第九章 血塗られた途へ --- 3

 王宮で、久しぶりに兄たちの訪問を受けたシューリアだったが、その表情はあまり明るいものではなかった。下の兄トールイドが、姪に当たる娘のシリアに人形などの玩具を渡すのを見ながら、横に立つ長兄のエルドレンに向かって不安げな声を発する。

「……お兄様、お父様の具合はいかがなのです?」

 落胤の発覚以来、床に伏せってしまったという父ラルスワードは、未だに王宮や夫の館に姿を見せていなかった。――以前は姑のルアンダに疎まれるほど訪ねてきていたというのに。

「大事ない。少し痩せられたがな」

 ほとんど感情を表にしない兄の短い返事に、シューリアは小さく溜息を付いた。彼にとっては、父の容態よりカリシュ家の浮沈の問題の方が遙かに重要なのだ。幼い時分のシューリアから見ても、兄は野心家だった。過去の栄光のみに縋る父をどこか蔑み、自分が継ぐ家を立て直そうとしていた。彼女がリグストンに嫁ぐことになったのも、兄が色々と画策したためであった。

「お父様、途方もない夢を追っていらっしゃったから……」

 それは、半ば兄に対する当て付けの言葉だった。

「お兄様、実は私、ミール様とマリオ様がいらっしゃってくださったことに、ほっとしているのです。輿入れの前から、お父様は私に早く殿下の御子を生むように、と。私がなぜと問うと、その子は鷹となるかもしれぬからだ、とおっしゃって――」

 シューリアはくすりと笑うと、ゆっくりと首を振った。

「私が鷹を? そのような畏れ多いこと……」

「何を言っているのだ。そなたは最早、サイファエール王家の人間なのだぞ」

 正面を向いたまま眉根を寄せるエルドレンに、やはり正面を向いたままシューリアは言った。

「……お兄様にはわかりません。王の子でなければ、所詮、王族になどなれぬのです」

 貴族の階級で言うならば、カリシュ家は確かに名門だった。しかし、現在のサイファエール王家の女性たちは皆、王族の出身であり、シューリアはどうしても疎外感を覚えずにはいられない。そこへルアンダの言動がさらに追い打ちをかけ、彼女の心はいつしか闇を抱え込むようになっていた。

「私は今のままで幸せです。殿下と、シリルと……」

 言葉の後に、もうひとつ、顔が浮かぶ。彼女の疲れた心を唯一、癒してくれる存在。夫の筆頭侍従にしてルアンダの腹心であり、決して好きになってはいけない男――カリシュ。しかし、二人は恋に落ち、そして愛と罪の証たるシリルが生まれた。もしこのことが世間に知れたら、王家に対する反逆罪で死刑を宣告されるだろう。そうならないために、愛する男の傍に居続けるために、彼女は傍若無人な夫の従順な妻を演じ続けなければならなかった。

「ここはカウリス家の居間だったか?」

 ふいに部屋に響いた声が、シューリアの心臓を鷲掴みにした。

「リグストン殿下」

 シリルの相手をしていたトールイドが跳ねるように立ち上がり、エルドレンとともに一礼する。入口に姿を現したリグストンは、未だ足の骨折が完治しておらず、侍従たちに持たせた輿に乗っていた。

「おみ足の具合はいかがですか?」

 歩み寄ってきたエルドレンに対し、リグストンは不機嫌そうな顔を向けた。

「エルドレン、どうせ口を開くのなら、もっとマシなことを言え。私は日に何度同じ質問に答えねばならぬのだ」

「これは失礼を致しました」

 横のトールイドが面持ちを硬くしたのがわかったが、エルドレンは涼しげな表情のまま、再び頭を下げた。彼は眼前の王族よりも一回りも年上であり、その傲慢な態度も長年の宮廷生活で慣れたものであった。

 部屋の中央の寝椅子に座り直したリグストンは、もらったばかりの人形を持って立ち尽くしている娘を鋭い視線で母親のもとへ追いやると、再びエルドレンを見遣った。

「おぬし、ゼオラの剣舞祭でひと舞いするそうだな」

「は。拙き舞ではございますが」

 すると、リグストンはトールイドをちらりと見た後、つまらなそうに窓の外に視線を移した。

「どうせなら兄弟舞でもすればよいものを。独り舞など、親子舞の前にいっそう霞むだけではないか」

 我が夫ながら、他人に対して蔑みの言葉しか与えたことがないのだろうか。シューリアが息を呑んで長兄の様子を後方から窺うと、彼はいつものごとく石膏のような無表情さで淡々と返した。

「それで宜しいのです。殿下がお出になられぬ祭で注目されても仕方がありませぬ」

 双子王子が剣舞を披露することがわかっているのに、それに対抗するようにわざわざ兄弟舞をする愚かな宮廷人はいない。それがわかっていないのは、おそらくリグストンだけであろう。

「お怪我が完治し、剣舞をされる際は是非、我らに両翼をお任せ下さい」

「フン……いいだろう」

「有り難き幸せ」

 ようやく義兄弟たちに椅子を勧め、しばらく宮廷内の話をしていたリグストンだったが、来るのも突然なら帰るのも突然だった。トールイドが新しい話題を持ち出そうとした瞬間、

「疲れた。館へ帰る」

 これにはシューリアも驚いた。火宵祭を明日に控え、この夜は王宮に泊まる予定だったからだ。その問いに対して、リグストンは「気が変わった」の一言だった。侍従たちが輿持ちに慌てて部屋の隅から主人のもとへ歩み寄る。

 彼らの姿が入り口の向こうに消えると、シューリアは大きく息を吐き出してエルドレンを見上げた。

「お兄様、お父様に宜しくお伝え下さい。シューリアが心配していた、と。とても……」

 兄の頷きに頷きを返し、娘を抱き上げた時、今度はエルドレンが彼女の名前を呼んだ。振り返ったシューリアに兄が問うたのは、夫の筆頭侍従の所在だった。

「カリシュでしたら、ルアンダ様のところへ行っていますけれど……」

「……そうか」

 兄の瞳が一瞬、険しくなったのを、シューリアは見逃さなかった。

「カリシュが、どうかなさったのですか……?」

「いや、何でもない」

 相手の眼前に壁をそびえ立たせるような口調に、シューリアはそれ以上、重ねて尋ねることができなかった。彼女は小さな不安を抱きながら、兄たちに背を向けた。

 一方のエルドレンは、壁のこちら側で、ある疑問について考えていた。カリシュはリグストンの筆頭侍従でありながら、その傍に居ないことが多い。そして、そんな時は必ずルアンダのもとを訪れているのだった。彼がルアンダを訪ねた時、カリシュがいなかったことは、まずないのだ。

(殿下の筆頭侍従というのは仮の姿で、奴は実はルアンダ様の腹心なのだろう。それにしても、あの目……)

 先日赴いたルアンダの館で、給仕をしながら主人たちの会話に割って入ったカリシュが、エルドレンはなぜか気になっていた。彼の自分たちを見る目に、どこか蔑んでいるような感が窺えたのだ。そもそもエルドレンは、カリシュの経歴を簡単にしか聞いていない。すなわち、神官学校で優秀な生徒であり、その才覚を見込んだ人間によってルアンダのもとへ連れてこられた、と。

「まったく! 巧く事が成ったとしても、上に頂く御方があれでは!」

 部屋に自分たち以外いなくなり、ふいに憤懣を爆発させた弟を、エルドレンは冷ややかに見遣った。

「何を言う。ああでなければ、巧く事を成す意味がない。人形には人形であってもらわねば」

「しかし――」

 まだしつこく不満をぶちまけようとするトールイドを残して、エルドレンは入口に向かった。

「そんなことより、剣舞祭の件、ぬかりはないであろうな」

 兄の言葉に、弟が色めき立つ。彼らには、剣舞祭で重大な使命が与えられていた。

「それは無論です。徳高き人物には、華々しき最期を」

 トールイドは入口に飾られていた深紅の薔薇を鷲掴みにすると、その花弁を廊下に潰し撒いた。



 仲間内でシダにのみ「爺くさい」と評判が良くないイスフェルの薬草園は、宰相家の敷地の北側にあった。一ピクトほどの高さの生け垣が取り囲んだ中に、横に二列、縦に四列の花壇が並び、そこに約五十種類の薬草が植えられている。

 今宵、王宮では火宵祭の前夜祭が開かれる。晩餐会の支度に一度屋敷に戻ったイスフェルは、時間に余裕があるのを見て、久しぶりに自分の薬草園を訪れた。ここのところ、ろくに世話をしてやれなかったのだが、それでも荒れていないのは、気を利かせた庭師が手入れをしてくれたおかげに他ならない。

「もう少しで実が成るな……」

 イスフェルは花壇をひとつひとつ、薬草たちの生長を愛でて回った。

 彼が薬草に興味を持ったのは、九歳の時のある事件がきっかけだった。その頃、イスフェルは母の故郷テイランで楽しい時を過ごしていた。従兄や町の子どもたちと毎日、朝から晩まで海や山で遊んでいた。

 ある日、いつも一緒に行動していた少年のひとりが、崖から落ちて怪我をした。怪我自体は大したことがなかったのだが、その応急手当が事を重大にした。薬草と思って煎じた葉が、実は姿形が酷似した毒草だったのだ。その少年は家に辿り着く前に、友人たちの腕の中で息を引き取った。思えば、人が死ぬ様を間近で見たのは、あれが初めてだった。以来、イスフェルは薬草について学ぶことをやめず、王都で学院に入ってからは特に力を入れて勉強した。知識がなかったばかりに、目の前で大切な人間が苦しんでいたのに、何もすることができなかった――その悔恨が、彼を駆り立てていたのだ。

(シダめ、爺くさくて結構だ。もう、誰も失いたくないから……)

 先日、王弟からもらったシオクラスの葉を指で弾いた時、背後で青年を呼ぶ父の声がした。振り返った青年に向かって、木製の短剣が放られる。

「ぶっつけ本番では、さすがの我々もボロが出よう」

 父の言葉に、イスフェルは吹き出した。王都中の話題となっている剣舞祭は、火宵祭の初日――つまり明日の夜に行われる。ゼオラは二人を競わせると言ったが、オレンズに言わせれば、親子舞にも一応の型がある。しかし、宰相家の父子は、今の今まで揃って稽古をしていなかった。

 広い芝生のところまでやって来ると、二人は向き合い、とりあえずゆっくりと流してみることにした。

「――そう言えば、父上は剣舞をなさったことが?」

 以前から訊きたかったことをイスフェルが動きながら尋ねると、ウォーレイは少し首をひねった。

「剣舞と呼べるほどのものではないがな。聞いたことがないか? ズシュールで行われている剣の祭を。おまえの成人の儀の時に――腕の角度をもっと上げた方が良い――あの時、おまえに短剣を贈ったあの風習は、その流れから来ているのだ」

「ああ」と納得して、イスフェルが身を翻した時、ウォーレイがおかしそうに言った。

「それに、おまえの友人の……オレンズだったか。彼に王宮の廊下で、待ち伏せされてな」

「待ち伏せ!?」

 思わず、動作が止まる。

「御子息と親しくさせて頂いております、から始まって、宰相閣下が剣舞をして下さったら、皆が親しんでくれるとかナントカ……」

「な……オレンズ、そんなこと一言も!」

 再び短剣を繰り出しながら、イスフェルは自分がダシにされたことに憤慨した。そんな息子を父親が宥める。

「そう怒るな。なかなか良い考えではないか。――それで、昔取った何とやらを元手に、彼にひと舞い習ったというわけだ。おまえがまだレイスターリアで遊んでいる頃の話だ」

「………」

 確かに昨年の秋、青年が隣国レイスターリアへ赴いたのは遊学のためであったが、はっきり「遊んでいた」と言われると、少し癪だった。

「――さて、あまり無駄口を叩いていては、稽古にならぬ。通しでもっと速くやるぞ」

 瞬間、耳元を風が切り裂く。その速さにイスフェルは一瞬、目を見開き、口元に笑みを閃かせた。なかなか楽しい演舞になりそうだった。

「父上は、大技を、なさいます、か!?」

 短剣での舞は長剣のそれと違い、常に接近して刃を繰り出すため、一瞬の遅れが大怪我を招く。今は木製だが、明日の本番で使用するのは本物の短剣である。この僅かな時間でお互いの呼吸を掴み取らなければならなかった。

「母上には、止められたが、ゼオラ殿下の手前、やらぬわけには、いく――まいっ!」

 言って、ウォーレイは、予め地面に突き刺してあった遊剣――どちらが使ってもよい――を突き出した息子から逃れるため、後転した。齢四十八にしていきなりそれをやってのけた父を、イスフェルは半ば呆気に取られて見遣った。自分が今の父と同じ年齢になった時、果たして子どもの前でそれができるかどうか――。

「……まあ、こんなものだろう」

 そう言ってウォーレイが剣を下ろしたのは、それから半ディルク後のことだった。二人とも、華やかな晩餐会の前に全身汗だくになっていた。家宰のセルチーオが冷たい林檎水を用意してくれ、二人は露台の下で喉を潤した。

「――双子殿下の舞に負けぬと良いのですが」

「それは無理な話だ」

 笑いながら美味しそうに杯を傾ける父の横顔を、イスフェルはふと笑みを消して見遣った。彼には数日前から考えていたことがある。それを告げる時だと思った。

「ちちう……いえ、宰相閣下」

 急に改まった息子に、ウォーレイは濃い浅葱色の瞳を瞬かせた。

「どうした?」

「ひとつ……御提案があるのですが」

 もう晩餐会まで時間がなかった。しかし、ウォーレイの顎は、頭上の露台の円卓を指した。



 太陽が西の野を紅く染めていた。影という影が、まるでいつまでも神を見送りたいというように長く伸びている。丘を上ってきた涼やかな風が、イスフェルの火照った身体を冷やし、そして逸る心を落ち着かせた。もしかしたら、彼がこれから口にしようとしていることは、宰相の失望を買うかもしれない。それでも言わずにいられないのは、それが成功した時、得られるものがあまりにも大きいからだ。

 杯の外側に付いた水滴が、集まりながら下端に達した時、イスフェルは意を決して口を開いた。

「王弟殿下に、上将軍の座に就いて頂けないでしょうか」

 世間で優秀とされる補佐官の口から、まさかそのような問いかけが出るとは思ってなかったのだろう。宰相ウォーレイは一瞬、目を丸めた後、おかしそうに笑った。

「……さて、おまえが懇意にして頂いている今の上将軍閣下は、着任以来、連戦無敗を誇られる。そのような御方に、いかなる理由をもって退いて頂くというのだ?」

「いえ、ゼオラ殿下は今のままに」

 補佐官の簡潔な答えに、宰相は思案の表情を浮かべた。

「……上将軍を二人置くということか? 前例がないのはともかく、利点もないように思えるが」

 利点どころか、最悪の場合、軍が崩壊しかねない。ゼオラは将兵たちに絶大な人気を誇り、誰もが彼とともに勝利することを願っている。そこへ、近年ほとんど実績のないトランスが赴いて号令を発しても、誰ひとり従おうとはしないだろう。だが、数少ない王弟の戦功からは、そのまま埋もれさせるには惜しい才能が窺えた。

「――ええ、お二人が同じ軍を指揮なさったのでは、戦どころではないでしょう。そうではなく、私は、王弟殿下に、海の上将軍となって頂きたいのです」

「海の、上将軍……?」

 太陽を背にしているせいで、宰相の表情はあまりわからなかったが、その声は少し掠れていた。

「はい。先だってより、軍部で海軍を新設するという話がありますが、いっこうに新しい動きがありません。ジージェイルを始めとする列強が海軍を強化しているというのに、我がサイファエールは、ほとんど手つかずの状態です」

「……将軍たちは、まだ海にそれほどの脅威を覚えておらぬからな」

「けれど、拠点となる港の建設も、海兵たちの訓練も、一朝一夕で成るものではありません。パーツオットでの覇権を維持するためには、一刻も早く計画案を作成し、実行しなければなりません」

 そのためには、中心となって動く人物が必要不可欠である。既存の軍隊が駄目でも、何も土台のない海軍なら、王弟が埋もれた才能を発揮させることができるかもしれない。素行の良くない王弟に軍団を任せることに対して懸念の声が上がるかもしれないが、海軍が実際に機能するようになるのは当分先のことである。信頼のおける将軍を付けられれば、万全であろう。

 イスフェルは椅子から降りて片膝を着くと、宰相に向かって頭を垂れた。

「閣下、王弟殿下を、初代の海軍総大将に」

 青年の考えは甘いのかもしれない。しかし、新人たる彼だからこそ、恐れなくできることもあるというものだ。いや、それこそが新人の務めなのだ。

 敬愛する父と、親友であった王弟の心が再び通い合うようになれば、イージェント王のもと、サイファエールはいっそう豊かな国になる。彼も、仲間たちとの絆をこの上なく信じ、夢を追い続けることができる。

「イスフェル……」

 ふいに宰相の口から溜息が漏れ出た。やはり、失望させてしまったか――青年がそう思って俯いたまま唇を噛みしめた時、大きな父の手が、彼の麦藁色の髪をかきまぜた。

「おまえは何度、私に光を与えてくれるのだろう?」

 意外な言葉にイスフェルが顔を上げると、父は彼に向かってひとつ頷き、沈みゆく太陽に向かって身を翻した。

「……明日の晴れ舞台で、改めて親子の契りを交わそう」

 親子舞の最後には、血の繋がりを現すため、互いの手首を軽く切る。父がそれを待ち望んでいることを知り、イスフェルは思いが届いたことを知った。

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