第八章 陰謀の王都 --- 3

 王弟トランスの子息リグストンの館は、王都の北東、トレスの丘の中腹にある。いにしえの神殿を改築した建物は、この数年で、その面影を残さないほど豪奢なものに変貌していた。門の彫刻ひとつにしても贅の限りを尽くし、光の具合によって淡い紫色に染まるという高価なグリオン石がふんだんに使用されている。邸内は玄関口の天井画に始まり、廊下に所狭しと置かれた美術品、扉のひとつひとつに嵌められた象牙の意匠、世界の名品を集めた調度品と、訪れる人々を圧倒した。立地がよく、色硝子の嵌められた窓の向こうには、その美しさを称えられているオデッサの砂浜を垣間見ることができる。

 今、その中庭にある蓮の池のほとりに、男がひとり、佇んでいる。リグストンの筆頭侍従カリシュであった。緩やかに弧を描く淡い栗色の髪をひとつに束ね、二十代半ばの、均整のとれた肢体を深い臙脂色の衣服で包んでいる。彼の視線は水面に向かっていたが、しかし、その灰褐色の瞳には何も映っていなかった。

「カリシュ」

 ふいに衣擦れの音がし、振り返ると同時に名を呼ばれた。リグストンの母ルアンダだった。カリシュは胸の前で組んでいた腕を解くと、彼女に向かって一礼した。

「このような場所で何をしているのだ」

 ルアンダは切れ長の黒い瞳を細くして首を傾げた。彼女は南東の同教信仰国カルマイヤ王室の出身であり、その動作は洗練された優美なものであったが、それがかえって傲慢な印象を与えることもしばしばだった。

「少し、考え事を」

 普段は無表情のカリシュだが、今はまっすぐと王弟妃を見返し、その口元には笑みさえ滲んでいた。そんな彼に、ルアンダも笑顔を返す。

「何か憂うことでも? 外の騒ぎで、この私でさえ館へ入るのが容易ではなかったというのに」

「例の件、うまくいったようですね」

「うまくいくもなにも、息子の命の恩人に礼を言うだけではないか」

 カイザール城塞でリグストンが《太陽神の巫女》にした行いについて、カリシュから報告を受けたルアンダは、人目のある宮廷の宴で、招待されていた巫女のもとへ自ら赴き、大仰に礼を述べた。即位記念式典の中止で、王都に流布していた噂――王位継承者の発表があるという――は、一度は煙と消えかけたが、宰相の中止撤回の言と同時にまた再燃し始めた。そこへ「息子は《太陽神の巫女》に守られた者である」とルアンダがまくし立てたものだから、結果、リグストンはマラホーマ戦役で何の手柄も立てていないにもかかわらず、人々の注目を集め、そればかりか次代を窺う者たちから連日のごとく謁見を請われていた。無論、彼らが手ぶらで訪れるはずもなく、かの館はいっそう華美なものへと変わっていくのだった。

「貴女のことですから、サイファエールの田舎娘はお嫌いかと」

 カリシュの意味深げな物言いに、ルアンダは口元を歪めて笑った。

「口を慎め、カリシュ。《太陽神の巫女》だ。全統神テイルハーサにお仕えする、誉れ高き娘――特に、今年のはな」

 無論、ただの小娘に頭を下げるのは御免被る。しかし、相手は永久に語り継がれるであろう美声の巫女であり、礼のひとつで醜聞が隠れ、そのうえこちらに名誉がやってくるとなれば、話は別だった。

「――それで、いったい何を考えていたのだ」

 蓮の花を指で弾いた後、再び回廊を歩き出したルアンダは、正面を向いたまま問いを発した。カリシュが付いてきているのを、彼女は振り向かずとも知っていた。

「……なぜ、改めて即位記念式典を行うのか、と」

 意外と単純な答えに、ルアンダは面白くなさそうに首を竦めた。

「おおかた、あのお祭り男の言ではないのか。戦が早く終わり、地方の貴族たちも多くが都に残っている」

「ですが、一度は中止としたことです。凱旋式とそれに続く宴が三日とあったのですし、その中で済ませてもよかったはずです」

「ラルスワード=カウリスなどは、あの噂をもはや真実と疑っておらぬぞ」

 ラルスワードとは、リグストン妃シューリアの実父である。古くからサイファエール王家に仕えていた名門カウリス家の当主で、目下、王弟派の古参として知られている。

「長年不在の王位継承者が、あのような噂で簡単に決するはずもないものを」

 カリシュの声には侮蔑の響きが滲んでいた。ルアンダが喉の奥で笑う。

「だが、それを吹き込んだのはそなたではないか」

「あくまで布石です。今年流せば、来年再来年、噂はさらに力を得ることでしょう。いずれは、あちらの方々が抗えぬほどの」

「だと良いが」

「――そういえば、今、そのカウリス殿が来ておられます」

 辿り着いたのは、陽の光が降り注ぐ庭に面した部屋であった。庭側に置いた長椅子に、リグストンの妻シューリアが一歳になる娘シリルを抱いて座っていた。その傍らに、ラルスワードの姿がある。肩までの硬い白髪の間から垣間見える表情は、孫娘を前に、宮廷で見せるものと比べると、いっそう締まりのないものであった。

 優雅に現れた王弟妃を見て、ラルスワードはいっそう表情を明るくした。

「――これは、ルアンダ様!」

「ラルスワード殿、私がこちらへ参ったおり、貴方はいつもいらっしゃる。そのようにシリルが可愛いか」

「それは、もう! この方は必ずや美しき姫におなりですよ。なにせ貴女様の孫ですから」

「姫もよいが――」

 初孫の愛らしさに有頂天になっている男を冷めた目で見遣ると、ルアンダは視線をそのままシューリアに向けた。

「早くを産んでもらいたいものだな」

 途端、シューリアの頬が強張る。サイファエール王国において、王家の女子に王位継承権は認められていない。王位を渇望する姑にとって、孫娘シリルは必要なかったのだ。

 そんな娘の硬い表情には気付かず、ラルスワードは「王子」という言葉に色めき立った。

「式典が待ち遠しくてなりません。本当に、例のようなことになりましたら、いかが致しましょう」

「いかが? いかがなど、考える必要もない」

 ルアンダは鼻で笑うと、ゆっくりと庭に向かった。春と夏の狭間で、庭の木々や草花は色鮮やかに輝いている。

(すべてが、思うままの世だ――)

 だが、その前に乗り越えなければならない難題が山積みであることも、無論、彼女は承知していた。

「ルアンダ様、今日はトランス殿下は……」

 ふいに発されたラルスワードの言は、ルアンダの気分を害した。それがその難題のひとつであったからだ。

「来ておらぬ。夫に何か用か」

「いえ、最近、宮廷でお見かけしないので……」

 わざと含めた言の端の棘に、ラルスワードは容易に口ごもった。大貴族というだけで何の取り柄もないこの男は、政府の要職には就いていない。一方、立場的にも精神的にも国王派を貫き、そのうえカウリス家の財を凌いでいるサリード家が宰相という要職中の要職を握っていることは、彼女にとって非常に忌々しいことであった。

「北の館へ行っている。何を考えているのか……」

 眼前の男にも腹が立ったが、王宮から遠ざかっている夫トランスにも腹が立った。即位記念式典の開催が再び叫ばれ、宮廷は連日お祭り騒ぎとなっている。次代を狙う夫にとって、遠方の大貴族たちが集う場は、支持者獲得にこの上ない場なのだが、妻にさえ立ち入りを禁じた北の館に籠もり、本邸へも帰ってこない有様だった。

(これ以上、私の邪魔をしたら、決して許さぬ――)

 サイファエールが国内に聖地を抱き続けるために、カルマイヤの姫をサイファエール王家に迎えて機嫌を取っておこうという先王フォトレルの政略の下、ルアンダはサイファエールへやって来た。当時、まだイージェントが独身だったため、ルアンダはてっきり王太子妃――いずれは王妃となるのだと思っていたのだが、相手はなぜか弟王子の方であった。その頃から権力に執着のあった彼女は大いに失望したが、イージェントは即位後も廃位騒動に見舞われるような状態であり、一方のトランスが文武両道の偉丈夫であったことから、或いは、という期待を抱くようになった。しかし。連戦無敗の名将ドリザールが病死し、ようやく表舞台に夫の姿を見られると思ったのも束の間、その座を一回りも年下の義従弟ゼオラにあっけなく持っていかれた。あまりの怒りに、ルアンダは部屋中の壺を叩き割るしかなかったが、太陽神はまだ彼女を見捨てたわけではなかった。第三王女を出産して以来、王妃に懐妊の兆しはなく、王位継承者の不在が十年を超えたのだ。王妃は子を産むには既に年を取りすぎており、側室もいないことから、イージェント王が王子を抱くことは、もはやないであろう。都合のいいことに、かの王は混乱を忌み嫌う性質である。今さら側室を迎えるというのも、おそらくない。

(玉座は私の前に置かれる運命なのだ。その後、あの忌々しい親子を宮廷から追い出し、そして――)

 その先にあるものを想像して、ルアンダは冷え冷えとした笑みを口元に浮かべた。

「――ところで、私のリグストンはどこだ。足の具合を見なければ……」

「殿下でしたら、侍従たちとあちらに――」

 つい先刻、御機嫌伺いをすませてきたラルスワードが案内に立つ。ルアンダがそれに続き、リグストンの傍を離れて時間が経過していたカリシュも足を向けた。と、思いつめた声がカリシュを呼び止める。振り返ると、シリルと手をつないだシューリアが、眉根を寄せて立っていた。

「カリシュ、私、どうしたらいいのか……」

 カリシュは小首を傾げると、シューリアに歩み寄った。彼女は飛び抜けた美人ではないが、柔らかな印象を与える気立ての良い女性であった。

「シューリア様?」

「ルアンダ様は、来られる度に先程みたいなことばかりおっしゃって……」

「仕方ありません。それが貴女の……義務なのですから」

 シューリアは目を見開くと、信じられないといったふうに小さく首を振った。

「貴方がそれを言うの? この娘は……シリルは貴方の――」

「シューリア様」

 男の灰褐色の瞳が光る。その刃のような鋭さに、シューリアは言葉を失った。

「このような場所で、軽き口は災いの元と申します。お気を付け下さい」

「……はい」

 去っていく男の背を呆然と見送る母を、小さなシリルは無邪気な笑顔で見上げるのだった。



 レイミアたちの隠れ住まいとなった白薔薇宮は、王都の西方、クレイオス凱旋門と南側の双子門レタのちょうど中間にある。鬱蒼とした森の奥、エルーリと名付けられた小さな湖の中に建ち、王家の持つ離宮の中で、最も美しい宮として知られている。建設当時は『西の離宮』と呼ばれていたが、庭園という庭園に溢れる白薔薇から、いつのまにか白薔薇宮と称されるようになっていた。

 湖の只中に建っているため、白薔薇宮へは小舟を使ってでしか入ることができない。それが三人の仮の宮に選ばれた理由だった。もともと王家のために建てられた宮であるから、船着き場の改装を理由に人の出入りを制限するのは簡単なことである。そうやって十日という短くも長い時間、三人を外界から隔離する。悪意を持った訪問者には、湖の水が力を貸してくれることだろう。

「いったいどうなっているんだ……」

 白薔薇宮に入って四日目、水辺に張り出した露台で、イスフェルは小さく吐息した。その視線が自然と王宮の方角に向く。レイミア母子が世間から隠れ仰せているのは願ってもないことだが、彼らの安全を任されたイスフェルが外の情報をまるで得られないでいるのは、非常に危険なことでもあった。

 ふいにパタパタと足音がして振り返ると、露台の入り口の白い扉からファンマリオが顔を覗かせたところだった。

「イスフェル、母さんがお茶を飲みませんかって」

「あ、はい。いただきます」

 不安を心の中に閉じこめると、イスフェルは椅子から立ち上がった。少年のもとへ行くと、彼の方から手をつないでくる。反対側の小さな手に、数枚の紙片が見えた。

「また絵を描かれていたのですか?」

 尋ねると、天色の瞳がにっこりと微笑んだ。

「だって、ここには見たことのないものばかりあるんだもん」

 見たことのないものの中で、今のところ少年の一番のお気に入りは、彼ら兄弟の部屋にある天蓋付きの寝台であった。それは大人が悠に七人は寝られるというもので、それまで三人で一人用の寝台に寝ていた彼には信じられない広さだった。初め、家族四人でそこに寝るのだと思っていたのだが、イスフェルからしばらくは父親に会えないことを告げられて、広い寝台で寝る初めての夜は、少し淋しいものとなった。

「あ、そうだ。イスフェル、これ見て」

 差し出された紙片を見て、イスフェルは思わず吹き出した。

「ミール様、ですか?」

「うん。ミールってばひどいんだよ。自分ばっかり乗って、ぜんぜんボクに乗せてくれないんだ」

 一方のコートミールのお気に入りは、庭の樹にぶら下がった鞦韆ブランコであった。朝起きると同時に庭に飛び出し、一日中飽きもせずそこに座っている。食事さえそこで取ろうとし、何度もレイミアに叱られていた。ファンマリオの絵は、コートミールがその鞦韆から落ちたところが描かれていた。

 双子の部屋に入ると、そこには既に全員が集っていた。レイミアが杯に茶を注ぎ、ひとりの老婦人が焼き菓子を並べる。

「今日のお菓子はレイミア様のお手製でございますよ」

 彼女は名をノスターシャといい、白薔薇宮の管理を夫クリオとともに任されていた。レイミア母子のことはイスフェルから事情を聞いて知っており、レイミアに宮廷作法の指南もしてくれている。

「お口に合うかどうかわかりませんけど……」

 レイミアは遠慮がちに言ったが、イスフェルたちが食べてみると、それは王宮で出されるものと同じくらい美味しかった。

「いえ、とても美味しいですよ」

 甘いものが嫌いなユーセットも口に合ったのか、一枚食べた後、もう一枚に手を伸ばしている。セディスが紅茶を口に含みながら、ふうっと溜息を付いた。

「平和すぎる……」

 その呟きに、ユーセットが片眉を吊り上げる。

「馬鹿なことを言うな。そういう言葉が悪事を呼ぶんだ」

 果たして、それは現実のものとなった。その夜、イスフェルが双子の部屋で本を読んでやっていると、ふいにコートミールが立ち上がった。怪訝そうなイスフェルとファンマリオが見つめる中、少年は庭に続く硝子扉の前まで歩いていき、外を凝視した。

「……ミール様?」

 小さな背中に向かって声をかけると、コートミールは視線を闇の奥に放ったまま言った。

「……イスフェル、誰か来たみたいだよ」

 瞬間的に表情を引き締めると、コートミールの横から外の様子を窺う。すると、対岸に小さな灯りが揺らめくのが見えた。すぐ隣の部屋から不安そうな表情で出てきたレイミアに双子を託すと、イスフェルは別の部屋に居たユーセットとセディスとともに、船着き場の上の隠れ部屋に向かった。そこからは入ってくる舟を上方から見ることができ、万が一の時には弓矢で仕掛けることもできる。

 イスフェルの両側で、ユーセットとセディスが矢をつがえる。

「レイミア様は?」

「お子様方と御一緒だ。もしもの時のために、隠れ部屋に入るように言ってある」

「ならいいが……」

 その間にも、ゆっくりではあったが、一艘の小舟は確実に近付いてきていた。

「どうして舟を出しっぱなしにしておくんだ」

「いや、あの舟は白くない。この城の物じゃない」

「わざわざ持ってきたっていうのか?」

「そんなことより、本当に暗殺者なのか? わざわざ灯りを灯して……」

 陽動かもしれない。そう思ってイスフェルが立ち上がりかけた時、

「ああ……?」

 セディスが困惑気味な声を上げ、イスフェルがもう一度、舟を見遣ると、小さな灯りが何か合図を送るように小さな円を描いた。

「――あれは、まさか……」

 それは、彼ら学院時代の友人たちの間で使っていた暗号だった。しばらくそれを黙って見ていたイスフェルとセディスは、同じ合図が二度ほど繰り返された時、顔を見合わせて深く溜息を付いた。

「……何だ」

 眉根を寄せるユーセットに、セディスが馬鹿馬鹿しそうに構えていた弓を下ろした。

「『シダ様が来てやったぞ』だと」



「暗殺者があの暗号を知っていたとしても、シダを騙るのは無理だな。あんなバカな合図、とても考えつかん」

 船着き場への細い螺旋階段を下りながら、セディスがげんなりと言う。しかし、念のため、管理人のクリオに舟を出迎えさせると、三人は物陰からその様子を窺った。が、残念なことに、突然の訪問客は、紛れもなく彼らの友人であった。イスフェルは内心で安堵の吐息をつきながら、壁に掛けられた灯りの下にその姿をさらした。

「おお、イスフェル! 元気だったか?」

 時分に合わない明るい声に肩を竦めると、イスフェルはシダの背後の人物に向かって軽く礼をした。

「クレスティナ殿」

 すると、女騎士は申し訳なさそうな顔をして微笑んだ。

「御三方はお元気か? イスフェル」

「ええ、それは……」

 彼らの他にまだ二人、舟の上に姿がある。そのうちのひとりは、鷹巣下りを共にしたクレスティナの部下パウルスであった。もうひとりは女性のようだが、深く頭巾を被っていて顔が見えない。

「このような時分にいったい何事です? 王宮で何かあったのですか?」

 それに答えたのは、その頭巾の女性だった。

「そうではありませぬ」

 取り払われた頭巾の下から現れた顔を見て、イスフェルたちは息を呑んだ。王妃メルジアであった。

「夜分に騒がせて申し訳ありませんね、イスフェル」

「い、いえ……」

 半ば放心状態の青年に向かって、王妃は自嘲気味に微笑んだ。

「式典の前に、どうしてもこちらの方とお話がしたくて、クレスティナに無理を言ったのです」

 その思い詰めた様子に、イスフェルは少し硬い面持ちで頷いた。

「……わかりました。こちらへどうぞ」

 客間にメルジアたちを通すと、イスフェルはシダとともにレイミアたちのもとへ向かった。急に隠れるように言われ、さぞ不安な思いでいることだろう。

「……なあ、イスフェル」

「なんだ」

 おそらくメルジアはレイミアに九年前の愚行を詫びる気なのだろう。そのこと自体に問題はない。だが、わざわざ夜に忍んですることでもない。メルジアさえ望むなら、式典の直前にでもどうにかその場を設けた。もし、今夜の行動が王弟派に見咎められでもしたら本末転倒もいいところである。

 友人の言葉の端にわずかな苛立ちを感じ取って、シダはいっそう不安げに眉根を寄せた。

「メルジア様、まさか御乱心なさらないよな」

 物騒な言葉に、イスフェルは藍玉の瞳を細くした。

「この期に及んで、メルジア様がレイミア様を傷つけるというのか?」

「だが、王子を成さなかった正妃というのは微妙だぜ?」

「それはそうだが……」

 だが、イスフェルはその心配の必要はないと思った。クレスティナはメルジアの下で動くことも多く、その為人ひととなりを十分に知っている。その彼女が、王妃の我がままを敢えて通したのは、レイミアを傷つけるためでは決してないはずだ。

「一応注意はしておく。だからおまえは、お二人をちゃんと見ていてくれよ。ラディスの二の舞は御免だ」

 痛いところを突かれて、シダは顔を歪めた。港町ラディスで、彼はまんまと双子に宿屋から逃げられたのだった。

 レイミアの部屋の収納室の壁を押して隠れ部屋に入ると、母子は奥の長椅子で不安げに寄り添っていた。それを見て、青年たちの胸が痛んだ。なにひとつ悪いことをしていない彼らに、自分たちはどれほどの苦しみを負わせる気なのだろう。

「あっ、シダ……!」

 コートミールがほっとしたような声を上げて駆け寄って来た。

「なんだ、来たの、シダだったんだ!」

「お久しぶりです、ミール様」

 コートミールは、テフラ村で弓を作ってくれたシダのことが気に入っており、白薔薇宮に入ってからも時折、彼と遊びたいと漏らしていた。

 イスフェルはシダに子どもたちを預けると、レイミアを連れて客間に戻った。客が来たという以外は何も知らされず、硬い面持ちで部屋に足を踏み入れたレイミアだったが、一番手前の椅子に座っている顔を見て、思わず表情を和らげた。

「クレスティナ様……!」

 呼ばれたクレスティナは、立ち上がりながら困ったように首を傾げた。

「レイミア様、何度も申し上げておりますのに。どうぞ、クレスティナとお呼び下さい」

「あ……ごめんなさい」

 平民であるレイミアから見れば、クレスティナは尊敬すべき騎士である。しかし、クレスティナにすれば、レイミアは忠誠を誓う対象であり、その彼女から敬語で呼ばれるのは畏れ多いことであった。

 クレスティナに、レイミアはひとりの貴婦人の前に導かれた。年齢は自分より一回り上だろうか、彼女はまるで葬式の帰りかのような漆黒の衣服に身を包み、豊かな黒髪を無造作に垂らしている。少し疲れたように見える黒い瞳は、わずかな潤みを帯びて、レイミアを見つめ返していた。

「レイミア様、こちら……サイファエール王妃メルジア様でいらっしゃいます」

「え……」

 あまりにも突然のことに、レイミアの藤色の瞳が見開かれる。それはしばらくの間、呆然と王妃の顔を見つめていたが、メルジアがそうと名乗った瞬間、いたたまれないように伏せられてしまった。

「……お、お初にお目にかかります。レイミアと……レイミアと申します」

 声も切れ切れに名乗りを返したレイミアの身体は、恐怖で小刻みに震えていた。その頼りなげな身体を支えようとしたクレスティナを制して、メルジアが手を伸ばす。王妃はレイミアを側の長椅子に座らせると、自分もその隣に腰を下ろした。その間も、レイミアの瞳は苦しげに綴じられたままであり、時折、呼吸さえままならない様子を見せていた。

「どうか……お顔をお上げになって」

 そんなレイミアの姿を目の当たりにして、メルジアの声も幾分詰まり気味であった。彼女の罪のすべてが、そこにあった。一方、王妃の言には逆らえぬ、とレイミアは顔を上げようとしたが、九年前の心の傷が、どうしても完全に隣人へ顔を向けるのを拒んでいた。

「突然、押しかけてしまって……けれど、一日も早く貴女にお会いして、お詫びを申し上げたかったのです」

 王妃は何を言っているのだろう? しかし、疑問の声さえ、喉に張り付いてしまったように出てこなかった。

「九年前、私が貴女や貴女の御両親にしたことを本当に申し訳なく思っています。人として、子を持つ母親として、決して許されぬことをしました」

 訥々と、王妃が語り始める。その声に偽りがないことを、レイミアは信じられない思いで聞いていた。

「あの日――怒りに任せて送り出した使者が帰ってきた日、私は庭で遊ぶ娘たちを見ていて、はじめて自分の愚かさに気付きました。もし自分の娘たちが不当に奪われてしまったら……」

 その時、もし自分がいなくなったらどうするか、と第一王女に尋ねたら、小さかった娘は途端に涙を浮かべたものだった。

『母様がいなくなったら、私たち死んじゃう。なぜそんな悲しいことを言うの? 母様、ずっと傍にいて。どこへも行かないで』

 レイスターリアの王女として教育を受け、それに相応しい自信を培ってきた。サイファエールに嫁ぐ日、同じように異国から嫁いできた母から、必ず王子を生んで幸せになりなさいと励まされた。しかし、生まれたのはいずれも王女ばかり。焦っているところへ、夫の浮気を確信してしまった。メルジアの父、先のレイスターリア国王は愛妻家で、生涯、メルジアの母しか愛さなかった。レイスターリアでもサイファエールでも、国王が数人の妃を持つことはこれまでに何度もあった。しかし、そうは知っていても、自分の夫が他の女を愛するとは思わなかったのだ。だから、王宮にレイミアを迎えようとしている夫に出し抜いて、密使を送った。その時は、心を病むほどの後悔をすることになるとは思いも寄らなかった。

「神はそんな浅はかな私を見ていらっしゃいました。だから私に王子を賜れなかったのです。そして、貴女に二倍の喜びを……」

 八年前、レイミアのために建てた月神の神殿に、メルジアは暇さえあれば通っていた。

「レイミア殿、私はこの罪を一生かけて償うつもりです。もう二度と、貴女に悲しい思いはさせませぬ。サイファエール王妃の名にかけて、貴女方を守ります」

「王妃、様……」

 メルジアの力強い言葉に、レイミアの瞳が初めて彼女を映し出した。メルジアには、それだけで充分だった。許して欲しいなどとは思っていない。自分はそれほどの罪を働いたのだから……。

「この次、お会いするのは王宮です。王子を産んだ妃として、胸を張っていらして」

 まるで娘を気遣う母のようにレイミアの頬を撫でると、メルジアはゆっくりと立ち上がった。クレスティナに向かって頷きかけ、ふと長椅子を振り返る。

「一昨日、陛下がダーズワールの村に使いを出されました。ひと月後には、お母上とお会いできますよ」

 突然の訪問、突然の謝罪、突然の再会予告――混乱し、何も考えられないレイミアの耳に、扉へと向かう王妃の衣擦れの音がやけに後を引く。それで、我に返った。

「あのっ……」

 声がうわずる。それでも、肘掛けを支えに椅子から立ち上がると、怪訝そうに振り向いた王妃に向かって言った。

「せ、せっかくお越し頂いたのですから、その、子どもたちに……子どもたちに会って行って下さいませんか? その、ご、御迷惑で、なければ……」

 今度は、メルジアが呆然とする番であった。

「……良いのですか……?」

 そう言った自分の声が震えていた。

「良いもなにも、子どもたちにとって王妃様は……もうひとりの、母親なのですから」

 そう言って遠慮がちに微笑んだレイミアの顔を、メルジアはもはや見ることができなかった。

「――かたじけなく、存じます……」

 それだけ言って、メルジアは顔を覆って泣き出した。



 王妃がレイミアに案内されて双子に会っている間、イスフェルはシダとパウルスを客間に呼び出した。彼らが訪れてくれたことは、王宮の状況をひとつでも知りたい彼にとって、願ってもない好機だった。

「式典の準備で皆、忙しくしてる。この間、書斎に行ったら、書記官長が宰相補佐官はまだ戻られぬのかと宰相閣下に詰め寄っているところだったぞ」

 確かに細かいところの段取りまでしておいたが、全体を動かそうと思ったら、やはり当事者がいなければ始まらない。書記官長の苦労を増やしてしまったことを、イスフェルは少し心苦しく思った。

「それで……王弟派は?」

 途端、シダの眉間に深いしわが寄る。今にも喚き出しそうな新人の機先を制し、パウルスが口を開いた。

「巫女殿を盾にした件だが……ルアンダ様に見事に持っていかれたぞ」

「……どういうことです?」

 訝しげな三人に、パウルスはルアンダが宴の席で《太陽神の巫女》にわざとらしく礼を述べたことを話し、深く溜息を付いた。

「おかげで邸宅の前は御機嫌伺いの長蛇の列だそうだ。ほら、例の、式典で王位継承者の発表があるとかいう噂、あれが式典中止の撤回で見事な復活を遂げてな。それも手伝ったというわけだ」

「まったく忌々しい。真実をオレが流してやろうか」

「シダ」

 唾棄しそうな勢いで言うシダを、イスフェルは静かに首を振って宥めた。あのような事は、いずれ必ず表に出てくるものだ。わざわざシダが口を汚す必要はない。

「妻と息子が大浮かれなのに対して、王弟殿下はお静かなものだ」

 パウルスの言に、シダが呆れたように首を竦めた。

「それはそうですよ。勘違いでも浮かれる理由がない」

 それを聞いて、イスフェルの藍玉の瞳が物思いエルーリの湖に沈む。

 青年自身、王弟と言葉を交わしたのは、学院時代にたった一度きり、それも王宮の回廊で偶然出くわした時だった。道を譲ったイスフェルに、トランスは「杯の水は、いつか涸れる」とだけ言い残し、去っていった。それがイスフェルの誕生祝に「いつも幸福の水が溢れているように」とトランスから贈られた杯のことだと知った時は愕然としたものだ。だからこそ、王弟派の台頭にいっそう敏感になった。だが、遠征に発つ以前、父の旧知から、父とトランスが良き友、良き好敵手だったと聞かされ、イスフェルの心は違和感を滲ませ始めていた。彼自身の友人たちを大切に想う気持ちも、それに影響したのだろう。

(心を分かち合ったはずの友が、時を経て剣を手に向き合うことなどよくある話だ。トランス殿下の勝手な振る舞いが宮廷を混乱させたことは否定できない事実――)

 最初は宴での嫌味などで済まされていたものが、やがて貴族たちの口利きとして遠ざかっていた宮廷に頻繁に出入りするようになり、公共事業に対する口出し、果ては外国の使者との勝手な謁見と、今では国王自らが注意することもしばしばである。

(それなのに、今さら二人の友情が元に戻らないかなどと……)

 以前、リグストンを巧く懐柔できないかと言ったセディスを笑ったのは、イスフェル自身である。できないものは、できないのだ。彼が生まれて成人するまでの間、二人の心は遠ざかっていたのだから。そして、今度の即位記念式典で、それは決定的になってしまうのだから――。

 顔を上げたイスフェルは、再び問いを発した。

「父上は、あれから動かれたのだろうか……」

「さあ……オレたちは傍に居る書記官じゃないからな。たとえそうだったとしても、宰相閣下がこんな大事を周囲に気取らせるはずがない。それはおまえが一番知ってることだろ」

 王宮は目と鼻の先だというのに、何も知ることができない自分を、イスフェルは不甲斐なく思った。せめて、ユーセットかセディスを王宮に戻せればいいのだが。

(――いや、オレは父上に御三方を頼まれたんだ。これ以上、大切な役目が他にあるものか)

 イスフェルは深呼吸して思い直すと、話をしているパウルスの声に再び耳を傾けた。

「この間の勝利の宴には多くの貴族たちが来ていたが……人目がありすぎて、かえって動けなかったのではないか?」

 首を傾げるパウルスの横で、シダは大きく息を吐き出した。

「なにはともかく、宰相閣下がウチの閣下を最初に選ばれたのは、さすがというべきだな」

 遠征の道中からずっと、今回の件に関わっているのが宰相と侍従長のみということに、シダは多少なりとも不満を感じていた。宰相の告白の後、鷹巣下りに同行した四人は、別件を装ってトルーゼの部屋に呼ばれ、さらに詳しい報告をさせられていた。

「王家の問題を近衛抜きでできるわけないだろうが」

 セディスが呆れたように言ったが、シダには聞こえなかったようである。彼は大仰に顎に手を当てて考え込んだ。

「ふむ……なら、あとは、カウリス家に対抗できる名門が二、三欲しいな……」

「おぬしが策士だったとはな、シダ」

 凛とした声にその場に居た者たちが振り返ると、そこには腰に手を当てたクレスティナが立っていた。

「なかなか笑わせてくれるではないか」

「小隊長……」

 それまでの威勢の良さはどこかへ飛んでいってしまったようである。急に小さくなったシダを、他の者たちは声を立てて笑った。

「クレスティナ殿、お帰りですか?」

 シダにセディスにクレスティナ。彼らと居ると、イスフェルはいつもまだ学院に居るような気になった――ユーセットに言うと、まず怒られるだろうが。

「ああ。……おぬしはいつ帰る?」

「六日後に、御三方と御一緒しようと思っています」

 その返事にふっと笑うと、クレスティナは正面に流れていた黒髪を、後ろに払った。

「おぬしらしいが……片足は針のむしろを行くことになるぞ」

「隠したところですぐにバレることです。難破船調査の報告書は、ただの紙切れも同然ですし」

 落胤が存在したという事実は、次代の玉座を狙う者たちをさぞ怒り狂わせることだろう。そのうえ、それを王宮へ連れてきたのが対抗勢力筆頭の懐刀と知れれば、怒りは憎悪さえ超えていくに違いない。だが、イスフェルはそこから逃げるわけにはいかなかった。

「では、六日後に。御三方を宜しく頼むぞ」

「はい」

 シダとパウルスの両名を従えて、クレスティナは廊下を歩き出した。と、突然、立ち止まる。

「――ああ、大事なことを忘れるところだった。セフィのことだが、即位記念式典が終わったら、すぐに聖都へ発つそうだ。彼女にはずっと王都にいてもらいたいものだが――残念だな」

「……ええ」

 脳裏に大神殿で別れた少女の笑顔が浮かぶ。わかっていたことだった。少女は、即位記念式典のために王都へ来たのだ。それが終われば、もとの場所へ帰ってしまう。それなのに落胆を禁じ得ない自分の心を、イスフェルは持て余し、小さく溜息を付いた。

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