載っていた左手がだらりと台上に落ちる。炎の明かりに、イスフェルの付けた傷跡が露わになった。

 頭上を、大きな星が流れていった。

「火を消せ! 早く火を消すんだ!!」

 突然のことにようやく動き出した祭礼官や近衛兵らの頭越しに、ルシエンは泣きじゃくるエンリルを抱きしめながら、イスフェルの様子がおかしいことに気付いた。もうひとりの息子シェラードが必死に叫んでいる横で、ゆっくりと立ち上がったイスフェルは、まるで幽鬼のような表情で貴賓席の方へ身体を向けたのである。その視線の先には、王弟トランスが立っていた。

 ルシエン同様、勿論、ユーセットもイスフェルの変貌に気付いていた。何かを呟いていることも。しかし、座っていた場所が悪かったため、走り回る祭礼官たちに邪魔をされて、演舞台になかなか近付けない。かつてない不安に襲われ、冷静なはずの彼の額に冷や汗が滲んだ。

「どいてくれっ」

 しかし、あと少しのところで、彼は間に合わなかった。炎の向こうに揺れるイスフェルの姿は、地獄の底に佇む鬼神そのものだった。

「なぜ父を殺したのです!!」

 その怒号は、騒然としていた周囲を一瞬のうちに静まり返らせた。誰もが呆気に取られて青年を見、その視線を追っていって、貴賓席でひとり立ち上がっているトランスを見る。

「――イスフェル、やめろ! 何を言うんだ!」

 イスフェルが何を根拠にそんなことをいうのかはわからないが、ユーセットは彼を信じている。しかし、相手は王族である。下手をすると、こちらが致命傷を受けることになるのだ。だが、取り囲まれた炎に、イスフェルは完全に焚きつけられていた。

「父の手首に……発疹が出ています。それから診て……毒はシオクラス――」

 それを聞いた王弟の顔が強張る。イスフェルは確信した。トランスが彼の短剣に毒を塗りつけたのだ。おそらく、演舞の前、祭壇で浄めるために剣を手放した、あの一瞬に。

「殿下が私にくださり、とおっしゃった……シオクラスです!!」

 四方の観客席で、悲鳴にも似たどよめきが起こる。人々は隣同士で顔を見合わせ、小声で何か話しては、演舞台のイスフェルと貴賓席のトランスを不安げに眺めた。

 そんな中、シェラードは呆然と視線を落とした。兄の言う父の手首を見ると、短剣では決して付けようのない赤色の発疹が、傷口を中心に手の平の広さほども浮き出ていた。傷口の縁には塩をまぶしたような白いものさえ見受けられる。シオクラスという毒のことは今の今まで知らなかったが、きっと猛毒なのだろう。その証拠に、何度呼びかけてみても、父は目を覚まさないではないか。

「……っ……そんな……嘘だ……」

 若者が表情を失った父の顔を見下ろした時、兄の笑う声が耳を打った。しかし、見上げた先に立っていたイスフェルは、笑ってなどいなかった。あまりの怒りに、腹が、喉が、舌が、歯が震え、言葉が出てこなかったのだ。その形相は、今までシェラードが目にしたことのない、相手に恐怖しか抱かせないようなものだった。

 そのイスフェルが、やっとの思いで声を絞り出す。

「なぜ……なぜ、父を……やっと――やっと、貴方と……!」

 まぶたの裏に、父の笑顔が浮かんだ。

 父と剣舞の稽古をしたのは、つい昨夕のことだったのに。

 父が頭を撫でてくれたのは、つい昨夕のことだったのに!

 父が国王兄弟と走ることができる喜びを夕陽ととともに胸に沈めていたのは、つい昨夕のことだったのに!!

『改めて、親子の契りを交わそう――』

 青年が父の力になれたことに心を震わせたのは、つい昨夕のことだったのに……!!

 地に突き立ったままになっていた遊剣が、青年の小刻みに震える手に当たった。彼は反射的にそれを引き抜いた。

「――兄上っ……!」

 しかし、シェラードの腕も、ようやく演舞台に上ったユーセットの腕も、イスフェルには届かなかった。

 ――恋人に目の前で自害された青年。

 ――愛馬を不当に奪われた騎士。

 ――毒針の盾にされた少女。

『全ての人から全てのものを奪い去るまで――』

『明日は我が身だぜ――』

 友人の声が脳裏に響く。それらはリグストンに限ったことではなかった。

『三十年前と少しも変わっておらぬ……』

『跪け、イスフェル』

『その宣誓を、待っていた』

 父ウォーレイは、イスフェルが生きるための道標だった。それが、こんなにも、あっけなく、何も、言い遺すことなく――。

 イスフェルの内で、何かが弾けた。



「なぜ父を殺したあっ……!!」

 イスフェルが構えた剣先は、しっかりと王弟を捉えていた。凄まじい怒気と殺気がイスフェルの全身から竜の如く立ち昇り、トランスに襲いかかる。今や仇敵とされたトランスは思わず息を呑むと、足幅を開き、全身に力を入れた。そうしなければ、青年の気迫に耐えられなかったのだ。

「愚か者が……!」

 舌打ちし、腰の剣に手を伸ばす。その時だった。

「近衛兵!!」

 彼の横で、裾を翻して立ち上がったルアンダが、鋭い叱咤の声を上げたのだ。

「何をしている! この反逆者を引っ捕らえよ!!」

 叫ぶなり、水平に腕を掲げ、演舞台の青年を指さす。消火活動のため、演舞台の周囲に散らばっていた近衛兵たちは、しかし、困惑気味に顔を見合わせた。確かにイスフェルは王弟に対して剣を向けたが、その原因となった宰相の死は、王弟がもたらしたものだというではないか。おまけに彼は宰相を敵視しており、国王イージェントの頭痛の種でもある。

 一方のイスフェルは、ルアンダの指先が自分を指しているのを見て、秀麗な顔を怪訝そうにしかめた。

(反逆者だと……?)

 何を言われているのかわからなかった。彼は自分の剣に毒を塗り付け、父を殺した仇を倒そうとしているだけだ。そんな彼を見て、ルアンダは大仰に身震いして見せた。

 彼女は溢れくる笑いを押し殺すのに必死だった。祭壇の中に偽の祭礼官を潜ませ、エルドレンの剣の真珠を目印にイスフェルの短剣に毒を塗りつけ、ウォーレイの生命を奪った真犯人は彼女だった。その後は色々と理由を付けて青年に父殺しの罪を着せるつもりでいたのだが、まさか自分から大罪人に成り下がるとは! 夫との意外な接点に一瞬、肝を冷やしたが、今となっては些細なことである。

「なんと恐ろしい……。実の父親にしてサイファエール稀代の宰相を手に掛けておきながら、何の証拠もなく我が夫を――サイファエールの王弟たるトランスを疑い、さらに剣まで向けるとは!! これが反逆でなくて何だというのだ!」

 そして、再び近衛兵たちにイスフェルの身柄拘束を命令する。

 喚く王弟妃を忌々しく思いながらも、近衛兵団長トルーゼは、副長ハイネルドにイスフェル確保を指示せずにはいられなかった。嫌な役回りだったが、衆人の前で王族に剣を向けた人間を野放しにしておくことはできない。それに、このままでは、逆上したイスフェルが何をしでかすかわからなかった。人を斬りつけてからでは、それこそ取り返しがつかなくなる。

「……イスフェル殿、失礼する」

 演舞台に上がってきたハイネルドたちに腕を取られ肩を押さえられ、イスフェルは激しく抵抗した。

「なっ、何をする――」

「イスフェル殿、今は大人しくなさい」

 ハイネルドに突き刺すように言われ、イスフェルは顔を歪めた。

「な、に……」

 父の敵が目の前にいるというのに、どうして何もせずにいられるというのか。

「理由はどうあれ、貴方は王弟殿下に対し、剣を向けた。反逆者と断罪されても仕方のないことをしたのです」

「ハンギャクシャ……」

「早まった真似をなさいましたね……」

 ……わけがわからなかった。いったい自分が何をしたというのだ。

 ――いったい、自分は何をしたのだろう?

 父ノ死ニ我ヲ失イ、王族ニ対シテ剣ヲ向ケタ。父ノ死ニ我ヲ失イ――。

(……そう、父上の死に――)

 イスフェルはぎこちなく後方に首を巡らせた。

 悪い夢だと思いたかった。しかし、それはあまりにも苦しい現実だった。父ウォーレイは先ほどと何ら変わることなく武舞台に横たわり、沈黙とともに夜空を仰いでいた。必死で兄に何かを訴えているシェラードの姿は、もはや彼には見えなかった。

(――オレが、反逆者……)

 ハイネルドの言ったとおりだった。王族に剣を向けるなど、なんと愚かなことをしたのだ。早まった真似――その通りだった。後日、証拠をそろえ、正式な場で不当にかけられた嫌疑を晴らすこともできたのに。血気にはやり、力に溺れた。

「オレは、なんということを……」

 近衛兵に促され、イスフェルはゆっくりと歩き始めた。しかし、地面とはかくも頼りないものだっただろうか。一歩進むごとに、その足が地の底へ沈んでいくような感触を覚える。演舞台の周囲に立ちはだかっていた炎は、青年の気炎同様、すっかり鎮火していた。

(――オレは、どうなるのだろう……?)

 しかし、考えるだけ愚かというものだ。王家にあだ成した者は死刑――それがサイファエールの法である。絶対に自分は犯さないだろうと思っていた法でもあった。彼はこれから、先だってカイザール城塞でリグストンに立ち向かった戦士と同じ道を辿るのだ。

 ふいに、彼を呼ぶ声が聞こえたような気がした。観客――今や犯罪の目撃者となってしまった彼らの前を通りながら、イスフェルが首だけを巡らせると、時間を止めてしまったような観客席の中を、小さな人影が駆けてくるのが見えた。

「イスフェル、どこに行くんだよ……!」

 コートミールだった。その後ろから、転びそうになりながらファンマリオも付いてきている。

「待って、イスフェル、どこ行くの! 行っちゃヤだ!」

 二人はイスフェルのすぐ後ろまでやって来ると、近衛兵たちに縋り付いた。

「おい、イスフェルを離せ! イスフェルが父さんを殺すわけないだろ! 離せ! 離せよ!!」

 イスフェルが本当の意味で自分の愚かさを思い知ったのは、この時だったかもしれない。

「王子殿下、どうぞお下がりを」

「下がらない! イスフェルを離せよ!」

 青年のために、小さな身体で必死に屈強な近衛兵らに立ち向かっている王子たち。イスフェルは、彼らを全身全霊で守り抜くと誓ったのではなかったか?

(オレは、なんという大馬鹿者だ……!)

 その時、近衛兵に逆に掴まれた腕を振りほどいたファンマリオが、勢い余って地面にひっくり返った。

「いたっ……!」

「ファンマリオ様!」

 慌てて近衛兵が駆け寄るが、少年はその手を払いのけた。彼に背を向けて立ち上がった時、天色の瞳に貴賓席の叔父の姿が映った。

「――お、叔父上!」

 ファンマリオは全身で叫んだ。

「叔父上、助けて! イスフェルは悪くないって、皆に言ってよ!」

 テフラ村で最初に会った時から、イスフェルは自分たちによくしてくれた。黒豹に襲われた時、助けてくれたのも彼だ。色々なことを教えてくれたのも彼だった。淋しい時に話し相手になってくれたのも彼だった。

(イスフェルにあの本、まだ読んであげてないんだ。イスフェルがいなくなったら、約束果たせないじゃないか!)

 しかし、少年の必死な訴えに、叔父は答えようとはしなかった。

「叔父上……!!」

 埒があかないと思ったのか、コートミールが今度は父に訴える。

「父上なら王様なんだから、イスフェルを助けられるよね!?」

 しかし、国王たる父も表情を強張らせたまま口を開こうとはしなかった。

「なんで……なんで黙ってるの、父上!!」

 ファンマリオが両の拳を握りしめた時、静かに歩み寄ってきたゼオラが二人を見下ろして言った。

「……二人とも、席へ戻れ」

 二人は目を見開くと、信じられないとばかりに首を振った。

「な、なんで……」

 ゼオラはイスフェルと仲が良かったではないか。なぜイスフェルがひどい目に遭っているのに助けようとしないのだ。

「ミール様、マリオ様。さ、どうか……どうか、お戻りを……」

 剣の師範として傍に控えていたクレスティナが二人の前に進み出ると、ファンマリオが彼女の肩を激しく掴んできた。

「イヤだ! なんで、クレスティナ、イスフェルは!? イスフェル、どうなっちゃうの!?」

 その声は、半ば恐怖で震えている。はっきりとしたことはわからなくても、イスフェルの身に何か重大なことが起きるということを漠然と理解しているのだ。

 クレスティナは、鳴りそうになる歯をぐっと噛みしめた。カイザール城塞での一件は、彼女の記憶にも新しいことだった。

 その時、

「ミール様、失礼します……!」

 背後で声がしたかと思うと、コートミールの身体が宙に持ち上げられた。

「誰だ、この――シダ!?」

 両手両足でもがいていたコートミールは、不自然な体勢から愛すべき近衛兵の姿を見て、天色の瞳を大きく見開いた。

「何するんだ、離せ! 離せよ、シダ!!」

 しかし、反対にきつく怒鳴られてしまった。

「いい加減になさいませ!」

 その頬には、銀の波が光っていた。

「――っ……フ……うー……」

 嗚咽を上げて泣き始めた兄を、しばらく見ていたファンマリオだが、ふいにイスフェルの消えた方向に向かって走り始めた。

「マリオ様……!」

 クレスティナが慌てて追いかけようとしたが、少年はすぐに立ち止まった。大きく息を吸い込み、幕の向こうに向かって叫ぶ。

「――イスフェル! 戻ってきて……絶対に、絶対に絶対に戻ってきてよ!! 約束だからね……!!」

 しかし、その声がイスフェルに届くことはなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る