第八章 陰謀の王都 --- 4

 外で自分を呼ぶ声がしたような気がして、セフィアーナは馬車の窓から顔を出した。すると、行く手に建つ大きな屋敷の玄関で、七、八歳くらいの少女が大きく手を振っているのが見えた。

「あれは……」

 風になびく巻き髪を押さえながら振り返った彼女に、向かいに座っていた宰相家の家宰セルチーオが微笑みながら頷く。

「はい。サリード家の御息女エンリル様でございます」

「まあ……」

 遠征から帰ってからというもの、様々な行事に引っ張り回され、ウォーレイに「是非に」と招待されてから、既に九日が経っていた。玄関先まで出迎えてくれているところを見ると、馬車がいつ来るかと待ち侘びていたのだろう。

 広大な庭の外周を巡る緑の小径こみちを抜け、馬車は滑るように楕円形の小階段の前に到着した。

「巫女さま!」

 馬車から降り立ったセフィアーナに、先程から手を振り続けてくれていた少女が、大きな灰色の瞳を輝かせて駆け寄って来た。彼女の肩の上で、ふたつに分けられた淡い金の髪が跳ねる。兄が兄なら妹も妹で、幼いながらも美しい少女だった。

「はじめまして、エンリル様」

「巫女さま、ほんとうに来てくださったの! うれしい!」

「これ、エンリル」

 客人に飛びつく娘を、後ろに控えていた母ルシエンがたしなめる。

「セフィ殿、ようこそおいでくださいました」

 早速、手を引いてくるエンリルを微笑ましく思いながら、セフィアーナはルシエンに会釈した。

「せっかくお招きいただきましたのに、お伺いするのが遅くなってしまって……」

「いいえ。こちらこそ、お忙しいのに我がままを言ってしまって」

 二人は既に王宮の宴で会っており、敢えて名乗りを交わすことはなかった。

 セルチーオの先導で客間に案内されながら、セフィアーナはふっと微笑んだ。暖かみのある橙色の屋根、白い壁を覆う瑞々しい緑の蔦、庭に咲き誇る花。そこに住む誠実で穏やかな夫婦。なぜあの青年――イスフェルの心が強く優しいのか、わかったような気がした。

「巫女さまはいつから竪琴を始めたの?」

 セルチーオが入れてくれた紅茶を飲むセフィアーナの顔を、隣に座ったエンリルが興味津々な眼差しで覗き込んで来、セフィアーナは思わず吹き出してしまった。

「六歳ぐらいの時です」

 その頃、村を訪れた吟遊詩人の竪琴の音色に、幼いセフィアーナは心を奪われた。自分も弾いてみたいと養母に言うと、シュルエ・ヴォドラスはとても驚いた顔をした。両親の唯一の手がかりである銀の竪琴をもらったのは、その時のことである。

「六さい? エンリルは今、八さいだから、今からたくさん練習すれば、巫女さまみたいに上手になれる?」

「勿論です。もう何かお弾きになられますか?」

「ううん。まだ、『小鳩』の最初しか弾けないの」

 それを聞いて、向かいに座っていたルシエンが苦笑した。

「私が教えてやれればよいのですが、嗜まないもので……。竪琴のできる友人が今、引っ張りだこなのですよ」

 その原因が自分にあることを知っている少女は、困ったように首を傾げた。

「ウォーレイ様からお聞きしました。皆様が竪琴を好きになってくださって、とても嬉しいです」

「セフィ殿は竪琴をどなたに?」

「最初は旅の楽士の方に……。でも、その方がいなくなってしまったら、全然先に進まなくて、とても大変でした。でも、どうしてもこれを弾きたかったから……」

 ダルテーヌの谷はシェスランの香水の名産地であり、景色がとても美しいことから、山奥にも関わらず、旅人が訪れることがままある。彼らがやって来るたび、セフィアーナは竪琴を抱えて坂道を下ったものだった。しかし、無論、彼ら全員が竪琴を弾けるはずもない。意気消沈する少女に、心優しい旅人が竪琴の弾ける仲間に頼んでみようと言ってくれたこともあり、実際に何人かがわざわざやって来てくれたこともあった。もう少し大きくなってからは、リーオの街の竪琴奏者に飛び入りで指南を請うたこともある。

 大切そうに竪琴を撫でる少女に、ルシエンは首を傾げた。

「その竪琴に、何か思い入れでも?」

「――あ、はい……」

 一瞬、自分の身の上話などしてもいいものかと迷ったセフィアーナだったが、訊かれた以上は答えなければならないだろうと思い、素直に事情を語った。一方、今年の《太陽神の巫女》が孤児だということを、ルシエンは噂でなんとなく聞いていたが、まさか彼女の象徴ともなっている竪琴にそのような経緯があったとは思いも寄らない。少女の隣で娘が爪弾く『小鳩』の拙い音色が、やけに切なく聞こえた。

「いつか、父や母の耳に届けばよいのですが」

 セフィアーナは笑いながら平然と言ったが、それが強がりであることは、ルシエンの目に明らかだった。彼女は持っていた茶杯を受け皿に戻すと、真っ直ぐと少女を見つめた。

「きっと、届きますよ」

「え?」

「貴女の竪琴は――歌もですけれど、本当に胸に響きますもの。おやめにさえならなければ、いつか、きっと」

 春の日溜まりのように暖かなルシエンの笑顔に、セフィアーナの強張っていた心が解かされていく。

「はい……」

 思わず溢れそうになった涙を、セフィアーナは紅茶と一緒に飲み込んだ。

 その時、ひとり、竪琴と格闘していたエンリルが小さな唸り声を上げた。いつものところでまた間違えたのだ。

「エンリル様、指がこの時に――こうです」

『小鳩』はサイファエールの子どもが最初に憶える歌のひとつで、竪琴の手習い曲にもなっている。セフィアーナが自分の竪琴で手本を見せてやると、エンリルはそれを何度も繰り返し、再び最初から弾き始めた。そして――。

「あ、できた! 巫女さま、できた!」

 長椅子に座ったまま嬉しそうに跳ねるエンリルに、セフィアーナも一緒になって喜んだ。それから二人して続きを弾く。ゆっくりではあったが、二度ほど最初から最後まで通した間、途中で音が止まることはなく、最後の音が爪弾かれた時、ルシエンやセルチーオ、侍女たちから盛大な拍手が沸き起こった。

「やったあ! 巫女さま、ありがとう!」

 エンリルの満面の笑顔に、セフィアーナはやんわりと首を振る。彼女には、エンリルのような小さな子が竪琴に興味を持ってくれただけで有り難かった。

「エンリル、巫女さまに上げたい物があるの。エンリルの部屋に来て!」

 ふいにエンリルが立ち上がり、セフィアーナは手を引かれるまま螺旋階段を上った。二階の廊下を東側に向かい、開かれた三番目の扉に足を踏み入れる。

「まあ……」

 その可愛らしい部屋に、セフィアーナは目を細めた。天井と柱の白と壁の珊瑚色が部屋を明るく見せ、統一された意匠の木材の家具が適度な間隔を取って置かれてあった。窓にはレースの窓布がかかり、初夏の風に軽く揺れている。

 真っ直ぐと寝台に駆け寄っていったエンリルは、枕元の引き出しを開けると、その中に入れておいた小さな箱をセフィアーナに差し出した。

「これ!」

 セフィアーナが受け取って蓋を開けると、中から蒼い手布が出てきた。

「これは……」

 その時、エンリルが無茶をしないかと追いかけてきたルシエンが、セフィアーナの肩越しにそれを見て、藍玉の瞳を見開いた。

「まあ、エンリル。また作ったのですか?」

「うん!」

「また」という言葉にセフィアーナが首を傾げると、それに気付いたルシエンが困ったように笑った。

「以前、イスフェルの成人祝いにも同じ物を――あ、色も紋章も違いますけれど」

 イスフェルの時は紫色の絹布に宰相家の紋章の刺繍であったが、今回は蒼色の絹布に太陽神の紋章が縫い取られてあった。

「どうか、受け取ってやって下さい」

「そんな……」

「どうか」などと頼まれる立場に、セフィアーナはいない。彼女は膝を折ると、エンリルを見上げた。

「エンリル様、ありがとうございます。大切に使わせて頂きます」

 すると、エンリルが大きな灰色の瞳を見張り、嬉しそうに母親を見上げた。

「巫女さま、イスフェル兄さまと同じことを言って下さった!」

「イスフェルと?」

 再びセフィアーナが目を瞬かせていると、ルシエンは今度こそ申し訳なさそうに少女に向かって礼をした。

「これ、エンリル。セフィ殿はイスフェルのお友だちでもあるのです。あまり失礼なことを言ってはいけませんよ」

 しかし、兄が大好きなエンリルに、それは逆効果であったようだ。

「巫女さま、イスフェル兄さまのお友だちなの?」

「あ、えっと……はい」

 返事が遅れたのは、今まで自分とイスフェルの関係が何なのか、考えたことがなかったからである。しかし、聖都で出会ってから、セフィアーナは何度も彼の言葉に救われていた。少女の心の中で、彼は確かに失いたくない人間のひとりになっていた。

『きみが居てくれて、本当に良かった』

 テフラ村で、イスフェルは少女にそう言ってくれた。彼にとっても、セフィアーナは必要な存在なのだ。

(……そっか。私たちって、友だちなんだわ)

 そう思うと、はっきりと頷くことができた。そして、ふと九日前、大神殿の回廊を去っていくイスフェルの背中を思った。

(イスフェル、本当に明日まで帰ってこないなんて……)

 今回は以前のように、イスフェルの心に不安を覚えたりはしなかったが、別の心配が彼女の胸中で頭をもたげていた。

『イスフェルは、おそらく式典まで戻らぬ。御三方のためだが……或る方面からは大きな非難を浴びることになるだろうな』

 式典が終わったら聖都へ帰ることをクレスティナに告げた時、女騎士は少し顔を歪めてそう言った。「或る方面」というのを、今のセフィアーナは具体的に知っている。王宮の宴で、ゼオラが所望した曲を奏でている最中に突然やって来て、息子の命の恩人だと散々周囲の人間に触れて回った貴婦人――王弟妃ルアンダ。ゼオラが間に入ってくれなかったら、そのまま彼女の館に連れて行かれるところだった。カイザール城塞で、クレスティナに「リグストン殿下を許して欲しい」と請われ、それを受け入れたセフィアーナだったが、まさか王都に帰ってそれを利用されるとは思わなかった。

(イスフェルが危険な目に遭わなければいいけど……)

 そんなことを考えていると、突然、視界いっぱいに、エンリルの顔が映った。驚いて身を引いたセフィアーナを、エンリルがにこっと見つめる。

「巫女さま、イスフェル兄さまのお部屋見る?」

「えっ?」

「こっちよ!」

「エ、エンリル様っ!?」

 またしても強引に手を引かれ、セフィアーナは困ったようにルシエンを振り返った。部屋の主がいないのに、勝手に入っていいわけはない。しかし、母親の返事は違った。

「かまいませぬ」

 セフィアーナは知らぬことだが、貴族の屋敷では個人の部屋にも客間と私室が設けてある。さすがに私室には親兄弟でも無断では入れないが、客間の方は基本的に出入りが自由であった。

「ここよっ」

 そう言って案内されたのは、エンリルの部屋とは反対側の、突き当たりの部屋であった。天井や柱はやはり白だったが、壁は落ち着いた青褐色で、家具も重厚なものが置かれてある。南側に広めに取ってある露台には、白い円卓と同色の椅子が置かれてあった。そこで、シダやセディスといった友人たちとお茶でも飲むのだろうか。部屋の北側に視線を巡らせた時、セフィアーナは思わず息を呑んだ。

「本が、たくさん……」

 壁一面、足下から天井までぎっしりと詰まった本棚が彼女を圧倒した。

「イスフェル兄さま、おうちにいる時はたいてい御本を読んでいるの。エンリルもたくさん読んでもらったわ」

 エンリルの言葉に頷きながら、セフィアーナはその背表紙を眺めた。各国の歴史や兵法、地理の本などは、今回のマラホーマ遠征でイスフェルの立てた作戦の基盤になったことだろう。彼女からすればまるで魔法のような出来事も、彼にとってはいちいち裏付けがあってのことなのだ。セフィアーナは改めてイスフェルの才能と努力に感心した。

「『薬草図鑑』……?」

 棚のほぼ中央に収まっていたその本は、少女の指五本分ほどの厚さがあり、引っ張り出して見ると、机に置かずにはいられない重さがあった。

「イスフェル兄さま、お薬を作るのも上手なのよ。お庭に小さな薬草園もあるの」

 それを聞いて、そういえば、と、セフィアーナは唇に手を当てた。カイザール城塞でリグストンの一件から目覚めた後、イスフェルの的確な指示がなければ毒針で死んでいただろうと、クレスティナから言われたのを思い出したのだ。

(なんだか、もう一度お礼を言わなくちゃいけない気分……)

 セフィアーナがくすりと笑った時、入口の扉がこつこつと叩かれた。

「サリード家の小さな楽士はこちらかな?」

 そう言って顔を覗かせたのは、この屋敷の主人ウォーレイだった。

「父さま!」

 エンリルが父親に向かって突進する。

「エンリル、巫女さまのおかげで『小鳩』を弾けるようになったの!」

「おお、それは良かった。さすがは巫女殿」

 そう言って微笑む顔は、やはりイスフェルとよく似ていた。

「父さま、もう一度だけ練習したら聞かせてあげる。巫女さま!」

 エンリルとセフィアーナが仲良く階下に向かうのを見て、ウォーレイは濃い浅葱色の瞳を見張った。

「エンリルは相当、巫女殿が気に入ったらしいな」

「イスフェルもシェラードもいないので、淋しいのでしょう」

 エンリルは、下の兄シェラードとでさえ七つも年齢が離れている。やっと言葉を覚えてきた頃、イスフェルが王立学院に入り、会えるのは年に数えるほどしかなかった。それでもシェラードが遊び相手になってくれていたが、彼もまた、四年前から学院寮の世話になっている。友人と遊べない雨の日など、エンリルは兄たちと遊びたいと駄々をこねることがあった。

「――それはそうと、このような時間にいかがなさったのです? まさか、わざわざエンリルの竪琴を聴きに帰られたのではないのでしょう?」

 ルシエンは冗談で言ったのだが、ウォーレイの頬は正直にもわずかな強張りを見せた。

「貴方……」

 妻の冷ややかな視線に、天下の宰相は慌てて咳払いした。

「いや、それがすべてではないぞ。勿論――」

 その時、ふいに傍の飾り棚に収まっていた杯が目に留まった。思わず、言葉を失う。

 東方で作られたという、陶磁器。透き通った白地に、青い絵の具で天界の花や鳥が描かれている。――王弟トランスから、「幸福が涸れぬように」とイスフェルの誕生祝いに贈られた品だった。

「貴方……?」

 夫のただならぬ様子にルシエンがその腕を取った時、彼はひどく真摯な表情で彼女を見下ろした。

「ルシエン、すまぬが……パウデッドを作ってくれるか」

「え……」

 今度はルシエンが言葉を失う番であった。

 パウデッドとは、彼女の故郷ズシュールの茶菓子である。ウォーレイを始め、屋敷の者はそれを好まなかったが、唯一、美味しいと言ってくれた人物のために、昔はよく作ったものだった。

「貴方……」

「――うむ。久しぶりに、あそこへ行ってみようと思うのだ」

 夫の決意が籠もった言葉に、ルシエンは時代がうねる音を聞いたような気がした。

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